第22話
………
……
一方。夢美は波瑠子の見送りをしていた。
だが波瑠子は迷いなく早足で進んでいく。
夢美は彼女が差している赤い傘についていくのがやっとで、これではどちらが見送られているか分からないくらいだ。
そんな波瑠子が、とある場所でピタリと足を止めた。
「ここでいいわ。ユメミちゃん」
「え? こんなところで?」
夢美が驚いたのも無理はない。
そこはひとけのない病院の森の中。空は木々に覆われて、雨粒はほとんど落ちてこない。
ただし森といっても遊歩道が整備されており、いわば庭の一部のようなものだ。
しかし街の方へ出るバス停までは距離がある。
それにきっと同じバスに乗って帰るのだから、ここでお別れする意味もない。
だが波瑠子は穏やかな笑みを浮かべて、さも当たり前かのように言った。
「ふふ、もう大丈夫よ」
「は、はい……。そうおっしゃるなら……」
半ば気圧されるように夢美がその場から離れようとする。
……と、その時だった。
――クイッ!
夢美の袖が強い力で引っ張られたのだ。夢美がさしていたピンク色の傘がふわりと舞う。
「きゃっ!」
彼女は思わず小さな叫び声をあげた。
だが次の瞬間……。
――ボフッ。
なんと波瑠子の小さな胸の中に、顔が収まっていたのである……。
「ここなら大丈夫よ」
耳元で優しくささやかれた途端に、夢美の中で固く閉ざされていた扉が音を立てて開く。
すると奥底から濁流のように感情が溢れてきたのだった。
「あれ? あれ? なんで……。なんで私……。ううっ……。うわああああああ!!」
「頑張ったわね。偉かったわよ」
波瑠子がそっと彼女の柔らかな髪をなでる。
その優しさで、余計に涙と嗚咽が止まらなくなってしまったのだった。
「私……私……。うわああああ!!」
波瑠子は気付いていた。
夢美が順平を見つめている時の瞳の色、息遣いに。
彼が手紙を読み上げた際、美麗な顔へ落とした影に……。
そして彼女が順平に寄せる、決して報われぬ恋心に――。
夢美は当然知っている。
順平の余命も、さらに未来の恋愛成就の回数も。
それでもせめて彼のそばにいたい。
それが彼女の精一杯の『意地』でもあったのだ。
しかし今日。
彼女は知ってしまった。
順平が自分の知らない誰かと恋に落ちていたこと。
そしてその相手は、彼の境遇を知っているにも関わらず、彼との恋を決して諦めていないことを。
「私だって……。私だって言いたかった! あなたが好きだって。でも、でも仕方ないじゃない! 死神チェックは絶対なんだから。それなのに! うああああ!!」
波瑠子は何も言わずに夢美を抱きしめていた。
そして彼女が落ち着いたのを見計らって、彼女をそっと離して顔を合わせたのだった。
「こんなことを言うのは残酷に聞こえるかもしれないけど。決して恋を叶えることだけが、人を愛することではないわ」
いつの間にか雨があがり、分厚い雲間から差し込んだ太陽の光が、木々の合間をぬって二人の影を作っている。
夢美の頬の涙が光に照らされて乾いたところで、波瑠子は続けた。
「これは老い先短い老婆からの身勝手なお願いなのだけど。これからもジュンペイくんを愛して欲しいの」
「順平くんを愛する……」
「私は人が人を愛することで起こった『奇跡』をいくつも見てきたわ。きっとジュンペイくんもそう。彼を取り囲む全ての人の愛が、彼に奇跡を起こしてくれるって、私は信じているの。だから、お願いね」
「でも……。私は何をすれば……」
「ふふ、今までどおりでいいのよ。ただそばに寄り添ってあげるだけでいいの」
ただ寄り添うだけが、人を愛するということなのか……。
夢美には分からない。
でも彼女の目に映る波瑠子の強い瞳が、彼女の疑問をたちまち霧散させた。
「はい……。わかりました。私、これからも彼のそばにいます」
「ああ、やっぱりユメミちゃんはお利口さんだわ。メイちゃんとは大違い」
「え? どういうことですか?」
「ふふ、きっとメイちゃんならこう言ったわ。『ただ寄り添うなんて、つまらないじゃない! 一緒に手をつないで大冒険に出るのだよ!』ってね。ジュンペイくんは人がいいから、いつも振り回されてばっかりなの」
「まあ! ふふふ、面白い子なんですね。メイさんって」
夢美の顔に小さな笑みが漏れる。
すると波瑠子は茶目化たっぷりに言った。
「それに、もしジュンペイくんの余命が延びたら、まだ分からないじゃない」
「え? 何がですか?」
「ユメミちゃんにも勝つチャンスが巡ってくる、ってお話しよ。ふふ」
「まあ!」
夢美の顔がりんごのように真っ赤に染まる。
波瑠子は落ちている二本の傘を手に取って、くるりと夢美に背を向けた。
「さあ行きましょうか。もうすぐ次のバスがやってくる時間だわ」
「はい!」
夢美の明るい声が森に響き渡る。
空には夏の到来を思わせる青色が顔をのぞかせていたのだった。




