第8話
ぶつかり合う力の勝者はアーベラ──ではなかった。
彼女は、魔法によって強化されたエルフ美女の強靭な肉体の前に、自らも持つその強靭な肉体を打ち破られたのである。どよめきが辺りを包む。それもそのはず、ここにいる全員が、アーベラが負けた瞬間など見たこともなかったからだ。
力の押し付け合いに敗北したアーベラは、そのまま押し負けるようにして地面に叩きつけられ、その衝撃に僅かに顔を緩ませる。
同じく唖然としているキエルは、自らの服の端を掴まれた気がした。振り返ると、そこには瞳を潤ませたキュイの姿があった。
「どうした?」
「え、と」
彼女がそんな顔をしているのに驚きであった。アーベラとキュイの関係性を深くは知らないキエルであったが、そういえば、キュイはアーベラが勝手に連れ込んでいるとかなんとか聞いたような気もする。となると、彼女ら二人の仲は相応にいいだろうということは予測できる。
「……と、止めに」
助けに行ってくれ、ということだろうか、と考えるが、
「いや、俺なんかが行っても、どうにもならないだろうし、それなら、絶対キュイ、君が行くべきだと思うんだけど」
そう話しているうちに、状況は刻一刻と変わっていく。
力勝負に負けた後、すぐに立ち上がろうとしたアーベラであったが、それは達成することができなかった。
エルフが斧を片膝をついているアーベラへと突き付けていたからだ。振り下ろしきることなく、突き付けたのである。要するに、チェックメイト宣言をしている訳である。もうお前の負けだ。これ以上抵抗すれば命を奪う、そう述べている訳だ。エルフは最初から斧によって死傷を負わせるつもりなどなかった。柄での攻撃がそれを物語っているようにも思える。
「いや、お前が行け。……いや、行ってくれ、頼む」
キュイの強い言葉での発言、同時に、懇願。キエルは、そもそも、このキュイの言動をいまいち理解できなかった。外出するに至ったこともそうだし、今だってそうだ。
しばし考え、一つ、思い当たる。
「オルトロスか」
そう、アーベラに関連することについては、彼女、物分かりが良いというか、何と言うか、アーベラにプラスになる言動については寛容であるのだ。それだけアーベラのことを慕っているということだろうか。
「お願い! 僕にできることなら、なんでも、何でもするから」
考えるキエルに対して、キュイは必死な目をして頼ってくる。人を殺すような目でキエルを見ていた時のキュイとは凄まじいギャップを感じる言動であるが、それだけに、キエルの心に与える力は大きくなる。
「いや、でも、待て。だからこそ、キュイ、君が行くべきなんじゃないか?」
すると、キュイはまくしたてるように、けれど、決してその声がアーに届かないよう、キエルの耳近くで言った。
「アー姉は、僕に戦いを止められるようなことがあったら、傷つくから」
なるほど、あながち間違いではないだろうと感じる。彼女が、自らの強さに誇りを持っているであろうということは何となく想像が出来るし、しばらく共に過ごしているキュイが言うのなら間違いはないはずだ。アーベラを心底慕っているであろうキュイが動かないのが何よりの証拠でもあるし、何とか辻褄はあう。キエルがアーベラの意志に沿った行動、例えば、街を守るだとか、そういうことを発言したからこそ、キエルが役所の隅でしょげていたときに話しかけてくれてきたのだろう。
さて、ここまで言われては、キエルも断ることはできない。
そもそも強さ的な問題でキュイに行って欲しいところではあったが、ここでキエルは一つ、あることを企んでいた。企むと言うほどのことではないにせよ、一つ、思うところがあった。それは、ここで、アーベラに借りを作っておきたいということ。
無論、無策で突っ込んでいってどうにかなるとは思えないため、迷ってはいたが、しかし、キュイまでもが借りを作るチャンスをこうしてくれているのである。となれば、ここはとにかく前へ進み、後事は、これまで培ってきた社会人パワーで押し切ってやろうと考える。
そうしているうちに、アーベラの目つきが変わる。
何か行動を起こすように見えた。ここで起こしたら、流血沙汰は避けられないだろう。キエルは多少の回復魔法が使えるといっても、斧で受けるような重症に対処することが出来るかと言えば大きく疑問であった。
故に、キエルが飛び込むタイミングは、ここ。アーベラが行動を起こす前、今、この時!
どよめく観衆たちから一歩前へ出て、そのまま中心の二人へと近づいていく。より一層辺りがざわめく中、けれども、キエラは不思議とさほど緊張していなかった。それは、彼がこれまで培ってきた社会人としての経験があったと共に、つい先ほど、役所にて色々なものを発散し尽くしたということもまた作用していたのだろう。
キエルはエルフが持つ斧の柄に振れると、少し持ち上げる。おっっっも! と心の中で声を上げつつ、何とか平然な顔をして、エルフがアーベラに突き付けているその斧を僅かにアーベラから離れさせることに成功する。当然ながら、エルフは、このキエルの行動を何事かとあまりの唐突さ、そして、自然さに茫然としてた。それ故に、キエルの斧へ触れるという行為に対しても一切の口出しをすることがなかった。けれども、持ち上げたとなってはそうもいかない。手を出されたのであるから。
けれども、エルフが口を開くよりも前に、口を開いたのは他ならぬアーベラだった。
「おい! 何をしてる! これはあたしとこの女との二人の闘い! 手を出すな!」
キエルは冷静に、斧から手をどけて、パンパンと手を叩く。
「まぁまぁ! 二人とも、こんな街の真ん中で、こんな大衆の面前で、人が死ぬなんてこと、あってはいけないですよ! ね? ね?」
キエルは唐突に周りの人たちに問いかける。今、この場において、誰一人として味方がいない状況から、自分の助けになる存在を一人でも手に入れようというのだ。これは妙案である。キエルが自然と繰り出した、最善手と言ってもいい。誰もがやりそうなことながら、しかし、この場においては最善手。
何故なら、観衆たちは、誰もがアーベラのことを知っていたからだ。例え、アーベラと敵対するような人がこの場にいるとしても、一方で、アーベラに味方したいと思っている人がいるのも確か。かといって、手を出す訳にもいかない。そんな彼らの首を縦に振らせることに成功したのである。キエルが役人として、国家公務員として、市民を味方につける術をここで発揮。勿論、これはあくまで空気。空気を作ったに過ぎない。ところが、これこそが重要。まず、アーベラの反抗を防ぐ。彼女のプライドにとりあえず眠っていてもらうことにつなげたのである。
「えぇと、困りましたねぇ」
残るはあと一人である。このエルフを何とかすることができれば、この事態は丸く収まるのだ。
キエルは考えた。どうすればよいか。
そして、行き詰まる。打開策がない。ただこれ以上はやめてくれというのではあまりに芸がない。何かしらの見返りを要求される可能性も高い。そうなったとき、その見返りが要求される対象がアーベラに及べば、またことは大きくなってしまう可能性がある。これはあくまでこのエルフとアーベラの問題なのであった、その仲裁を行わなければならないキエルには、であるからして、ただ単にやめてくれという訳にはいかないのだ。
そこで、キエルは思い切って原点に立ち返ることにした。頭を使う、そのためには、現状を知らねばならない。そう、アーベラが見事に踏み外した原点。それを知る必要があるとキエルは思い至ったのである。
そして、次の一言は、まさかのまさか、この場の誰もが、あ、確かに、というべき一言であって、アーベラがその持ち前の筋肉思考によって思いっきりすっ飛ばした一言であった。
「ところで、貴方は誰ですか? 自分は、キエル・メーセン。この街の役人です。そして、今、あなたと戦っているその人もこの街の役人で、アーベラ・オルトロス」
自己紹介! ここに来て自己紹介を発したのである。
例えば、大きな大きな争いが起きるとあれば、その先頭に立つ戦人が、やぁやぁ我こそは、と名乗りを上げるように、キエルはここにきて自己紹介をしたのである。観衆たちが、ああ、確かに、とかバカのような同意を発している中、それに答えるはエルフ。
「あら、初めまして。私、連合正常化運動の参加員、エミーリエと申します、うふふ」
さきほど、んなぁあああ、と叫んでいたとは思えないほど優雅な笑い声と共に、色々な事実が明らかになる。
「連合、正常化、運動……?」
その単語をこの場に知る人は、キエルを含めて誰一人としていなかった。連合正常化運動、それはホーマ連合国家に数多く存在する国家組織の一つであり、国の監視者的役割を持つ組織の一端をなす国家組織なのだが、この広い連合内、その組織を知っている人は限られる。
まぁ、しかし、それはさておき、この場においてようやく、魔法によるドーピング筋肉むきむきの金髪美女の名前がエミーリエだということが判明した訳である。さらに言えば、これによって、アーベラがそもそも言っていた、怪しい奴がどうこう、という話についても、連合正常化運動の一員だという自己紹介によって解決してしまったのであるから、それはもうこの場にいるみんなが、おったまげた。
キエルの疑問にお答えするように、エミーリエは周囲の人々に、そして、アーベラにも聞こえるように、連合正常化運動の概要を説明する。
曰く、連合正常化運動とは、その名の通り、ホーマ連合国家内の不正な動きを正常に戻す運動を行う組織のことであるという。不正な動きというのは、例えば賄賂であったり、例えば国家組織の腐敗であったり、そういったものを指しているのだという。であるならば、こんなところで堂々と名乗りをあげていいものかとキエルは考えたが、どうやら問題はないらしい。ここに来ている理由は、ここに住んでいる人々を疑ってのことではない、ということまでエミーリエは話してくれた。
「えーと、つまり──」
そう、ここで、この場にいた誰もが、あれ、という疑問に行きつく。
そして、誰もがあの言葉を思い出す。それは勿論、少し前に、アーベラが言った言葉。さぁ、皆で一斉に言ってみよう。さん、はい。
「よーし、分かった! 問答無用だ!」
である。
さぁ、この発言について、是非検討してみよう。何が分かったのかという点はこの場の誰もが当時分からなかったのであるが、ここであえて、改めて記載するとすれば、この時アーベラはまず間違いなく、何一つ、よーし、分かっていなかったのである。はっはっは、こいつは傑作だ。
少しの静寂の後、改めてこの事実を明らかにしておく必要があると感じたキエルは、エミーリエに問うた。
「つまり、エミーリエさんがそこにいる、アーベラ・オルトロスと戦う意味は……?」
ごくりと全員が息を飲む。
エミーリエは、少し首を傾げ、同時に、魔法による肉体強化を解除して、美少女に戻った後、にっこり笑顔、可愛らしい透き通った声で言う。
「……さぁ?」
その場にいた全員がひっくり返ってしまいそうな言葉であるが、これはもう紛れもない事実である。
極々当たり前の問いかけによって、キエルはこの壮絶なる筋肉と筋肉の争いに終止符を打つという偉業を成し遂げてしまったのである。これぞまさに、頭脳のなせる業とでもいうべきか。勿論、言い過ぎである。
その言葉を聞いて、キュイがものすごい速さでアーベラへ駆け寄る。
「アー姉! 大丈夫!?」
「なんだ、なんだ、キュイまで来てたのか! キュイは元気だなぁ~」
「……もうっ! 無茶しないでよね!」
「ごめんごめん」
アーベラがキュイの頭をぐりぐりと撫でる。
「あー、と」
さて、どうしたらよいのかまるで分からなくなってしまったキエル。彼の仕事はこれにて終了。訳の分からぬうちに争いそのものまで終了してしまったので、それに伴って当然観衆たちもパラパラと解散していく。ほんの数十秒もしないうちに、道に残されたのはキエル、アーベラ、キュイ、そして、エミーリエの四人になってしまった。
あまりにもあっけない終わり方で、何をどうしたものか困ってしまったキエルは、とりあえず、エミーリエに対してどうしても言っておきたかったけれど言うタイミングがなかなかつかめなかったために言うことを諦めていた疑問を投げかけてみることにした。
「エミーリエさん」
「はい」
「あなた、なんでエルフなのに筋肉むきむきになっちゃうんですか!? バランス悪くないですか!?」
キエルの魂の叫びは、エミーリエのにっこり笑顔、及び、可愛らしく首を傾げる動作の前に霧散した。