4.【無理だと言っても、心は殺せない】
私達は森の中を進んでいった。
森の中と言っても草は刈り取られ、土はよくならされている。
公園として管理されている場所だから、歩くのに苦労はない。
しかし、そんな道でも延々と歩いていては疲れてしまう。重い荷物を抱えて、目的地も知らされないままだから、余計だった。
私が何か尋ねても六六六は無視を決め込み、どんどん進んでいってしまう。歩くペースが速いのでついて行くのも一苦労だった。
(なんで私がこんなことしなくちゃならないのよ)
その六六六の態度にが気に入らず、
(ピクニックに来たんじゃないのよ、私は)
次第にイライラが募っていった。
(大体なによ偉そうに)
(私のことをなにも知らない馬鹿だとでも?)
(少し頭がいいからって何様のつもりよ)
(性格の悪いオカルトマニアが)
(なんだってんのよ!)
ふと、六六六が足を止めた。
やっと着いたの?そう希望を持ったのも束の間、それはすぐに絶望に変わった。
六六六はこちらを振り返ると、顎で道の外れ ―― すぐ右手側、柵の向こうに広がる林、草が氾濫していて、人が立ち入るのを拒否するかのような道を示した。
まさか。
「こっちよ」
淡々と六六六は言った。
「こっち、って・・・・・・」
「だから、こっちよ」
再び林の方を顎でしゃくった。そのまさかだった。この林の中を突っ切っていく。そうこの女は言っていた。
冗談でしょ?
「さっさと行くわよ」
六六六はそう言うと、なんの躊躇もなく柵を乗り越え、林の中に身を投じた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は慌てて彼女を呼び止めた。六六六は無言で私のことを睨めつけてくるが、ここは私も負けられない。
「どうしてそんな所通らなくちゃ行けないのよ?そもそも人が入っていいところじゃないでしょ、そこ!」
第一、危ないし。暗くて何があるかも分からないし、虫だってうようよ居るし、この辺は蛇だって出る。それなのに、なのに。
「何の意味があるって言うのよ!」
「意味があるからよ」
さらり、と六六六入った。それだけで十分だ。暗にそう言っていた。当たり前だから。そうするべきだから。無駄な説明はしたくないから。
「嫌なら」
それが納得できないのなら。
「帰っていいわよ」
六六六は ―― 口の右端を吊りあげてながら、更に続けた。
「あなたのワンちゃんへの想いは、その程度だったってことね」
邪悪に、笑った。
私のことを嘲笑して、蔑んだ瞳を向けてきた。
(その程度)
そんな六六六の態度が、私の神経をささくれ立たせる。
(ですって?)
私は強く唇をかみしめた。少し血の味がするくらいに、強く、強く。
(なにも知らないくせに)
こんな女に知ったような口をきかれたくなかった。
(よくもまあそんなことが言えるわね)
(セナが死んでどれだけ私が悲しんだか)
(なにも知らないくせに)
(なにも知らないくせに!)
「行くわよ!行くに決まってんでしょ!」
私は六六六を怒鳴りつけた。
「誰が行かないなんて言ったのよ!理由を聞いただけでしょ!軽口叩く暇があったらさっさと案内してよね!」
「フフ、はいはい」
六六六は微笑して(なによ、余裕ぶって!むかつくわね!)、草木の中に入っていった。私も柵を乗り越えて、その後に続いた。
どれくらい歩いただろうか。
ただ、歩き続けていた。十分?三十分?一時間?
もっとかもしれないし、もっと少ないかもしれない。
寒さと疲れでもう時間の感覚が分からなくなっていた。荷物を抱える手は震え、脚も限界を訴えている。一体どこまで行くのだろう。
それ以前に、ここってこんなに広かっただろうか?
私は疑問に思う。
この自然公園は幼少の頃から私の遊び場だ。柵の中なんかには入ったことはないが、真っ直ぐ突っ切ればその内向こう側に抜けてしまうはずだ。
元が広い森だったとしても、今は公園。人が迷うような獣道は存在しない。そのはずだ。
なのに、今この場所はどうだ?ここは人の手の入った林などではない。どこまで行っても見知らぬ景色の支配する、未開の森だ。
来た道を見ても、行く道を見ても、木々が立ち並ぶ森しかない。こんな広大なスペースが石神公園にあるわけないのだ。
生えている植物すら、未知の物に見えてくる。いや、実際知らない植物だった。
まるで、前人未踏のジャングル ―― いや、「ロード・オブ・ザ・リング」の森の中に迷い込んだようだ。
今にもあの王の亡霊達に追われてしまいそうな、不気味な雰囲気があった。
それに、空気。この空気だ。まるで溶かし立ての水を混ぜ込んでいるかのような冷たさを持った、こんな寒々しい空気を私は知らない。
吸ったことがない。なにもかもが未知の物だ。
(ここは、石神公園なんかじゃない)
心臓が、痛いくらいに脈打つ。
(日本でも・・・・・・ううん、それどころか、地球ですらないのかもしれない)
前を歩く六六六を盗み見る。
(目の前に居るのは、その住人)
その、黒一色の
(人の皮を被った、怪物)
後ろ姿を ―― 。
「着いたわよ」
魔女は言って、黒い緑の向こうに消えた。
我に返った私は、慌てて六六六を追いかけ、草の道を抜けた。林は終わった。そこで私は、息をのんだ。
(わぁ・・・・・・)
そこは林に囲まれた大きな空間だった。足下には短い草が申し訳程度に生えている。さっきまでの獣道とは違い、人の手入れが行われているような感じだった。
真上を見ると、森に阻まれていた夜空が広がり、満月が私達を照らしている。まるでファンタジーの世界だ。空から見下ろすと、森の中に出来た円形の集会所のように見えただろう。そう、動物たちが集まって、パーティをするような。
でも、空気は違った。ここはそんなメルヘンチックな空気は流れていない。それどころか、ひどく居心地が悪かった。経っているだけで、ここに居るだけで、何かに咎められているような、そんな感じがしていた。まともな人間が来るところじゃない。
(ここには)
そう直感が告げていた。
(なにか、悪い物が満ちている)
「この辺ならいいかしら」
六六六の言葉に私は妄想から解き放たれた。彼女の方を見ると、私を手招きしていた。私は黙ってその通りにする。
手を伸ばすと、彼女の肩に届くくらいの距離まで近づいた辺りで、六六六は手を突きだして、私に制止を求めた。
私は歩みを止める。
六六六はどこからか長い木の枝(多分、一メートルくらいかしら。それくらいはありそうだ)を拾っていて、それを地面に突き立てた。それをそのまま右へ左へと動かして、地面に何かを描いていく。
(なに?落書き?こんなときに?)
なんのつもりだろうかと訝しんだが、彼女が完成させた物を見て、私にもなんとなく察しがついた。
彼女が描いたのは図形だ。
直径半メートルくらいの円の中にまた一回り小さな円。その円に内接するように正三角形が描かれている。
多分これは魔方陣とか言う奴だ。
ゲームかアニメで見たことがある。それらに比べると、これは随分単純な物に見えた。
呪文だとか秘密の暗号みたいな物もない。無意味に描かれた子供の落書きにすら見える。
けど、この図形は子供の落書きなんかじゃなかった。
アニメみたいな子供だましの物でもない。この単純な図形の組み合わせは、得体の知れない不気味な空気を纏っていた。
禍々しい。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
「それじゃあここ、掘りなさい」
六六六は足下の図形を枝で指して言った。笑顔で。気持ち悪いくらい、嬉しそうな笑顔で。
「・・・・・・掘るって、土を」
「他になにを掘るの?」
「なにって・・・・・・」
私は反論して説明を求めようとした。だけど、やめた。なにを言われるかは分かっていたからだ。
「まあいいわ。じゃあ掘る物をちょうだい」
「掘る物?そんなもの、あるわけないじゃない」
「は?」
私は耳を疑った。
「じ、じゃあどうやって掘れって言うのよ!?」
私が聞くと六六六は呆れたように ―― しかし、笑いを堪えているようにも聞こえる ―― 言った。
「手で掘ればいいじゃない」
「手!?」
思わず私は叫んだ。
「手でなんか掘れるわけないじゃない!」
「あら、どうして?」
「どうしてって、あんたねえ」
ふざけるのも大概にしろ!そう言い放ちたかった。
なにを考えるの、この女。人間が素手で地面を掘る?
そんなことありえない。汚れるし、指を痛くしてしまう。それに足が踏んでいる感覚ではかなり硬そうだ。怪我をして、ばい菌が入ってしまうかもしれない。なのに、そんなことをやれっていうの?
狂気の沙汰だわ!できるわけない。
できるわけ・・・・・・ない、のに。
なのに。
なのに、この女は。
にっこり笑って。
(気持ち悪いくらい嬉しそうな)
笑顔で
「別に」
言った。
「やりたくないなら、やらなくてもいいわよ」
人を馬鹿にするような
(あなたの想いは)
蔑むような瞳を
(その程度)
私に向けた。
「・・・・・・誰もやりたくないなんて言ってないわよ」
「あら、『できるわけないじゃない!』って聞こえたけど?」
「普通ならそりゃそうよ!でも、それでセナが生き返るんならやってやるわよ!なんだってやってやろうじゃない!」
「あそう」
私の怒号にも、この女は微動だにしない。
「じゃ、掘って」
無感動にそう言った。
私の決意なんて、なんの足しにもならない。やることだけやればいい。そう言われているようだった。
「・・・・・・言われなくったって!」
私は段ボールを地面に置いて、図形に向かって座り込んだ。そしてその中心に爪を立てようとする。
強い抵抗を指先に感じた。予想以上に硬い。
これを掘るの?私は怖じ気づきそうになる。
しかし、これもセナのためだ。そう思い・・・・・・思い込んで、ようやく体に力が入った。引っ掻くように地面を掘り始める。
(イタっ!)
途端に指先に痛みが走った。
長めに伸ばした爪が地面に引っかかって、今にも剥がれそうだ。早くも心がくじけそうになる。
「どれくらい、掘ればいいの?」
「そうね、ざっと半メートルくらいかしら」
「半メートル・・・・・・」
この固い地面を、五十センチも。
「嫌ならやめても・・・・・・」
「嫌なんて、言ってないわよ」
六六六の言葉に反発するように、私は地面を再び掘り出した。
指先に力を込め、自棄になって地面を掻く。それを何度も繰り返す。指先に痛みが走っても、千切れそうになっても、私は掘り続けた。
後で笑っているだろう六六六に、弱みを見せたくない。この女になめられたくない。私がセナを思う気持ちを、馬鹿にしたこの女を見返してやりたい。
ただその一心で、私は掘り続けた。
♤
「もういいわ」
六六六に言われて、私は掘るのをやめた。
夢中になって掘り続けたため気付かなかったが、掘りあげたその縦穴は当初の予定よりも(目算ではあるが)十から二十センチ程深く掘られていた。
指には既に感覚がほとんどない。それが無事かどうかを確かめる。大丈夫、とは言えない状態だった。爪こそ剥がれなかったものの、手は泥で真っ黒。指先には血がにじみ、土くれと混ざって不気味な様相を醸し出していた。
「死体をその中に入れて、埋めて」
私は無言で言うとおりにする。段ボールからセナの死体を取り出して、丁寧に穴の底に横たえた。
そして文字通り血のにじむ苦労をして自分が掘った穴をまた埋めた。六六六の指示が飛び、私は言われるがままに埋め後を手で平らに整える。
「上出来ね」
六六六は満足そうに頷いた。
「じゃあ戻りましょうか」
元来た道を引き返す六六六に私は黙ってついていった。
私は疲れ切っていて口を開く気にもならない。黙々と歩いた。
そのせいなのかは分からないが、気付いたときには林を抜けていた。
行きの時とはまるで時間の感覚が違う。疲れていたから?どうなのだろう。行きの時の道のりは、何者かに見せられていた幻覚だったのかもしれない。
その後も何事もなく無事待ち合わせ場所だった入り口に着いた。携帯を見ると午前四時半。三時間半もこの公園にいたことになる。
「今日はこれで終わりよ」
ここでようやく六六六は口を開いた。
「早速だけど、お代をいただけるかしら」
お代?なんのこと?と一瞬思ったが、すぐにこの一連の作業が、六六六に頼んだ仕事で、その料金のことだ、と理解した。
私はコートのポケットから財布を出して、千円札を一枚抜きだし、差し出した。
六六六はろくに確認もせずにそれを袖に滑り込ませた。
「確かに。領収書は?」
なにかの冗談だろうか?とりあえず、私は首を振っておく。
「そう。なら、これで終わり。お疲れ様」
その後に、一呼吸置いてから、微笑して六六六は続けた。
「よく頑張ったわね」
突然かけられる、まったく予想外な優しい言葉。こいつの辞書にそんな言葉があったのか。
「ワンちゃんもきっと喜んでるわ」
それじゃあね、と言って、六六六は去って行く。
ようやく解放された!
六六六の後ろ姿を見て、私は心の中で歓喜した。やっと終わった。この馬鹿らしい、くだらない遊びが。
もうこんな女と関わり合いになることはないだろう。言葉を交わすことも、姿を見ることすらも。私はそれを喜んだ。そのはずだった。はずだったのに。
「待って」
私は、またも彼女を呼び止めていた。意識したわけではなく、口が勝手に動いていた。
「なあに?」
ゆっくりと六六六は振り向いた。外灯が微かに照らす暗がりの中だけど、私にはその表情がよく見えた。
楽しそうなその表情は、同時に誠実さのかけらも見当たらない。
そんな顔を見ても、私は尋ねずには居られなかった。
「戻って、来るの?」
セナは。
あの子は。
「本当に、戻ってくるの?」
遊びみたいな。くだらない。どうせペテンだ。
そんなことを思っていても、あり得ないことだと分かっていても、私は彼女に縋ってしまう。
彼女の言葉に。あなたが一言「ええ」と言ってくれれば。それだけで、私は ――でも。
「さあ」
彼女は、私の期待に応えてはくれない。
「それは、あなた次第よ」
私の脳裏にその厭味ったらしい笑顔を残して、彼女は去って行った。
♤
その夜。
私は夢を見た。
夢の中に入った瞬間、ここが夢だとすぐ分かった。
そんな、単純な夢。
そこで私はセナを連れて散歩していた。
いつもの公園を。見慣れた銀杏並木が延びる道を。
しかしその道は、ずっとずっと先まで続く、果ての見えない永遠だった。
リードに繋がれたセナは私に先行して歩いていた。
三本足を器用に使って、ゆっくりながらも着実に。
私もそれにペースを合わせて、一歩一歩を踏みしめた。
度々、セナは私の方を振り向く。
まるで私がちゃんとついてきているかを確認するかのように。
私は時々座り込んで、セナの頭を撫でてやる。
気持ちよさそうに愛犬は眼を細めた。
それは赤ん坊が笑ったときの顔に似ていて。私も自然に顔を綻ばせる。
この道が続く限り、ずっとこうしていられる。セナと居られる。これが、夢でなければ。
そう、これは夢だ。私は知っていた。分かっていた。いつまでも覚めないで欲しい。そう思った。
だけど、夢は覚めるものだ。永遠に続く夢は、多分ない。私が知る限りは。だから、そう。
だから、こう願うしかない。
できるだけ、長くこの中にいられますように、と。
そして、夢の中にいられる間は、笑っていよう。
せっかく、セナとまた会えたのだから。
私は銀杏の舞い散る中をセナと共に歩き続けた。
愛犬を繋ぐリードを、手放さないように強く握って。
♤
数日後。
私は昼食を採った後、自分の席から窓の外を眺めていた。
グラウンドではいつものようにサッカーをしたりキャッチボールをしたりしているグループがいくつかあった。
制服が汚れるのも厭わず、楽しそうに駆け回っている。
それは、実にありふれた日常。
平和な日常。
この前まで、もう私とは縁がないだろうと、そう思っていた場所。
そこに私は、帰っていた。
喪失の悲しみ。絶望。それは私から離れることなく、呪いのようにつきまとう。そう信じていた。
なのに、今私はなんの抵抗もなく、あまりにも自然に自分がここに居ることに、軽いショックを覚えていた。
悲しみが消えたわけではない。けれど以前感じていたような身を焦がすほどの寂しさは確実に薄れ、私はそれを冷静に受け止めていた。
あの夜に、セナの死体と一緒に、その悲しみも埋めてきたみたいに。事実、その次の日には、も私は自分を取り戻していた。佳奈や他の友人とも、以前のように接することが出来た。
これが、あの女の狙いだったのだろうか?ふと、そんなことを思う。あの夜の行動は、いわゆるセラピーだとか精神医療だとかそういうもので、なにかしらの意味があることだったのかもしれない。他の人もそうだったんじゃないだろうか。
やっぱり、あの女は詐欺師だった。命を蘇らせることなんて出来ない。当たり前だ。神様じゃないんだから。
でも、私のように悲しみに暮れる人間を救うことは出来るんだ。生き返らせるのは、人の心。噂もそういうことに尾ひれがついた話だったのだろう。騙された。
でも、悪い気はしないかな。
あいつは将来、精神科医にでもなるつもりなのだろうか?
その勉強の一環で、私達のような人間を相手にしているのかもしれない。
きっと、そうなんだろう。そう、私は思っておこう。
「沙織ー」
友人の呼ぶ声。
「次、教室移動だから早めに行こ?」
「そうね」
私は笑って答える。
「今行くわ」
筆箱とノートを持って席を立ち、私達は廊下に出た。二人で会話をしながら、笑いながら廊下を歩いていく。
他愛のない日常。退屈な日常。
その中に埋没することを、心から喜んで。
私は歩いて行く。