1話 ニートから馬主へ
晴れ渡る空の下、木漏れ日に照らされた林道を葦毛の馬が楽しそうに走っていた。その背に乗っている青年も、楽しそうにしている。
だが、林道を抜け家が見えた時、青年の口から発せられたのは
「げっ……」
と言う、ものだった。
それは自宅のバンガローの、玄関前に止まっている車が見えたからだ。
この辺りでは見かけない、角張った旧式のランクル。艶消しの黒で塗装され、泥の跳ねた跡が乾いて黄土色に下腹部を彩っている。
「ソヨカゼ、ストップ」
青年、深森信忠の声に、牝馬のソヨカゼは耳をピクピクと反応させると、スピードを落として車に並ぶように止まった。
そして「どうしたの?」とでも言うように、信忠の方に首を曲げる。
「なんか、嫌な予感がする。智子叔母さんがお盆前のこの時期に来るなんて、何かあると思わないか?」
信忠の言葉にソヨカゼは「さあ?」と興味無さそうに、ランクルの周りを歩き始めた。
そこに玄関から出てきた有馬智子が笑みを浮かべながら話す。
「あら、いい勘してるわね。でも、ハズレよ。私が持ってきたのは、とても良い話だもの」
胡散臭いことこの上ない、と信忠は思う。しかも地獄耳なのか、自分の言葉は筒抜けだった。
「何ですか?」
「ふふふ。ねえ……ソヨカゼを思いっきり走らせたいと思わない?前に言ってたわよね」
智子の言葉は間違ってはいない。信忠の住む場所は、長野の山の中だ。こんな所に牧場があるとは、近隣の親戚以外は殆どが知らないだろう。
静かな場所で信忠は大好きだが、ソヨカゼにしてみれば、いつも坂道の林道と大牧場に比べれば猫の額くらいの草地だ。だからこそ、たまには広い草原を思いっきり走らせてみたい、とボヤいた事を信忠は思い出した。
「あ、何処かの牧場を借りれるんですか?」
「んー、それに近いわね。ま、はっきり言うと、ソヨカゼをレースに出してみましょうって事よ」
なんの事もないように、平然と言う。
が、信忠にとっては意味不明だ。
困惑してる信忠をよそに、智子は話続けた。
「前からお父さんに頼んでいたけど、今回は、ソヨカゼはノブ君の馬だ。ノブ君が良いと言えば構わない、って言ってくれたの。だから……ね、いいでしょ?」
馬が嫌がるからと化粧を全くせず、香水も決して使わない。それなのに、智子の表情は歳を感じさせないくらい、可愛らしいものだった。
だが、信忠は知っている。
叔母がこう見えて、現役時代激戦を乗り越えてきた騎手であることを。
そして現在は騎手を引退して、調教師になったことを。
「色々と言いたいですが、ソヨカゼはもう2歳ですよ。そして今は7月。間に合わなくないですか?」
「ふふふ。問題無いわ。お父さんの事だもの、ソヨカゼはゲート練習してるんでしょ?」
確かにしていた。もっとも、練習というよりソヨカゼも信忠も遊びの一環として毎日している。
だから、智子の言葉に信忠は頷く。
「ほらね。あとは基本的な馴致に至っては、ねぇ?」
馴致とは、馬を競走馬とするための訓練を指す。が、鞍は勿論、ブレーキ練習も何も毎日のように信忠を背に乗せて走らせているのだ。それも山道を。
出来ない事のほうが少ないだろう。
「分かった。馬主は爺さんなんだし、好きにしたらいいよ。ソヨカゼと離れるのは寂しいけど、無理だけはさせないでくれるんだよね?」
「勿論。あ、それと馬主はノブ君よ」
「えっ!?いやいや、馬主って審査必要でしょ?何言ってるの」
「あらら。やっぱりそういうところは、お父さんも変わらないわね。お父さんってああ見えて、とてもJRAに顔が効くのよ。ノブ君が18歳を迎えた後には、手続きをしてたみたい。実際はお父さんの馬主の資格を、ノブ君が相続してるみたいなものね」
もはや何が何だか分からなくなってきた。
「そうそう。新馬戦は今のところ、9月の3週に中山でやるつもり。必ず応援に来てね?」
「ちょ、ちょい待って!中山って千葉の船橋でしょ。交通費無いんだけど……」
その言葉に智子は呆れる。
「今まで、欲しい物とかどうしてたのよ?」
「ん?特に無いが。まあ、ニートだし食べさせて貰ってるだけ、爺さんには感謝してるぞ」
その言葉に、智子は軽くため息をつく。
「ねぇ……ノブ君。世間一般では、ノブ君みたいなのは牧場スタッフって言ってね、当然お給料が出てるわよ?まったく、若いのに世捨て人みたいな生活してるわねぇ」
そうして散々好き勝手に言い放つと、智子はランクルを走らせて帰っていった。
嵐のように過ぎ去るのを見送ったあと、残された信忠とソヨカゼは放牧する為に牧場へと向かう。
「レースだってさ……怪我だけはしないでくれよ」
その言葉に耳をピクピク動かすと、ソヨカゼは楽しそうに歩き続けていた。
その後、信忠はお爺さんに確認したところ、小学生の頃に家出してきた時から、今までずっと給料が振り込まれている通帳を渡される。
その金額に驚くも、よくよく考えてみたら特にお金の使い道も無かったのであった。
【ソヨカゼ】
スピード:A+
勝負根性:A
パワー:S
瞬発力:B
柔軟性:B
健康:B+
精神:A
賢さ:S+
距離適性:不明
スキル:不明