第17話
………
……
いつの間に寝てしまったのだろう……。
まるで冷たい雨から親鳥に守られる雛のように、順平の柔らかな温もりに包まれながら芽衣は深い眠りについた。
ふと目を覚ました時には、もう彼の姿はなく、自分を包み込んでいたのは彼の腕から羽毛ぶとんに変わっていた。
「ジュンペイ……」
その名を呼ぶだけで、鎮まったはずの熱情がこみ上げ、涙腺を刺激する。
でも涙はもう乾いてしまった。
「あは……。わたし、振られちゃったのかな……」
出てくるのは虚しい笑みと、忘れられぬ愛しい想いだけ。
枕をぎゅっと抱きしめて、ぽかりと空いてしまった心の穴をふさごうと試みる。
「死神さんにあらがおうとしなかったから、嫌われちゃったのかな」
きっとそうだ。
でも……。
「でも、自分の気持ちに嘘はつけない」
もしこの恋を捨てて、余命を取ったなら、自分は絶対に後悔する。
彼と約束した『最高のハッピーエンド』は迎えられない。
彼女は今でもそう信じてやまなかったのだ。
「もう一度だけ、ジュンペイとしっかり話そう」
そしたら彼も分かってくれるに違いない。
文字通りに命がけの恋であるということを……。
そう決意してベッドから出ようとした時だった。
コンコンとドアをノックする音が聞こえてきたのだ。
「メイちゃん、ちょっといいかしら?」
それは所長の波瑠子の声だった。
芽衣の心に妙な胸騒ぎが巻き起こる。
「……はい」
短い返事とともにドアが開けられ、波瑠子がお盆にサンドイッチとオレンジジュースを持って入ってきた。
「今日の朝食は、モモカちゃんが作ってくれたのよ。彼女の作るタマゴサンドは絶品だわ。どうぞお食べなさい」
とても食事をとる気分ではない。一刻も早く順平に会いたい。
しかし波瑠子の有無を言わせぬ瞳に、芽衣は無言で首を縦に振った。
一口だけパンをかじると、程よい塩気と甘みがマッチしたタマゴサラダが舌から喉へと流れていく。
「ああ、美味しい……」
思わず漏れるため息とともに、霞ががっていた胸の内側が、少しずつ晴れていくのを芽衣は感じていた。
不思議なものだ。
一口また一口とサンドイッチを食べている間は、胸を締め付けていた順平の顔が消えていくではないか。
酸味のきいたオレンジジュースがすべて喉を通ったところで、彼女は空になったコップと皿に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
波瑠子はニコリと微笑んだ。
そして芽衣をじっと見つめたまた、さらりと告げた。
「ジュンペイくんは島を出ていったわ」
ふいを突く言葉。
「そっか……」
しかし口をついたのは短い一言。
こうなってしまうことは、心のどこかで覚悟ができていたのだろうか。
胸の動悸は早い。しかし我を失ってしまうほどの感情は押し寄せてこなかった。
彼女は確かにさとったのだ。
恋の終わりを――。
自然と顔がうつむいていく……。
と、そんな彼女の頭上から波瑠子の声がこだました。
「ジュンペイくんからこれを預かっているの」
同時に視界へ白い封筒が入ってくる。
『新田芽衣様へ』と書かれていた。
「あは……。ジュンペイの字だ」
とても細くて、綺麗な字。
彼のことを知りたくて、何度も見ているうちに心に刻まれた字だ。
封筒を手に取る。
その瞬間だった……。
「えっ……?」
順平と二人で探し続けた『風景』が、鮮やかな輝きとともによみがえってきたのである。
出会った日に一緒に作ったカレーライス。
岩山のてっぺんから見た朝日。
ウサギを追いかけていった先で、心細かった夜の森。
二人きりで大海原へ冒険に出た、木組みのいかだ。
大輪の花火の横で交わしたキス。
「あれ……。あれれ?」
枯れたはずの涙が、なぜかあふれてくる。
文字を見ただけだ。そこにあるのはただの文字だ。
それなのに芽衣は、すぐそばに順平がいるような、そんな優しさに包まれていたのだ。
流れる涙とともに、手紙を握りしめる手が震える。
「メイちゃん、無理しなくていいのよ。手紙は逃げないから」
心配そうな波瑠子の声に対して、芽衣は首を横に振った。
そしてゆっくりと手紙を開いたのだった――。
◇◇
拝啓
死神に嫌われてしまった君へ。
君がこの手紙を読んでいる頃には、僕はもう遠くにいると思う。
そして君と僕は、もう顔を合わせることはないだろう。
でも勘違いしないで欲しいんだ。
僕は死神と違って、決して君を嫌ったりなんてしない。
君は僕にとって、いつも輝いていて、美しくて、太陽のような存在だ。
でも今は分厚い雲に覆われ、眩しい陽射しは影を潜めてしまっている。
晴れた日の輝きを思い出して欲しいから、僕は手紙に残すことにしたんだ。
君と出会い、君と過ごした日々の記憶を。
君は覚えてるかな?
一緒に『風景』を探して駆け抜けた日々を。
そして死神にあらがうと誓った大輪の花火を――。
◇◇
君と出会う前の僕は、どこにでもいる普通の少年だった。
そして『普通』から一歩でもそれた時、人は誰しもこう言うと思うんだ。
――なんで自分が?
それは僕もまた同じだった。
僕は死神によって『普通』ではなくなってしまった。
直後から自己嫌悪と不幸のどん底に陥ったのも仕方ない。
君もよく知っているように、僕は君と違って楽観的なタイプではないからね。
でも今思えば、とても幸運だったと思っているんだ。
なぜなら僕は『普通』でなくなったからこそ、僕は知ることができたんだ。
周囲の人々が僕のことをどれだけ気にかけてくれていたかってことに。
まるで自分のことのように悩んでくれていたんだ。
本当にありがたかった。
そして僕は幸せ者だと心から思えた。
だから今度は僕の番なんだよ。
この手紙を書いている今でも、僕は君のことを真剣に悩んでいるんだ。
出会った頃の君を思い起こしながら――。
◇◇
あの頃の君は『今』を駆け抜けていた。
まるで風のように。
死神チェックで余命宣告を受けた人間は、歩み続けてきた足を止めて、静かに人生の終焉を待つのだとばかり思っていた。
だから君との出会いは衝撃的だったんだ。
君は覚えていたかな?
君と僕との出会いを。
軽い足音をたてながら廊下を駆けるように、この頃から君は『今』を疾走していた。
そんな君の姿は、出会った時から眩しくて、美しかった。
今の君はどうだろうか。
キレイな今をありがとう、って心から言えているかな?
◇◇
別に今の君を責めているわけではないんだ。
でもこれだけは分かって欲しい。
あの頃の君はいつだって最高のハッピーエンドを演出しようと、必死に『今』を生きていた。
『余命3年』なんて言葉にとらわれてなんかいなかった。
いつだって君が見ている風景は輝いていた。
一方の僕は、たとえクラスメイトや家族に「未来を諦めるな」と強く背中を押されても、僕の未来が何も変わらないのは分かっていた。だから僕の立つ絶望の淵には暗闇しかなかったんだよ。
――これからはジュンペイも『風景』を見つけよう! わたしと一緒に!
この一言から一筋の光が差し込み始めたのを、確かに感じたんだ。
その先に笑顔の君がいる。
だからこの時の僕は君に誓ったのさ。
僕は僕の『最高のハッピーエンド』を演出すると。
今もそれは変わらない。
だから僕は君にも『最高のハッピーエンド』を迎えて欲しい、そう願っているんだ。
◇◇
『最高のハッピーエンド』には『奇跡』がつきものさ。
そして人が人を想う気持ちには、僕たちには想像もつかないくらいな力があって、時にはその力が『奇跡』を起こすものだってことは、君もよく分かっているはずだよ。
だって僕たちは、とある『奇跡』を目の当たりにしたのだから……。
モモカさんとシュンスケさんが互いのことを強く想う気持ちが『奇跡』を起こした。
そして僕は君のことを強く想っている。
だから君に起こった『奇跡』は、僕からのプレゼントだと思ってる。
そんなの自意識過剰だ、と君は口を尖らせるだろうね。
でも僕はただ君に受け取って欲しいだけなんだ。
このプレゼントを――。
◇◇
今の君はがらにもなくすごく悩んでいるだろうね。
でも僕は信じているんだ。
君なら絶対にこのプレゼントを受け取ってくれると。
なぜなら僕たちは大輪の花火の前で誓いを立てたからだ。
死神にあらがおうって。
だからメイ。
生きて欲しい。
生きることに全力で挑戦して欲しい。
僕も君との誓いを果たすために、全力で挑戦する。
君と僕が恋をするのはかなわない。
悔しいけど、そこは死神の勝ちだ。
でも「生きる」ことでは負けない。
君と僕なら絶対に勝てると信じている。
一緒に死神なんて、ぶっ飛ばそう。
それが僕たちの『最高のハッピーエンド』なんだよ。
最後に、一つだけ謝らなくちゃいけないね。
僕は君の願いを叶えてあげられなかったこと。
だからせめてここで叶えさせて欲しいんだ。
まだクリスマスイブには少し時間があるけど、許して欲しい。
僕は君のことが好きだ。
好きだ。好きだ。
世界で一番、君のことが大好きだ。
好きだから生きて欲しいんだ。
出会ってくれて、ありがとう。
滝田順平
◇◇