第一話 郵便受けに届く手紙
あの時、僕は誰にも頼れなかった。
ただずっと過ぎ去る嵐に身を屈めて、固く瞼を閉じて、大きな音には耳を塞いで僕は自分を守った。それしか、自分を守る術を知らなかった。いつしか、僕は守るのがデフォルトになっていた。
目に光は灯らない。
顔は感情を知らない。
生き方は誰にも関心を抱かない。
そんな僕は惰性で生きて、怠惰に終わって、人生なんて大層なものではなく、僕を形作っていたのは僕を襲っていた彼らと同質の物だった。
そんな人間もどきの何かが生きていくには、今の世界は明るすぎる。人は一人で生きようとするものではない。この時の教訓は今でも僕の中で消えていない。
「消え入りそうなガキがいるなぁ…」
「……」
話しかけられるのは慣れていなかった。かれこれ何年も口なんか開いていない。自分が声を出す機能を持っているのかも疑問だった。
目線は上げない。ただひたすら座敷童子のように蹲っているだけだった。
「へっ、だんまりときちゃあこっちは手が出せねえや」
そう言って声の主はそのまま遠ざかっていく。いつも通りの光景だった。長年見てきた、ただの人間の足取りの1つになった。
期待も希望も何も無い。
あるのは強烈な眠気と気だるさだけ。もはや空腹の観念も覚えていない。…いつから食べていないんだっけか。
いっそこのまま眠ってしまおう。…もう考えることも疲れた。
「几帳面なやつだなぁ。あれからずっと動かねえでここにいやがんのかよ?」
どこかで聴いたような声だった。言葉の音全部に感情の乗ったとても重い声だった。
「ああ、そのまま寝てろよ?下手に動こうとすると体力使い切ってそのままパタリだぞ?」
もはや嘲笑のそれに近い半笑いの声だった。皺があるけど大きく筋肉質な腕が僕の身体を背中に乗せて固定する。
実に手馴れた手際だった。半分落ちかけた意識が捉えたのは暖かな背中と、革製品の触感。顔は見えない。でも、白髪をオールバックにしたイギリス紳士のようだと思ったことを覚えている。
視点が高くなり、夕陽の光が目を射して目を閉じる。目を閉じた瞬間に訪れる眠気は強烈で、今度こそ僕の意識は底の底へと堕ちていった。
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「………夢か」
懐かしい夢だった。
だってそれは10年以上も前の出来事だからだ。
夢なんてのも随分と久しぶりな気がする。昔は当然のことながら、今だってそこまで性質が変わったわけではない。染み付いた習性は拭い去る事は出来ない。
「たまたまかな…。夢なんて、見ても腹は膨れない」
朝霧が窓の向こうに見えている。どうやらまだ朝も早いらしい。
木製のベッドから抜け出して玄関を開ける。
周りには木。ただひたすらに木だけが立ち並ぶ。辛うじてある一本道がギリギリ社会への架け橋となっているような有様だ。
ここがどこだか住んでいる僕も分からない。ここに連れてこられてからずっと、地図やらなんやらを使ってここがどこだか調べたが、大まかな予想を立てることしか出来なかった。
ふぅ、っと小さく溜め息を吐く。
少し肌寒い中、両腕で身体を擦りながら一本道を歩いていく。朝霧で見えにくいが、少し行った所にある黒い郵便受けが徐々にその輪郭を明瞭になってきた。
「はあ…、毎度ながらご苦労なことだ」
黒い郵便受けのすぐ真下。郵便受けを支えている支柱の横に竹で編まれたザルの上に果物や野菜、そしてどこから持ってきたのか猪と鹿の生肉が鎮座していた。
ザルを抱えて、いつもは一通も手紙が来ない郵便受けの中を確認する。いつもは……そう、いつもは一通も来ない。当然だ、周りには木ばかりで誰もこんな場所にやって来ない。そもそも住所らしい住所すら存在しないこの場所に手紙なんて届くわけがない。
それでも毎日覗くのは、たとえ日頃は来なくても全く使わないということではないからだ。
この日入っていた手紙は一通。封筒は真っ白で宛名も住所も書かれていない。
この不自然な手紙が、僕にはまだ日常感がある。手紙の受け取りなんて、ここに来なければ知らなかったことだから。
竹ザルの上にその手紙も乗せて元来た道を戻る。木製で出来た小屋がすぐに見えてきて、僕は自分の家へと朝イチの仕事を終えて帰宅するのであった。
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我が家の私物はほぼ全て木製だ。水道やガス、電気は何故か通っているから文明の利器に頼ろうと思えば頼ることも出来る。だが…
「機械は駄目だなぁ!俺はどうも機械に嫌われてるからなぁ!!」
豪快に笑いながらそう言って扇風機を壊す養父を思い出す。ただの壊し方なら根気よく付き合おうとも思えるが、何をしたらそんな壊れ方をするのかと目の前で見ていても聞きたくなる壊し方をするもんだから諦めた。
養父の死後は必要最低限の電化製品を取り入れはしたものの、それでもテレビや空調設備のような大型の物は買わなかった。
今日届いた食材を一通り仕舞い、昨日余った食材を元に簡単に調理を済ませて机に並べる。不格好なウッドチェアに腰掛けて薬草茶を朝届いた手紙の封を開ける。
カップを机に置いて手紙を凝視する。いつもならそんなに手紙を熟読したりはしない。大概ここに届けられる手紙は養父宛ての相談事が多数だからだ。今回も例に漏れず、この手紙は本来養父に向けて届けられた手紙であった。だが、僕には無視出来ないことがある。それを無視すれば、僕はここにはいられないくらいに。
「おっさん…あんた、なんで僕をここに連れてきたんだ?」
幾度となく聞いた質問が不意に口をついて出る。これは養父にいくら聞いてもはぐらかされた質問だ。いつか分かる日が来るのかも分からない、ただ僕の中にある唯一の生きる理由だ。
意識を手紙から窓の外へと向ける。既に日は完全に昇った。今日は干し肉を作るつもりだったが、予定変更のようだ。
「はぁ…面倒なことにならないといいなぁ」
心底気だるい。だって、僕はこの物語の結末を知っている。一度は見た物語だ。ちょっと役回りが変わるだけ。
夢を思い出した。
珍しく見た夢。急に思い出した物語。初めからどん詰まりだった袋小路。
食べ終わった食器を片付けて荷造りを始める。
服は白いワイシャツに紺のズボン。そして上に羽織るボロボロの革製コート。
山の天然水を魔法瓶に詰めて手紙をコートのポケットに突っ込む。
「…行ってきます」
誰も答える人間のいない木製小屋。必要最低限の装備で、僕は人間らしさの象徴である家を出た。
家を出てから道なりに歩くこと30分程。周りが木々が立ち並ぶのは変わらないが、大きな整備されていない道に出る。僕の歩いてきた細い道の入り口に立っている白紙のバス停、行き先も時刻表も書いていない。
しばらく待つと一台のバスがバス停に停る。
乗客は誰もいない。そしてバスを運転している運転手の顔も目深に被った帽子のせいで顔は一切見えない。
一人ぼっちの車内で変わらない景色を眺め続ける。だが、変わらない景色の中に朝方見たような霧が立ち込め始めると、すぐに窓の外は白くなって外の景色も見えなくなる。
霧を抜けた先、そこは木々の姿など微塵もない完全な都会の街並みが並んでいる。いつの間にか、バスの中はたくさんの人で溢れかえっていた。
手紙を入れたポケットとは反対のポケットをまさぐりしっかりと財布があることを確認する。
バスが終点で停り、運賃を払ってバスから降りると見事な大都会の景色が目の前に広がる。
「駅のターミナルに百貨店。飲食店は当然として、バスのロータリーまであるとは、久々にデカい街に来たな」
日頃から木々に囲まれた生活をしていると、都会というもの自体に抵抗が現れる。僕の場合は一刻も早くその場から動きたいという衝動に駆られる形だ。
「さて、仕事仕事」
いっぱしのサラリーマンみたいなことを言うが、周りにはそれこそ本物のサラリーマン達がどこぞに電話をかけながら足早に僕の周りを歩いていく。そんな彼らからしたら僕の格好でこんなことを言っていたら腹立たしいことこの上ないだろう。
コートのポケットに手を入れてビルとビルの間にある細い路地を歩き始める。大通りから少し外れただけで人の姿はまばらになり、やがて見えるのは明らかに柄の悪い兄ちゃん達だけになった。
極力目を合わせず、同じペースを維持して彼らの横を通り過ぎる。彼らもただの通行人に一々絡むほど暇ではないだろう。
見るからに僕は金を持っているようにも見えないからな。
「とは言え、あんまりウロウロしてると目をつけられそうだなぁ。…早く見つけよう」
後ろから浴びせられる不躾な視線を感じながら裏路地の奥へと更に入っていく。時々顔を上に向けながら、僕は足取りを迷わせることなく歩みを進めた。
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他人なんてろくな奴がいない。
自分の利益の為なら何だってする。それが人間が人間らしい所だ。
利益の無い人間に価値はない。利益を認められなければそこに存在してはいけない。私はそうやって育てられた。
物心付いてから10年以上、私の生活は人間が人間らしい所をまざまざと見せつけられるだけの人生だった。きっと私は、不幸なのだろう。
暴力と飢餓が友達で、マトモならきっと生きてはいけない。頭のネジを飛ばさないと私は私を守れない。そうやって、私は自分を律して生きてきた。
「こんのバカ娘が!!」
そう。私はそうやって生きてきた。今更暴力の1つや2つーー
ガスッ!っと大の大人の蹴りがお腹に入る。込み上げる吐き気をギリギリ抑え込んで、私は身体を丸めることしか出来ない。そんな私に、更に容赦なく暴力の嵐が襲ってくる。
背中、腕、足。蹴る場所はそれぞれまちまちだが、数が増えるごとに鈍痛が大きくなる。
裏路地の奥の奥。ビルとビルの隙間の袋小路。四方はビルの壁、道は一本。裏路地の最奥と言っても過言ではない場所で、いつも私は寝起きする。
正確には、気絶して気が付いたら朝になっているのだが。
「ごめ…な…さい。つ、次…は…きっと…」
「毎日毎日そればっかりだろうが!盗みの1つも出来ねえでどうやって金を増やす気だ!バカ娘が!」
大柄で私を蹴り続ける太めの男はなんでも私の父親らしい。…いや、父親なのだろう。というか、別になんでもいい。
親とか、友人とか、そんなものは幻想そのものだ。
人は一人で生きることでしか自由になれない。
なんて言っていても、私は逃げる気も無い。だって逃げても、どうせまた同じようになるかもっと酷くなるかの2択しかないだろう。
だから私は、いつもこうして嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「けっ!明日は絶対に金を持ってこいよ…」
「ふっ…はっ…」
細かい呼吸でなんとか自分が生きていることを実感する。いつの間にか血も出ていたようだ額が切れたようで血の量もそれなりだが死ぬほどではなさそうだ。
「死…ななかった…だけ、マシ…かな。ゲホッ」
口の中を切って溜まっていた血を吐き出して壁に身体を預ける。
あの人はきっと今日も誰かの家に転がり込むんだろう。お互いがお互いの利益になる相手がいるだけ、私よりあの人の方が立派な人間だ。
顔が腫れて目も開けにくくなってしまっている。もう今日は寝てしまおう。
「立派って…何だろう?」
「ああ、まったくもってその通りだな。だが、僕達は少なくとも立派ではないわな。人間かも怪しいわけだし」
知らない人の声がした。何か重いものが目の前に落ちた音がする。物理的に重い瞼を薄らと開けた。
「…あれ?」
さっきまで私を襲っていた嵐が、私の父親だという人が、私に暴力をぶつけるしかしてこなかったあの人が…額から血を流して倒れていた。
「まっ、因果応報。…というかこのくらいやらないとお前を見ていた連中に僕がフルボッコされそうだったからな。許してくれよ、命に別状はねえから」
顔を上げる事は出来ないが、それでも私のすぐ前に腰を落とした人の簡単な格好は見えた。印象的だったのは、革製のボロボロのコート。
「大丈夫か?動けないなら手伝うが」
「いら…ない」
「そうか。でも悪いけど勝手に手伝わせてもらうぞ」
私の両腕を掴んでその人は私を背負おうとする。でも、頭の重心が後ろに行ってしまったりして手間取っている。
ようやく私を完全に背中に固定し、ゆっくりその人は歩き出す。ボロボロになっていても革製品らしい匂いが少し香ってくる。人の背中の温かさと革の匂い、その2つが合わさって私の意識が深い所へ沈んでいく。
どこに連れていかれようと変わらない。今更抵抗することも出来ない。次に目を開けたら今度はどんな地獄が待っているのか、それだけが私にとって唯一の気がかりだった。
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14、5歳の少女をほぼ誘拐に近い形で連れ帰ってから丸一日。今、僕の家である小屋には珍しく2人いる。こうして小屋に誰かいるのは養父が死んで以来か。
「しかし…よく寝るなぁ」
かなり酷い打撲みたいだったが、その傷はほぼ完治している。…手紙の内容に誤りはなかったということか。
「……ん」
ゆっくりと、ゆっくりと少女の瞼が開く。
緩慢な動作で上体を起こし、寝惚けたように周囲を確認して僕の姿を捉える。
「よっ、お目覚めみたいだな」
「あなた…誰ですか?」
胡散臭そうにジト目になりながら少女は掛け布団を身体に巻き付けて警戒態勢を取る。
全く、助け甲斐の無いお嬢さんだこと。
「僕は両磨。君を助けてやってくれと頼まれたものでね。お節介で悪いけど諦めてくれ」
やれやれと言ったように両手をひょいと上げて卑屈に答える。これで警戒が解けるとは思えないが、まあ話が出来るだけ僥倖だろう。
「頼まれた…って、誰が私を?自慢ではないですが、私にそんな…友人はいませんよ?」
切れ長の目が更に細くなる。まるで獲物を見つけた猫のようだ。
「友人はいなくても、何かはいたんだろうさ…」
ポツリと呟いて僕は机の上にあった手紙を少女に投げる。封を切ってある手紙からは中身が飛び出して少女の前に不時着した。
手紙にはある都会の名前とビルの名前、そして少女の名前や特徴が事細かに記されていた。
「誰が、これを?」
「ん?ああ、まあ説明しなきゃだよなぁ」
少女の前に立って頭をボリボリと掻きながら少し気恥しく思いながらこの小屋の役割を伝える。
「ここはこの世ならざる何かが相談事を放り込んでいく簡易相談所。俗に言う、妖怪相談所って所だよ。往見 縁さん」
なんか気晴らしに書いてたら筆が乗ってこっちを投稿することにしました。片府です。
本来は連載してる他の作品を書かねばならないのですが気晴らしに書いたらいい感じに一遍書けてしまいました。こちらは出来るだけ冒険じみたことはしないようにしたいと思います。
私がどれだけ色々なことを表現出来るか、書きながら色々考えさせられる作品となりました。皆様は何も気にせず、純粋に楽しめる作品になっていると願いたいです。
この作品は連載予定ですが、気が向いた時に進むと思いますので気楽にお待ちください。ちなみに、基本1話完結でございます。
では本日はこの辺で。皆様こちらの作品がお気に召しましたら是非私の他の作品もちらっと見ていただけたらなと思います。
今回は読んで頂き、誠にありがとうございます。