第3話
◇◇
あの頃の君は『今』を駆け抜けていた。
まるで風のように。
死神チェックで余命宣告を受けた人間は、歩み続けてきた足を止めて、静かに人生の終焉を待つのだとばかり思っていた。
だから君との出会いは衝撃的だったんだ。
◇◇
東京湾から美しが島までは、大型フェリーで出港後、途中で小さな定期船に乗り換え、およそ10時間かかる。早朝に出発し、島のこじんまりした船着き場に着いたのは午後5時を過ぎていた。埼玉県のど真ん中では感じることができなかった潮の匂いと、さざなみの音に、なんとも言えない感慨に浸っていると、快活な女性の声が聞こえてきた。
「ようこそ、美しが島へ! 滝田順平くんだね?」
よく日に焼けたショートヘアの若い女性だ。まるで太鼓の連打のように早口でまくしたてる彼女に、僕はすっかり気圧されてしまった。
「は、はい」
「わたしはホスピスの副所長、鴨下 麗奈。みんなからは『レイナ先生』って呼ばれてるから、順平くんもそう呼んでね」
「は、はい」
小さく返事するのがやっとな僕に、レイナ先生はニカッと笑いかける。
小さな八重歯が夕日に反射し眩しくて、僕は彼女を凝視できなかった。
いや、本当は自分よりも少しだけ年上のお姉さんに慣れていないのと、大きな胸を強調したゆるめのTシャツ姿の彼女を見るのが恥ずかしかったからだ。
「まあ、そんなに固くならなくても大丈夫! すぐ慣れるから!」
「は、はあ。そうですか」
きっとレイナ先生は「すぐに島の生活に慣れるから」という意味で言ってくれたのだろうが、僕にとっては彼女が近くにいることに慣れることから始めなくてはなさそうだ。
「じゃあ、早速おばあちゃんを紹介するから、事務所までついてきて」
「は、はい」
有無を言わさぬ口調で相手をリードするのは、『こじらせた』若者を多く面倒見てきたからかもしれない。
きっと今の僕もそのうちの一人に入るのだろう。
そんな風に自分を卑下しながら、船着き場を出た。
「あの建物がホスピスだよ」
レイナ先生の指差した方に目をやる。美しい砂浜の向こう側の小高い場所に薄い茶色をした三階建ての建物が見える。
慣れぬ足元にうつむきながら、その建物を目指して歩いていった。
……と、その時だった。
――ふわっ……。
僕のすぐ脇を誰かが通りすぎる気配がしたのだ。
ふと顔をあげると、飛び込んできたのは少女の横顔だった。
夕日に照らされて金色に輝くウェーブがかかった長い髪に、きらきらと光る大きな瞳。
わずかに桃色に染めた白い頬に、大きく上がった口角。
あっという間に横を通り過ぎて、今度は後ろ姿が目に入る。
夕日のオレンジ色が映る純白のワンピースがひらひらと舞う姿は、さながらこの世に降り立った天使のようだったんだ――。
「こらあ!! メイ!! 今日はおまえが食事当番だろぉが!!」
前方から聞こえてきた大きなだみ声で、はっと我にかえった。
「あは! ゲンさん! 今日は変わって! 一生のお願いっ!」
砂浜の真ん中を駆けているメイと呼ばれた少女が、こちらをちらりと振り返りながら舌を出している。
「ダメだ! ダメ、ダメ!! 先週もそう言って、モモカと変わってたじゃねえか!! 今度という今度は、世話係の俺のメンツをかけて許さん!!」
声のした方に目を向けると、クマのようながたいの青年が、顔を真っ赤にしながら小さなおたまを振り上げていた。
「あは! ゲンさんのメンツより、今日の夕焼けの方が、百倍は大事だもん!」
そう言って彼女は手にした小さなカメラを、大海原へ向けた。
「待て、待て!! もう許さん!! あんまりわがままばかり言ってると、ろくな大人になれないぞ!」
「あは! いいもーん! どうせわたしは、あと3年の命だし! ろくな大人になるより、私らしく生きるんだもん! おお! いよいよ日が沈むよぉ!」
あと3年の命だって……。
その言葉が胸に突き刺さり、思わず彼女を凝視してしまった。
いや、ホスピスの入所者は、死神チェックで余命を告げられた人々ばかりなのだから、余命を知ったところで、そう驚くことではないだろう。
しかし彼女のさっきの言い方は、さも当たり前のようにあっけからんとしていた。
まるで残酷な未来など何とも感じていないかのようだ……。
――カシャッ! カシャッ!
波の音の合間に聞こえてくるシャッター音。
そうしてゲンと呼ばれた青年が彼女の背中に追いついたところで、彼女は沈みかけた太陽に向かって大声で言ったのだった。
「キレイな『今』をありがとう!!」
キレイな今……ってなんだ……?
メイという少女の言葉の意味が、まったく分からなかった。
でもなぜか胸の中に何度もこだまして、彼女の声が頭から離れようとしない。
そして不思議な興奮と感動に包まれた僕は、その場で立ち尽くしてしまったのだ。
するとレイナ先生が声をかけてきた。
「あいつのことはゲンに任せて、そろそろ行くよ」
「あ、はい」
メイとゲンの二人に背を向けた僕は再びホスピスの建物を目指して歩き始めた。
しかしまるで一陣の風のように通り抜けていった彼女の姿が脳裏から離れずに、ドクドクと心臓の鼓動は早まったままであった。