第27話
………
……
麻酔で眠っている間。
僕は夢をみていた。
それは僕が物心ついてから、記憶に残る『風景』だった。
妹の美香と手をつないで通った幼稚園の頃。
陽太や夢美と出会った小学生の頃。
父さんや母さんと話すのがおっくうになってきた中学生の頃
メイと出会ったヤングホスピスの頃。
そして、多くの人の愛に包まれた今……。
でも、夢はそこで終わらなかった。
つまり僕は見たんだ。
『メイとの未来』を。
その夢を夢のままで終わらせたくない。
負けるな、僕の体!
死神にあらがうんだ!
死神の大きな鎌が容赦なく僕に襲いかかってくる。
僕はそれを必死にかわしながら走った。
愛しのメイが待つ『未来』に向かって――。
………
……
遠くから僕を呼ぶ声がする。
「……くん。滝田くん」
その声に吸い寄せられるように、僕は目を覚ました。
ゆっくりと目を開けると、マスクをした村元先生の顔が見えてきた。
きっと数時間前まで、僕の体は病気という悪魔に襲われ、先生たちは必死になって戦ってくれていたのだろう。
先生は目の下にくまを作り、目を充血させている。
それでも僕へ必死に呼びかける声は、疲れなど微塵も感じさせないほどに、力強いものだった。
「滝田くん! 聞こえてる?」
まだ声を出すのは難しそうだ。
僕は全身全霊の力を込めて、まばたきをした。
それを見た村元先生の細い目が大きく見開かれる。
そして大きな声を爆発させた。
「滝田くん! やった! やった!! 滝田順平くんが目を覚ましたぞ!! 死神に勝ったんだ!!」
いつも冷静沈着な先生からは考えられないほど大げさなガッツポーズに、集中治療室内がいっせいにわいた。
その中心にいるのは僕なのだけど、あいにく呼吸をするのもやっとなほど衰弱しきっていて、とてもじゃないが一緒になって歓声をあげることはできない。
それでもみんなが僕のことで喜んでくれていることが、すごく嬉しかった。
そして、
――ああ、生きているんだ。
という実感がふつふつと湧き上がっていたのだった。
……と、その時だった。
「村元先生、ちょっと」
険しい顔つきの中年の医師が奥の部屋から先生を呼んでいる。
先生はぐっと表情を引き締めて、その部屋へと消えていった。
そしてしばらくした後、部屋を出てきた先生は、再び僕のそばにやってくると、穏やかな調子で言った。
「滝田くん、よく頑張ったね」
先程までとは一転して、いつも通りの先生の口調だ。
いまだに声が出そうにない僕は、ただ先生の顔を見つめていた。
先生は目を細めながら、続けた。
「今からご家族とご友人を呼んでくるからね。それまで少しだけ待っていてくれるかい?」
僕はちょっとだけ顎を引く、自然と頭が縦に動き、うなずいた格好になった。
それを見た先生は、早足で治療室を出ていく。
まるで何かに追い立てられるように……。
そして僕は気づいたんだ。
自分の命の炎が消えかかっていることに……。
ちらりと目を壁際に移すと、デジタル時計が『12月24日23:15』と表示されている。
死神の示した余命に打ち勝つまではあと45分か……。
ここまできて負けたくないな、という極めて純粋な欲求が、僕の閉じそうになるまぶたを抑えていた。
「……そんな……。いやあああああ!!」
意識と無意識の間を、うつらうつらと行き来しているうちに、美香の泣き叫ぶ声が廊下から聞こえてきた。
ガラス張りの大きな窓の外では、美香が泣き崩れ、母さんが父さんの胸にうずくまっている。
――泣かないで。僕は大丈夫だから。
そう声をかけたくてもかけられないのが、もどかしくてならない。
そして僕は窓の向こうを必死に探した。
メイの姿を……。
「メ……イ……」
必死に声を振り絞る。
すぐそばにいる看護師さんにすら届かない小さな声。
廊下の向こうまで届くはずもない。
でも、僕は声を出し続けた。
「メイ……。メイ」
メイの手術は成功したのだろうか。
メイは元気になるのだろうか。
それだけでいい。
せめてそれだけを知りたいんだ。
……と、その時。
真っ暗闇の廊下の奥から、二人の女性の姿が目に飛び込んできたのである。
足元のおぼつかないメイと、彼女を支える夢美だった。
二人とも必死にこちらに向かってきているのが分かる。
「メイ……!!」
僕の方を見たメイが、村元先生と夢美の制止を振り切って、治療室の扉に駆け寄ってくる。
しかし医療スタッフではない彼女では扉は開かない。
すると彼女は、ドンドンと窓をたたきながから僕の名を叫んだ。
「ジュンペイ! ジュンペイ!!」
ぐわっと血が沸騰し、その熱さが痛みを凌駕する。
――彼女の手に触れたい。
見えない手が僕の背中を押し、重力のいいなりになった体を起こそうと足掻いた。
「メイ、メイ!」
人工呼吸器のマスクが荒れた息で白くなり、目から溢れた涙がシーツを濡らす。
全身が燃えるように熱くなり、汗が止まらない。
動け! 動け、僕の体!
こんなところで負けてたまるか!!
未来は自分の力で作るんだあぁぁ!!
そしてついに、
――ガタン!!
体が横に倒れ、ベッドの揺れる音が響きわたった。
それまで機材の片付けなどでせわしなく動いていた看護師さんたちがピタリと足を止め、僕に大きな目を向けている。
「滝田さん?」
「うそ……。こんな状態で体を動かせるはずないのに……」
みんなの注意が僕に向いている。
メイに会わせて欲しい、それを伝えるのは今しかない。
出てこい、僕の声!
頼む!!
「メイ……。メーーーーイ!!」
雷鳴のような声が、マスクを突き抜けて部屋を震わせた。
メイの大きな瞳から流れる涙が勢いを増した。
部屋の外にいる人々の視線も僕に集まる。
村元先生がメイに何か声をかけると、二人で扉へと向かっていった。
――ウイィン。
乾いた機械音とともに開かれた扉の向こう側から、一陣の風が僕に向かってくる。
そしてすぐに僕の視界は埋め尽くされたんだ。
メイの美しい顔に――。
「ジュンペイ! ジュンペイ!」
「はは……。そんな……大きな声……出さなくても……聞こえるよ……。ところで手術は成功したの?」
メイはごしごしと涙を袖でふくと、大きくうなずいた。
「勝ったよ! わたしたち死神さんに勝ったんだよ!」
ちらりとメイの奥に目をやると、時計の表示は『23:55』。
「まだだよ……。あと5分ある……」
「あは、ジュンペイは相変わらず細かいんだから」
「ごめんよ……。でも、5分あってよかった……」
「え? どういうこと?」
そう、たった5分だ。
でもその5分があって、よかった。
なぜなら……。
「君の……夢をかなえてあげたいから……」
メイの瞳が大きく見開かれていく。
――ねえ、ジュンペイ。わたしには夢があるのだよ!
――へえ、なに?
――へへ。ちょっと恥ずかしいかも。
――なんだよ? 今さら恥ずかしがることもないだろ。絶対に笑ったりしないから言ってごらん。
――うん……。あのね。クリスマスイブの夜にね。好きな男の人に『好きだよ。恋人になって欲しい』って言ってもらいたいの。
メイの瞳から再びこぼれ落ちる涙。
僕は懸命に手を伸ばした。
そして、その手を強く握りしめたメイに、僕はかみしめるように告げたのだった。
「好きだよ、メイ。たった5分だけでいい……。僕の恋人になってくれないかな……」
メイの肩が震えている。
嗚咽を必死におさえ、何度か深呼吸を繰り返している。
僕は彼女の返事を、まばたきすらせずに待った。
そして彼女は笑顔と泣き顔が入り混じった顔で、首を横に振った。
「……いやよ。わたし、そんなの許さない」
「え……」
意外な答えに僕は戸惑った。
すると彼女は顔を真っ赤に染めながら叫んだ。
「たったの5分だけの恋人なんて、絶対にいや!! わたしはずーっと、ジュンペイの恋人でいたい! 十年後も、二十年後も、百年後も! それじゃなきゃ嫌なの!!」
胸を貫く言葉に、口が小さく開いたまま閉じられない。
しかし徐々にこみ上げてきた感動に、僕は声をつまらせながら言った。
「ありがとう……メイ。なら僕とずーっと恋人でいてくれるかな……?」
その問いかけに彼女は、僕の大好きな美しが島の太陽のような明るく輝いた声で答えたんだ――。
「うん! ありがとう! わたしジュンペイの恋人になる!」
………
……
炎は消えかける時に、一瞬だけ激しく燃えるという。
僕にとっては、メイにありったけの想いを告げたのが、それに当たるのだと思う。
急速に全身の力が抜けていき、意識が薄れていく。
それでも僕はメイとついさっきまで見ていた夢の話をしたんだ。
「綺麗な白い砂浜でね……。メイと……僕と……僕たちの息子の三人で……。仲良く座ってるんだ……」
「うん」
「僕たちの息子が吹くハーモニカに、メイが褒めて……。君たちがせがむから……僕が『きらきら星』を吹いて……。君たちは美しい歌声を青空に響かせる……。幸せな夢……」
「うん、うん。とっても幸せだね」
「僕はおじさんになっちゃったけど……君は君のままで……すごく眩しくて……」
「あは、そんなことないよ。ジュンペイだって全然変わってなかったよ」
「……え……?」
「わたしも同じ夢を見てたの……。いえ、きっと夢じゃない。いつかどこかで『今』になる光景だと思うの」
「そうだね……。待ち遠しいな……」
「うん、待ち遠しいね。それまでにお肌のケアをちゃんとしておかなくちゃ!」
柔らかな笑みを浮かべているメイが、少しずつかすんでいく。
「また……会えるかな……?」
「あは、何を言ってるの? もう目の前にいるじゃない」
「いや……そういうことじゃなくて……」
「その夢の中で、ジュンペイはこう言ってたんだよ。『大丈夫。焦らなくても大丈夫。きっといつかまた会えるから』って。だから大丈夫だよ!」
「そうか……。僕がそんなことを……」
「うん! ジュンペイ! もしかして忘れちゃったの!?」
「ははは……、無茶言わないでくれよ……。未来の僕が言うことを覚えてるわけないだろ……」
「あは! それもそうね!」
言葉が途切れ、二人の間に柔らかな静寂が流れる。
その静寂を破ったのはメイの方だった。
「わたしたち、ずっと一緒だよ。だから焦らなくて大丈夫なんだよ」
「ああ……。そうだね……」
心音を告げる機械の音に変化が生じ始めた。
「そろそろご家族を……」
村元先生の言葉に、僕はまばたきで答えた。
直後に父さん、母さん、美香、夢美の4人が入ってくる。
「おにいちゃん!」
美香が僕の手を強く握った。その上から夢美も手を重ねてくる。
父さんと母さんは、僕の体をさすっていた。
「順平くん!」
「順平! しっかりして!」
「順平!」
次々と聞こえてくる声に、僕は感謝していた。
ありがとう。
本当にありがとう。
これが僕にとっての最期の『風景』だ。
そして彼らの優しさに包まれながら、僕は心の底から思えたんだ。
「最高の……ハッピーエンドだよ……」
と――
………
……
こうして僕は短い生涯の幕を閉ざした。
――『12月25日0:01』です。
という村元先生の声が部屋に響いている。
もし目の前に死神がいたならば、「どんなもんだい!」とドヤ顔を向けてやりたい気分だ。
でも、死神の居場所を探している暇はなさそうだ。
もう行かなくちゃならない。
だから僕はたくさんの『風景』を抱えて、遠くへと旅立っていったんだ――。




