第18話
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東京湾に向かう船の中。
客室で寝入ってしまった僕は夢を見ていた。
それは花火を打ち上げたあの日、メイと手をつなぎながら森を歩いた時の思い出だった。
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――わたしね。『赤』が好き。だから次は赤だけの花火を作るって決めたの。
少しだけ汗ばんだ君の手は、熱くて柔らかい。
真っ暗な森の中にあっても、ほのかに輝いている君の横顔を見ながら僕は言った。
――なんだそれ? 変なの。
そう答えた僕に、君は小さな頬を膨らませてむくれる。
――むむぅ、ジュンペイはわかってないなぁ。赤はハートの色だよ!
――ハート?
――うん、そうだよ。ハートは愛のしるし。だからわたしは届けたいの。
君がそこで言葉を切ると、秋の夜風が僕たちの間をすり抜けていく。
肩まで伸びた君の髪がさらりと舞った。君はむくれた顔を笑顔に変えて、澄んだ瞳を僕に向ける。
木々の間から差し込む月の明かりに照らされた君の顔を、僕はまともに見れない。
だから僕は懐中電灯の白い光に視線を向けていた。
そんな僕に君は力強い声で言ったんだ。
――赤の花火をジュンペイに届けるの!
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……
「間もなく東京湾に到着いたします。お客様におかれましては下船の準備をお願いいたします。このたびは……」
無機質な女性の声のアナウンスで僕は目を覚ました。
自分でも不思議なほど、心は静かだった。
いや、きっとメイというオアシスを失った心は、砂漠のように枯れ果ててしまっただけだ。
でも新たな『水』を求めようなんて気力は、今の僕にはわかなかった。
ショルダーバッグを右肩にかつぎ、部屋を後にする。
甲板へと続く階段には、すでに数人の客が並んでいた。
船が止まると同時に人々が動きだす。
僕は何も考えずに彼らに流されて歩いていった。
外へ出ると辺りはすっかり暗くなっており、冷たい風に体がこごえる。
空は町の明かりのせいか、白くて星は見えない。
僕はタラップを慎重に渡って、アスファルトの地面に降り立った。
「おかえり、順平」
僕を待っていたのは、父さんだった。
およそ半年ぶりの再会。いや、再会と称するには、離れ離れの時間があまりに短すぎるかもしれない。
それでも父さんの顔を見た瞬間に、「ああ、帰ってきたんだ」と懐かしさに似た感慨がよぎったのだから、僕にとっては『久々の再会』で正しかったのだと思う。
「ただいま、父さん。母さんと美香は?」
父さんは僕の質問に、一瞬だけ意外そうな顔をした。
でもそれは口に出さずに、淡々とした口調で答えた。
「家で待ってるよ」
「そっか」
相変わらずそっけない父子の会話だ。
車に乗り込んでからも、父さんは僕に島での生活のことを詮索してこようとはしなかった。
ただ一つだけ、
「いいのか? 本当に」
という質問のみ。
「うん」
僕の答えもまたたった一言だけだった。
自動運転の車が高速に入り、加速していく。
ワンオクターブ高くなったエンジン音とともに、流れていく光の線を見つめていると、夢から現実に帰ってきた感覚が強くなってきた。
きっと全部、夢だったんだ。
そう思うことにしよう。
目をつむると、笑顔のメイが手を振っている。
でもその姿が徐々に白いもやがかかっていくのに、僕は一抹の寂しさを覚えたのだった――。
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……
「おかえり! おにいちゃん!!」
「順平!! おかえり!!」
「順平くん!」
家に到着した僕を出迎えてくれたのは、妹の美香と陽太や夢美をはじめとした多くのクラスメイトたちだった。
家族の美香はともかく、陽太たちは受験勉強のピークだろうに……。
目を丸くしている僕に陽太が、一段と太くなった腕を肩に回してきた。
「なにをぼさっとしてんだよ! 寒みいから早く家に入ろうぜ!」
「ちょっと陽太くん! 自分の家じゃないんだから、『おじゃまします』でしょ!」
「うっせえな、夢美は! そんな口うるさいから、いつになっても男が寄り付かないんだ!」
「な、な、なにをぉぉ!!」
陽太と夢美のやりとりは、あの頃と変わらない。
でも部活が終わって髪が伸びた陽太の頭や、薄いピンク色のリップを塗った夢美の唇を見れば、彼らが確実に『未来』への階段を上っているのが分かる。
それが嬉しいような、ちょっぴり寂しいような、複雑な心境だ。
「いこっ! おにいちゃん!」
美香が僕の手を引っ張り、家の中へといざなっていく。
この晩は、僕の『おかえり会』がささやかに行われることになっているらしいのだ。
「おい、順平! 今日という今日はあのゲームで決着つけてやるからな!」
「決着って……。陽太は僕に一度も勝てたことないじゃないか」
「うっせえ! 俺が認めるまで今夜は逃がさねえ!」
「ちょっと陽太くん! それじゃあ、明日も明後日も順平くんが逃げられないじゃない!」
「なんだとぉ!!」
「おかえり、順平。まずは手洗いとうがいをなさい。それからみなさんの分のスリッパを用意して」
「はい、母さん」
「お母様、お気づかいなく。おっしゃっていただければ自分たちで用意いたしますから」
「夢美さんって、おにいちゃんが鼻の下を伸ばしながらチャットするだけあって、すごくできた人ね!」
「えっ?」
「ちょっと美香! お、お、おまえはなんてことを!?」
「おい、順平! まだコクってなかったのかよ! ぎゃははは!!」
「よ、陽太!! てめえ!!」
家族と友人たちの温もりが、砂漠だった僕の心に潤いを与えてくれる。
それがありがたくて……。
嬉しくて……。
僕は心の中で何度も頭を下げた。
そして「帰ってきたんだ」という実感が、ますます島での生活を心の奥へとおいやっていったのだった――。
………
……
翌日。
僕は父さんと母さんの二人とともに車に乗り込んだ。
相変わらず母さんの化粧は長かったけど、イライラしなかったのは、この先何が待っているか、はっきりと分かっているからだと思う。
「ではいくぞ」
「うん」
運転席の父さんの声と同時に車が走り出した。
住宅街から離れると、すぐに小高い山や森に囲まれたのどかな風景が続く。
だが、車で1時間ほど行ったところで、景色は突如として一変した。
一つの街がまるまる入ってしまうのではないかと錯覚に陥ってしまうほどの広大な敷地に、近未来的で巨大な建物が何棟も並んでいたのだ。
そこは『国立難病治療研究所』。
略して『ナンチケン』と呼ばれているその施設は治療ではなく、研究をメインとした病院だ。
死神チェックで『治療不可能』と診断された病気に対して、実験的な治療や予防を行っている。
治療に成功すれば、もちろん余命は伸びる。
しかしその確率は絶望的に低いと言わざるをえない。
実際に一つの病気でも治療に成功したならば、衝撃的なニュースとして世界中を駆け巡り、たちまちあらゆる医学賞の候補としてノミネートされるだろう。
逆に言えば、ほとんどが『失敗する』ということだ。
では治療に失敗したらどうなるかって?
言うまでもない。
死神が笑いながら鎌を振りおろしてくるだけのこと。
入院翌日に実験に失敗して、命を落とすなんてこともざらにあるらしい。
すなわち患者は、カジノでベットされるたった一枚のコインだ。
ルーレットを回してしまったが最後。
もう止めようがない。
だから治療費は無償。
その代わりにあらゆる治療方法が事前の同意なく試され、事故が起こっても賠償を求めることはかなわない。
でも、それでもいい。
ただでさえ寿命が縮まってしまったんだ。
これ以上短くなったところで後悔はないから。
………
……
「君が滝田順平くんだね」
無機質でむだに広い部屋の中に通された僕たちの前に現れたのは、とても綺麗な顔立ちをした白衣の男性医師だった。
縁のない眼鏡をかけた彼は、30代前半くらいだろうか。
いや、20代前半と言われればそう見えなくもないし、逆に40代と言われても妙に納得してしまうような落ち着きがある。
とにかく年齢不詳のミステリアスな雰囲気の彼は、小さくうなずいた僕に微笑みかけた。
「私は村元陽翔。滝田くんの担当で、いろいろとお世話させていただきます。どうぞよろしくお願いします」
柔らかい物腰で、言葉遣いは丁寧だが、あまり『歓迎されている』という感じはしない。
まるでファミレスの客と店員のような壁があるようだ。
僕もまた形式ばったあいさつをした。
「こちらこそよろしくお願いします」
「はい、ではこれからのことを説明いたします。お手元の資料をめくってください。まず当施設のことなのですが……」
懇切丁寧に説明が続いていく。
ちょっとした漏れも許さないという施設の方針が、ひしひしと感じられた。
きっと説明不足によって引き起こされたクレームが後をたたないのだろう。
それも仕方ない。『命』でギャンブルをするような場所なのだから。
丁寧過ぎるくらいな説明と、がんじがらめな同意書へサインさせることが、ナンチケンを守る盾であろうことは、子どもの僕にも痛いほど伝わってきた。
あくびをこらえながら、ページをめくっていると、ふと脳裏に声が響いてきた。
――うん、うん! わたしが今日から君の『世話係』だからね! 早速だけど、『食事当番』のやり方を教えてあげるわ!
メイだ。
ろくな挨拶も説明もなく、気付けば腕を引っ張られてホスピスの中を駆けていたっけ。
「ふふっ」
思わず笑いを漏らしてしまった僕に、村元先生が不思議そうな視線を向けている。
「あんまり面白いことを話しているつもりはなかったのですが……」
「いえ、こっちのことです。続けてください。しっかり聞いてますから」
平気な顔して誤魔化すことができるようになったのも、メイの悪い影響だろうか。
でも……。
――うおおおお! うまあああい!! うん、天才だよ! わたしたち三人はカレー作りの天才だよ! あはは!!
僕にとっては、あの時のカレーライスの味を思い出す方が、はるかに意味のある時間のように思えてならなかったのだ。