第6話
キエルにはさほど筋肉がない。決して、体があまりに貧弱過ぎるという訳ではないが、彼自身、そんなものはなくてもこの世の中である程度の位置に立つことはできるだろうと考えていたからつけてこなかったという訳だ。
しかしながら、この役所にいる二人に関しては違う。筋肉こそ人生、力とは筋肉なり、と主張するがごとく、彼女たちはたくましい体を持っているのである。
であるからして、キエルはキュイの一撃によりあやうく嘔吐しかけるほど内臓にダメージを受けた訳で、キュイに対するキエルの好感度は地の底まで冷え込んでいた。何故あんな凶暴な女が役所にいるのか、そもそも、彼女は正式に国から認められてここにいる訳ではないというではないか、いつかぎゃふんと言わせてやろうと考えていた。
その一方で、アーベラに対する好感度はまだ一定の数値を保っていた。
とはいっても、彼女は、キュイに負けず劣らず暴力的である。脳みそが筋肉で出来ているに違いない。そう考えたキエルは、この先、自分がこの役所において何をするべきか、彼女に尋ねるのには強い抵抗を感じていたが、そうしなければならない理由があった。
それは、キエルがキュイに攻撃を受けたその日の朝、腹を抑えつつ軋む体に鞭を打ち、役所に溜まっている国からの指示やら何やらを整理しようとしたときのことであった。
そもそも。そもそもの話、役所の役所らしきスペースにあるのは筋トレ用の機材ばかり。なんとか一つある事務机は部屋の隅の隅の追いやられているし、その上に載っているのは一体何年放置されたのか分からない程劣化した黄ばんだ紙だらけ。手に取って見てみる。どうやら、国からの業務指示は十年以上前から行われていない様子だった。一応設置してある魔導通信機の電源を断ちあげてみようと試みるが、それもダメ。では、一体、この役所は何をしているのか、それさえも分からない。
という訳で、キエルはアーベラに自分は何をするべきか尋ねなければならなかった。悪習である、ここにいる人しか仕事の内容が分からず、それが形として残されていないというのは明らかに悪習であるが、それが悪習であるかどうかはさておき、今、ここでキエルがこの職場に切り込むにはそれ以外に道はなかったのである。
今この隙間風が吹き込むのではないかという貧相な筋肉スペース、もとい、役所スペースにいるのは、キエルをいないものとして扱っているキュイだけであった。アーベラはどこにいったのかと探してみる。役所の奥へ足を運ぶが、通路にも、寝室にもいない。昨日目にした斧倉庫をちらりと覗いてみたがそこにもいない。どうやら、いつの間にか出て行ってしまったらしい。どうしたものかと悩むキエル。外に出て探すという訳にもいかない。昨日痛い目にあったばかりだ。
となると……。
キエルは長椅子に寝転がってぼーっとしているキュイの元へと歩み寄った。休憩中……? まぁ、確かに、そんなに長い時間筋力アップをしていても逆効果ということもあるだろうし……。天井を見上げているキュイの視線が、寝転がっている体が僅かに動き、キュイを見下ろすキエルへと注がれる。
「あの、聞きたいことがあるんだけれど」
帰ってくる返事は当然沈黙である。いや、沈黙ならまだいい。明確な無視である。視線を逸らし、見なかったことにしようとしているのである。このドワーフ女め、小さい体して生意気な、と、アーベラと違い凹凸の少ない体を見ながら考えるキエル。どうでもよろしいが、それでもキュイは確かに女性であり、足のラインは魅力的──なんてことを考えていればまず間違いなく再び体中に激痛が走る結果になるであろうことは目に見ているので、キエルは雑念を振り払ってなんとかコミュニケーションを試みようとするものの、普通に接していては彼女につけいる隙はないだろう。今朝の一件で、より鉄壁になってしまったという見方もできる。
キエルは粘り強い男であった。
しかし、昨日あまりにも色々なことがあったため、もう何もかもが面倒くさくなりつつあった。いくら精神力が強い人間であっても、誰しもそういうことはあるはずだ。普段であれば、上司の目もあり、仕事を投げ出すことなんて出来ないため、どうにかこうにかしがみつこうとするだろう。しかし、この地において上司という存在もいなければ、仕事さえない。
そんな思考がキエルの頭に及んだ時、ついに、キエルの理性の一部が音をたて崩れ去っていった。
「もーいいや! 知らねぇ!」
いきなり誰に言うでもなく叫ぶ。頭がおかしくなってしまったのではない。本心である。昨日の昨日まで、何とかこの地で懸命に、地を這ってでも真面目に仕事をし、なんとか見返してやろうと思っていたキエル。しかし、役所は木造、筋トレ器具しかない、魔導通信機は壊れている、街に出れば不良に絡まれ、唯一頼れそうなアーベラはちょっと頭が弱い、そして、目の前にいるキュイとかいうドワーフの女は俺を目の敵にする血も涙もない女であり、かといって、彼女の強靭そうな肉体の前に嫌味一つ言うことさえできない。さらにさらに加えて言えば、この場で叫んだところでそれを咎める上司もいなければクレームをつけてくるような市民もいない。それらすべての条件が揃ってしまったが故に、キエルの強い信念にヒビが入ったのであった。人間だもの、仕方がないのだ。仕方がないじゃない。
キエルは役所内に唯一ある机をバシバシ叩きながら、
「俺は真面目にやってきたんだ! 自分の地位のためとはいえ、街を良くしようとやってきた! 生産だってあげた! ドラゴンが来ると忠告もした! なぁあんにも分かっちゃいない! やめてやる、こんな仕事やめて、もう家に帰って商店を継ぐ!」
魔導通信機に手をかける、しかし、壊れているので通信出来ないことを思い出し、乱暴に叩きつける。机を蹴り上げ、しかし、思ったよりとても固く、足を抑えて床に座り込む。
まさか業務中に感情が爆発してしまうとは、と心の中に僅かに残った冷静なキエルがいる一方で、一度溢れ出した不満は留まることを知らず、ついには涙まで出てくる。
引き金となったのは、キュイに無視をされたことであったが、そんなことは今となっては実にどうでもいいことである。心のダムの決壊はとても簡単な刺激で起きるが、一度決壊してしまえば、その刺激が何であったかということはまるで関係がないのだ。
キエルがいじけて座り込む。キエルとしても、周りに誰かがいればこんな姿をさらすことはあり得ないのだが、どうせいるのは相手にもされないキュイ一人、もう彼女の前で何をやったところでどうせ関係ないのだからと開き直っていた。
数分の時間が流れるが、キエルの感情は蓋がしまらなかった。それも仕方あるまい。理不尽ながら、新天地に来て、なんとかやっていこうと前向きに弱音も吐かずにここまでやってきたその心が折れてしまったのだから。けれど、ここでへたり込んで終わり、というのがキエルではない。彼はこれでも社会人。一度くじけたくらいでは諦めない強い心を持っていた。それでも、立ち直るには時間がかかる。
そんなキエルの耳に、足音が聞こえた。アーベラだろうかと思うが、座り込んで伏せている顔を上げる気にもならず、いっそこのままいないものとして無視してくれと思っていたが、異変に気づく。役所のドアが開いた音はしていないのだ。となると……仕方なく顔を上げた目の前にあったのは、キュイの小さな顔であった。
しゃがみこんでキエルの顔を覗こうとしていたキュイとキエルの顔は極々近い位置でそれぞれの視界が真っ直ぐにそれぞれの顔を捉える。
こうして改めてみてみると、キュイの顔つきは幼く、驚いた目つきは、殺意を込めている時のそれとは全く違って、顔全体が柔らかくさえ見える。
「あ」
声を出す。何だか、このパターンは見た事があったからだ。同時に、キュイの顔つきも、驚きから攻撃をする顔つきに変化していくのが分かり、キエルは目を瞑って身構える。来るぞ、来るぞ、攻撃だぁ、一度開き直ったキエルは、何だかワクワクしつつ(※何かに目覚めた訳ではない)身構える。
しかし、そこに一撃が飛んでくることはなく、目を開けたキエルの視界に入ったのは申し訳なさそうにしているキュイの姿だった。
「あ、えっと……」
「…………」
沈黙。キエルも堪らず沈黙する。けれどいつもと違うのは、キュイが何か言葉を発しようとしていることだった。
「……その」
キュイの視線は、これまでの傲慢な態度が嘘であったかのように左右に揺れ動いたり、上を見たり、下を見たり、落ち着かない。そのたびに、後ろのポニーテールが揺れ動く。が、意を決したのかようやく続きを述べる。
「色々と、誤解、していた」
「誤解……?」
「お前が、熱心、というか、熱い、というか、そういうヒトだって、ことを。知らなかった」
キエルは、今一度自分が述べた言葉などを思い返してみるが、勢いに任せて述べた言葉の中に、彼女にそう言わしめるような言葉があったか思い出すことは難しかった。
「すまなかった」
頭を下げるキュイにあっけをとられるキエルであったが、自分の感情をひとまず心の片隅に押し込めると、目の前に起きていることに対処しようと頭を働かせる。
「いや、いいんだよ、別に」
気にしていない風を装う。ここで、いや絶対に許さない、なんて言えるハートの持ち主であったならばきっと心のダムは決壊していなかっただろう。
「すまなかった。この通り」
キュイが深々と頭を下げ、その濁った金髪の後頭部が目に入る。キエルは思う、あれ、実は、この子、ちょっと暴力的な問題を抱えているけれど、いい子だったりするのか、と。だってそもそも多分こうして謝りに来たのも、自分が馬鹿みたいなことを言って落ち込んだりしている様子を見たからだろうし……。そうであれば、ここはとりあえず、許してあげるのが良いであろうと判断する。
「よし、うん、分かった。大丈夫。それに、こっちも色々気に障ることをしてしまったのは事実だ。そこでだ」
キエルの言葉にキュイは頭を上げる。
「良かったら、この街を案内でもしてくれないか? オルトロスはいないみたいだし、自分一人じゃ、その、ね」
簡単ではあるが依頼をする。些細なことであるにせよ、こうしてお願いをすることで、相手の罪悪感を拭い去ろうという試みだ。ちなみに、敢えて濁しているが、キエルが一人で外に出られない理由は、言わずもがな、理由は不良に絡まれるから、である。
役所を出て、キュイは扉に不在との文字を書いた札を掛ける。荒らされはしないのか、と聞いたところ、役所を荒らしても持っていくものなど何もない、という実にシンプルな返事が返ってきた。
さて、けれども、キュイの案内は、キエルにとって実に退屈なものとなる。
とにかく、口数が少ないのだ。いや、少ないというのもおこがましい。ゼロである。無である。決してキュイは不機嫌な訳でもなければ、街の事が何も分かっていないという訳でもない。キエルが問えば、そう、うん、という返答(?)が返ってくる。
あ、そうか、とキエルは一つの考えに思いつく。この子、コミュニケーションが苦手な子なんだ! という実にシンプル過ぎる答えに行きつく訳だが、だからといってそんなことを言ってしまえばせっかく築き上げたこの信頼関係のような何かがまた崩れ去ってしまうので、そっと胸の奥に留めておくことにする。
「……にしても、やっぱり、治安悪いよな」
「うん」
相変わらずの返答を気に留めず、キエルは街を見渡す。けれども、うろつく人々の目にはそれなりに生気が見える。何だかんだで人生を楽しんでそうな連中が多いのも確かだ。一方で、喧嘩などが視界に入ることは頻繁にある。
道の真ん中に人々が輪を作っているのが目に入る。キエルは指さして問う。
「あれは?」
「喧嘩、多分」
気になって近づいてみると、そこには柄の悪そうな連中が人の壁を作って、その中央に何かを囲っているようであった。この街の有名人か何かが喧嘩をしているのだろうということが直感的に分かるが、この先のことも考えて、キエルはその二人の顔を拝んでやろうと何とか人ごみをかき分けて入っていこうと試みる。しかし、身体つきのいい連中に睨まれ、跳ね除けられ、うまく入っていくことができない。
「……はぁ」
キュイがその様子を見てため息をつき、キエルの腕をつかむと、豪快に人ごみをかき分け、その先にいるであろう目標に向かって突き進む。小さいのになんて力強いの、とあまりの遠慮なさに感心を覚えるキエルであったが、そんなキュイのおかげで、キエルはようやく目標の人たちを見ることに成功する。
そして、そこには、キエルが、さらにはキュイまでもが目を丸くして見なければいけない人がいたのである。