第21話
………
……
季節は過ぎていった。
窓から見える雪が消えてなくなった頃には、陽太や夢美の弾けるような笑顔が病室に咲いた。
「合格したぜえええ!!」
「おかげさまで私も受かったわ!」
この日を境に、彼らは折を見ては病室へやってくるようになった。
けっきょく「休学」から「退学」へ変わってしまった僕への卒業式までやってくれたんだ。
母さんが泣くのは分かるけど、なぜ陽太まで号泣していたのか、僕には分からなかった。
けど、すごく嬉しかった。
新学期が始まり、彼らは大学の新生活で忙しいはずなのに、そんなことはおくびも見せずに顔を見せてくれる。
美香も同じで、よく病室にやってきた。
――僕のことなんかより、早く彼氏の一人でも作れよ。
と言おうものなら、本気で殴りかかってくるから手に負えないんだ。
彼女はバスケ部でエースとして活躍しているらしい。
県大会への予選の全試合を動画でとって僕に見せてくれたっけ。
全部見るのに何時間もかかったけど、妹がいきいきとプレイしている様子を見ているだけで、まったく飽きなかったな。
こうして周囲の人々の温かさに包まれたまま、桜の日々もあっという間にすぎて、長雨の時期を迎えた。
今年の梅雨明けは例年よりも5日遅いらしい。
高校生たちの嘆く声がこっちにも届いてきそうだ。
そして僕の余命は変わらなかった。
変わらないだけ、まだましかな。
やっぱり縮まるのは嬉しくないから。
この日も雨。
僕は誰もいない小学校のグラウンドをぼーっとしながら眺めていた。
――コンコンッ。
「はい」
「夢美です。入っていい?」
「どうぞ」
近頃めっきり大人っぽくなった彼女が部屋にやってくると、ほんのりと柑橘系の香りがただよう。
きっと彼女のお気に入りのフレグランスなのだろう。
高校2年生だったあの頃と比べれば、彼女を前にしても心臓が飛び出してしまうほどの緊張はしなくなったが、それでも彼女のような美女を前にすれば、胸の動悸が早まってしまうのは男だから仕方ないと思うんだ。
「BACKのレアチーズケーキ、買ってきたよ! 村元先生にチェックしてもらったら、食べていいって」
可愛らしいえくぼを浮かべる表情は、昔から変わらない。
僕もまた笑顔で「ありがとう」と返した。
「紅茶とコーヒーだったら、どっちがいい?」
「コーヒーかな。あ、僕がいれるよ」
「いいから、いいから。ちょっと待っててね」
ケトルでお湯をわかし、コーヒーメーカーにお湯を注ぐ。
そしてコーヒーがいれ終わるまでの、ちょっとした間が空いたところで、彼女は僕の横に並んできた。
「昔、よく遊んだよね」
「ああ。ドッヂボールをよくやったね」
「ふふ、順平くんはあんまり得意じゃなかったよね」
「ふん、夢美と陽太が異常に強かっただけだよ。僕は普通」
僕がすねると、夢美は口元を緩めた。ちらりと彼女の顔を覗くと、その表情は綿毛のように柔らかくて優しい。
「懐かしいわ」
「うん、そうだね」
「もしあの頃に戻れたら……。もっと素直に自分の気持ちを言えてたかな」
「ん?」
ちょっとだけ湿っぽい口調に僕は視線を夢美の横顔に目を移した。
彼女はその視線に気付くなり「ごめんなさい!」と言って、顔を真っ赤にする。
「こ、コーヒーそろそろかな!?」
そう言い残して奥の方へと消えてしまった。
彼女が言いたかったことが何なのか分からずに、僕は眉をひそめてその背中を見つめていた。
……と、その時だった。
――コンコン。
ドアをノックする音が聞こえてきたのだ。
僕と夢美は顔を見合わせた。
「陽太かな?」
「あら、陽太ならノックなんてしないで入ってくると思うけど……」
「それもそうだ」
そんなやりとりをしているうちに、ドアの向こう側の人物が声をあげたのだった。
「ジュンペイくん、入っていいかしら?」
凛とした声に、思わず僕の背筋が伸びてしまった。
明らかに聞き覚えのある声だ。
しかし、まさかこんなところまで……。
夢美が僕のことを不思議そうに見つめる中、僕はしっかりした口調で答えた。
「はい、どうぞ」
そうして部屋の中に入ってきたのは……。
「ふふ、お久しぶりね。ジュンペイくん」
ハルコ先生だった――。
………
……
わざわざ島を出て僕を訪ねにきてくれたのか……。
この疑問は「半分正解、半分外れ」なんだそうだ。
「こう見えても私は医師。さらにヤングホスピスの所長でもあるわ。ナンチケンと意見交換することは、珍しくないの。もっとも近頃はパソコンの画面を通しながらばかりですけどね。ふふ」
「そうでしたか……」
「ところで、ジュンペイくん。そこのお嬢さんは、どちらさまかしら?」
ハルコ先生が夢美に穏やかな視線を向けた。
夢美が頬を赤らめて硬直している。
「幼馴染です」
「あ、あ、相沢夢美と申します!」
夢美がペコリとお辞儀すると、ハルコ先生も丁寧に頭を下げた。
「申し遅れましたね。私は鴨下波瑠子。以前、ジュンペイくんが入所していたヤングホスピスの所長です。よろしくね。夢美ちゃん」
「は、はい! こちらこそよろしくお願いします!」
「ふふ、とてもいい子ね。でもメイちゃんとはずいぶんと毛色が違うようだけど?」
「メイちゃん?」
夢美が小首を傾げたところで、僕は慌てて横から入り込んだ。
「と、と、ところで、島の方はどうですか? みんな元気にやってますか!?」
ハルコ先生は視線をゆっくりと僕に戻すと、ニコリと微笑んだ。
「ええ、みんなとても元気よ」
ぼくはハルコ先生の『みんな』という言葉に、ほっと胸をなでおろした。
なぜならその中にはメイも含まれていると思っていたからだ。
「あなたが突然いなくなったものだから、ゲンくんとモモカちゃんは、すごく戸惑ってしまってね」
あの二人には挨拶をする暇もなく、僕は島を出てしまった。今でも時折、そのことを思い出して、胸がチクリと痛むことがある。
「ふふ、でも心配しないで。ジュンペイくんが、なぜ出ていってのか、しっかりと説明したら、二人ともちゃんと納得してくれたわ」
「そうでしたか……。それはよかった」
「ええ、二人から『ジュンペイ、頑張れ!』って伝言よ」
「ありがとうございます。みなさんもお元気で、とお伝えください」
ハルコ先生はニコリと微笑んで「わかりました」と返してくれた。
そして、口に含んだコーヒーをゆっくりと飲み干した後、穏やかな口調で続けた。
「そうそう、新しい子も入ってきたの。ふふ、本来の『世話係』はジュンペイくんになるはずだったのにね」
新しい入所者の『世話係』か……。
僕でないとすれば、僕より一つ前に入所してきた人が担当することになるだろう。
と、なると……。
僕の脳裏にぱっとメイの笑顔が浮かぶ。
「はは、メイにとっては二人目の担当ですね」
思わず頬がゆるんだ。そんな僕を夢美が相変わらず不思議そうに見ている。
そこで僕は夢美にメイのことを打ち明けることにした。
「ああ、ごめん、ごめん。メイってのはね」
「ジュンペイくんと同じホスピスで暮らしていた女の子なんだけど、今はロスにいるのよ」
「え……。ロス……」
僕を遮ったハルコ先生の言葉は、僕の心を一瞬にして凍りつかせた。
メイがロスに?
まさか……。
脳みその中がぐわんぐわんとかき回されて、歪んでいく……。
「ふふ、驚かせるつもりはなかったんだけどね。実はメイちゃんからお手紙が届いているの。今日はそれをジュンペイくんに手渡したくてね」
口を半開きにしたままの僕に、ハルコ先生は一通の手紙を手渡してきた。
細い楷書体のローマ字で書かれた宛先。
送り主は「Mei Nitta」。確かにメイの名前だ。
僕は急いで手紙を開けた。そして声に出して読んだのだった――。
◇◇
ハロー!! みんな元気にやってるかな?
わたしは元気です!
さっそく治療は始まったのだけど、30分だけ点滴うつだけで終わり。
体調も変わらないし、なんか全然実感ないんだよね。ほんとにこれでわたしの病気は治るのかな?
それから、スタッフさんたちはすごく厳しくて、病院の外に出ちゃダメ! っていつも言うんだよ。
目の前にキレイなビーチあるのに、もったいないと思わない?
あと、大きな窓から見える夕陽はとても素敵。
ああ、みんなにも見せてあげたかったな。
さてさて、わたしは手紙書くの慣れてないから、もう終えるね!
最後にジュンペイ、見てくれているかな?
急にいなくなっちゃったから、すごくびっくりしたし、悲しかった。
でも、おかげで決めることができたの!
わたし、絶対に死神さんなんかに負けない!
治療と手術を受けて、余命を延ばすって!
それに。
わたしは君との恋も諦めるつもりはないから!
わたしはジュンペイが好き!
死神さんが引き離そうとしたって、むだむだ!
わたしはジュンペイが好きなんだもん!
わたしは治療を終えて日本に帰るから。
それまでジュンペイも負けないで!
『最高のハッピーエンド』は君なしには考えられないんだよ!!
それは君とにとっても同じだと信じてる。
わたし抜きで『最高のハッピーエンド』を迎えられないでしょ!
だからジュンペイ!
わたしたち、もう一度、恋をしよう!
メイ
◇◇
手紙を閉じて、そっと目をつむると、まるで一陣の風が吹き抜けた後のような爽やかな心地に包まれる。
――わたしたち、もう一度、恋をしよう!
文字を見ただけで彼女の声が脳内をリフレインしていた。
「ああ、メイ……」
漏れるため息とともに、頬に一筋の涙が伝っていくのを感じる。
押し寄せる喜びと感動が渦となって心の中で踊っていた。
言葉が何も出てこない僕をよそに、ハルコ先生が口を開いた。
「じゃあ、私はここで失礼するわ。あ、ユメミちゃん」
「は、はい?」
急に話しかけられた夢美が戸惑う。
しかしハルコ先生は何でもないように続けた。
「玄関まで私を送っていってくれないかしら?」
「え、あ、はい!」
「じゃあ、ジュンペイくん。くれぐれもお大事にね」
「順平くん、またね」
「はい、二人ともありがとうございました!」
ハルコ先生と夢美の二人が病室を出ていってからも、僕はしばらく動けないでいた。
――わたしは君との恋も諦めるつもりはないから!
やっぱりメイは強くて美しい。
僕が思った通りの人だ。
情けないのは僕だ。
全てを諦めていたのは僕の方だったんだ。
僕も諦めたくない。
消えかけていた心の炎に、メイはばしゃりとガソリンをぶちまけてきた。
僕の腹の底で、ごおっと音を立てて燃え盛っていく。
負けない!
絶対に負けたくない!
だって僕もメイのことが好きだから。
死神にあらがおう。
そのために、僕は君にもう一度恋をしよう。
一日でも一分でも長く生きてやるんだ。
僕はそう決意を固めたのだった――。




