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エピローグ

◇◇


 はるか昔から日本には『空梅雨』という言葉はあり、今年はまさにそれに当たるだろう。

 6月半ばだというのに、真夏を思わせるような陽射し。

 数歩歩いただけでじんわり汗ばむなんて、ほんと信じられない。

 脇の下の汗は気になるし、ばっちり決めた化粧も落ちちゃう。

 まさに私のような女子には『悪魔』のようなものだ。

 

 しかし私の数歩前には、悪魔よりも恐ろしい……言うなれば『魔王』のような存在がいるのだ。

 

「せ、先生! ちょっと待ってください! そんなに全力疾走したら……ハァハァ」


「あは! 君はまだ24だと言うのに、ずいぶんと軟弱者だね!」


「ち、違います! 先生が異常なんですって! 私よりも20以上も年上なのにぃ!」


「こらっ! 君はデリカシーというものがないな! 女子の歳をバラすような発言はご法度だよ! おお! 見えてきた! あれが横浜ビッグ会議場だね!」


 青い空の下に巨大な屋根が見えてくる。

 世界的に有名な建築家がデザインしたというその建物の中には、3000人も収容可能な巨大なホールが5つもあるというから驚きだ。

 そのうちの一つで行われるのが、目の前の魔王様……私が助手をつとめている先生の講演会なのだ。

 しかしもう開演25分前だというのに、まだ先生と私は会場入りしていない。

 何度も先生のマネージャーからスマホに電話があったのだけど……。

 

――あは! せっかく横浜にきたんだよ! 大観覧車に乗らずして、なんとするのかね!


 ……と言ってきかず……。

 その後も、

 

――ジェットコースターに乗ろうよ!

――中華街で肉まんを食べようよ!


 と、さんざん好き放題した挙げ句、今は疾風のように灼熱のアスファルトの上を駆け抜けているわけだ。

 ちょっと押したらポキっと折れてしまいそうなほどに華奢な体のどこに、そんなパワーが隠れているのやら……。

 ちなみに先生が『自由』なのは、今日に限ったことではない。

 どこにいようとも、いつもこうなのだ。

 先生いわく、

 

――わたしは『今』を全力で輝かせたいんだよ!


 なんだそうだ。

 ふと、先生の背中から脇に目を移すと、会場に向かう人々の会話が耳に入ってくる。

 

「ねえ『死神キラー』の講演、すっごく楽しみね!」


「でも、チケット取るの大変だったね……」


「そりゃそうよ! 死神チェックで余命宣告を受けた人を何度も救ってる伝説的な先生なんだよ!」


「もちろん知ってるわよ! 何度も死神チェックの予測を破ったから、『死神キラー』って呼ばれてるんでしょ!」


「そうそう! 一番最初なんて、先生がまだ学生の頃で、同じヤングホスピスで暮らしていたAIエンジニアの男性の命を救ったそうよ! なんでも『美しが島』で育てられていた花から抽出した細胞が、彼の病気に効果を発揮することを発見したんだって! すごいわよねー」


「でも神出鬼没で世界中のいたるところへ飛び回り、あらゆる賞を辞退してるっていうじゃない。こうして講演が聞けるだけで奇跡だね」


 先生の耳にも入ったのか、ちらりと私の方を振り向いた。

 

「ねえ、今の聞いた? わたしって、もしかして超有名人なのかな?」


「ハァハァ……。ええ、そうですよ! だから有名人なりの作法をですね……」


「あは! じゃあ、自慢しようっと!」


「はい? 誰にですか?」


 先生はその質問には答えなかった。

 その代わりに、青い空を見上げてニコリと微笑んだ。

 

 先生は時々こうして笑顔を空に向ける。

 その笑顔はすごく可愛らしくて、とても魅力的だ……。

 まるで恋人に向けるよう。

 思わず見とれていると、先生が明るい声をあげた。

 

「あはは! 余裕で間に合ったじゃん!」


 前方に目を移すと、会場の入り口が見えてきた。

 時計は開演15分前を差している……。


「余裕じゃありません! 普通は1時間以上前に控室に入るものです!」

 

 入り口の自動扉の脇には、ひときわ目を引く大きな看板が立ててある。

 そこにはこう書かれていた。

 

『国立難病治療研究所 名誉研究員 新田芽衣 特別講演会』


 と――。

 

 

………

……


「もう! 芽衣さん!! 今何時だと思ってるんですか!?」


 控室に入ったとたんに、腰に手を当てて先生を叱ったのは、彼女のマネージャーさんだ。

 世界中どこを見回しても、先生にこれほどはっきりと物が言えるのはこのマネージャーさんだけだと思う。

 ちなみに彼女の名は相澤夢美さん。あ、『相澤』ってのは旧姓で、今は『日下』だった。

 なんでも幼馴染の男性と去年入籍したばかりとか。

 

――ヨウタは昔から粘り強かったからなぁ。さすがのユメミも、ついに観念したんだってさ。


 そして先生とマネージャーさんは同い年で、もう二十年以上の付き合いなんだそうだ。

 

 先生はゼリー飲料をキューっと口にいれながら、眉をひそめた。

 そんな先生にマネージャーさんは小言を続けた。

 

「13:50よ! 開演は14:00! メイクを担当する私の身にもなってくださいよ!」


 空になったゼリー飲料の袋をポイッとゴミ箱に投げ入れた先生は、小さく舌を出してマネージャーさんの前に座った。


「あは! ごめんね! ユメミ! じゃあ、メイクよろしくね! バッチリ頼むよ!」


「もうっ! 私じゃなかったら、本当に怒られるんだから!」


 と言いながらも、手際よく髪をまとめていく。

 先生のウェーブがかかった長い髪は、つややかで羨ましい。

 そんなことを考えているうちに、もう夢美さんは先生の顔の手入れに取り掛かっている。

 

「相変わらず芽衣さんの肌は綺麗ね」


「ユメミに言われると嫌味にしか聞こえないなぁ」

 

 確かにそれは先生の言う通りだ。

 夢美さんは見た目からして若い。しかも美人。

 「25歳です」と言われても、「そうですか」と素直にうなずいてしまうだろう。

 ……と言っても、先生だって人のことが言えないくらいに若々しいけど……。

 ファンデーションを塗りながら夢美さんが、たずねた。

 

「芽衣さん、どうするの? 質疑応答で『綺麗な肌を保つ秘訣はなんですか?』なんて聞かれたら」


 その質問、私もすごく気になる。

 でも先生の答えは意外なものだった。

 

「そりゃあ、『恋をしてるから』に決まってるじゃないか!」


「へ? 恋?」


 思わず声を上げてしまったのも無理はない。

 だって先生は世界中を飛び回っており、一箇所に定住したことはない。

 あえて言えば『美しが島ヤングホスピス』というところに11月下旬の1週間だけ滞在する。

 なんでも大きな花火大会が催されるのだそうだ。

 でも、本当にそれくらいだ。

 だから特定の人と恋をしているなんて……。

 私はてっきり『死神が私の恋人なんだよ』と先生なら考えてるんじゃないかって思っていたのだから。

 

「どうしたの? わたしが恋をしているのが、そんなにおかしいかい?」


 先生と夢美さんの視線が私に集中する。

 

「え、いえ、そんなことありません」


 私は小さくなって、二人から目を離して、窓際にある机に移した。

 すると目に入ってきたのは、分厚い冊子だった。

 ずいぶん色あせているから、古いものなのだろう。

 

「これは先生のですか……?」


「ああ、そうだよ。今日の講演で使おうと思ってね」


「へえ、中を見てもよろしいですか?」


「ああ、いいよ」


 私はパラパラとめくった。

 その中身に目を見開いてしまったのだった。

 

「これは……死神チェックに打ち勝った人々の記事ですか……」


「そうだよ。ユメミたちが集めたもので、もう何十年も前の記事さ」


 確かに現在では完治できる病気の名前もちらほら見受けられる。

 でも当時は『死病』だったのだろう。

 中には、今では検査されなくなった『未来の恋愛成就の回数』についての記事もあった。

 

 そして一番最後の記事までめくり終えた。

 しかし……。

 

「ん? まだ続きがあるのかな」


 ゆっくりと次のページを開く。

 次の瞬間……。

 時が止まってしまった――。

 

 そこにあったのは、記事ではなく多数の風景写真だったのだ。

 

 この世のものとは思えないくらいに、美しい朝日。

 真正面に咲く大輪の花火。

 無数の星がまたたく夜空。

 水平線に沈みゆく夕日。

 

 でも、私の心臓をわしづかみにしたのは、それらの美しい光景ではない。

 

 それらの写真のすべてに、『一人の青年』が写っていたのだ……。

 とても優しい目をした青年だ。

 もしかしてこの青年が先生の……。

 

 

「あは、どうやらバレちゃったみたいね」


「え、先生じゃあ、この人は……」


 薄化粧を終えた先生は、可憐な少女のようにはにかんで言った。

 

 

「ジュンペイだよ。彼がわたしの恋人さ」



 ずんと腹に響く言葉に、くらりとめまいを覚える。

 まさか本当に恋人がいたなんて……。

 でも『ジュンペイ』さんの実物を、助手の私は一度も見たことがない。

 当然わいてくる疑問。

 

「ちなみに先生の恋人は、今どこにいらっしゃるのですか?」

 

「さあ、どこだろうね?」


 先生は窓の外の空を見つめながら、目を細めた。

 その様子を見て、パンと頬を張られたかのような痛みが走る。

 

「もしかして……、その人は……」


 この世を去っているのではないか、そう問いかけようとした時だった。

 

――コンコン。


 ドアをノックする音ともに、声が聞こえてきた。

 

「新田先生、そろそろお時間です」


 先生は小さく微笑むと、私の手から分厚い冊子を受け取った。

 そして、羽織った白衣をなびかせながら、扉の方へと足を向けた先生は、力強い声で言い放ったのだった。

 

 

「さあ、行こうか!」



 扉を開け、颯爽と廊下を進んでいく先生。

 一点の迷いなど感じさせぬ足取りは、先生の生き様そのものだ。

 でも、私はいつも不思議だった。

 どうして先生はこんなにも強くて美しいんだろうって。

 その答えが今日分かったような気がした。

 

 きっと心の中に生きているんだ。

 あの優しい目をした先生の恋人は――。

 

 

 3000人の聴衆の前に先生が立つ。

 ぴんと伸ばした背筋と、凛とした表情。

 私が尊敬してやまない『死神キラー』の異名を持つ天才研究者、新田芽衣。

 

「こんにちは! 今日わたしがお話しするのは……」

 

 先生が巨大なスクリーンに向けてポインターを照らす。

 そして現れた文字を、先生は澄み切った声で読み上げたのだった。

 

 

「死神にあらがうために君と恋をした物語」



 これまでも、そしてこれからも、先生はあの写真の青年に、ずっと『恋』をしていくのだろう。

 だから先生は死神と戦い続けることができるんだ。

 

 

「みんなは最高の恋をしてる? わたしはしてるの! 最高のハッピーエンドを自分の手で作るために!」


 

 きらきらと星のように目を輝かせて――。

 

挿絵(By みてみん)


(了)



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