第5話
結局、仕事関係の話をすると頭が痛くなってくることに気づいたキエルは、けれども、少しでもアーベラのことを知ろうと、彼女自身のことを質問することにした。曰く、好きな武器は斧。強いと思う武器は斧。無人島に何か一つ持っていくとしたら斧。斧、斧、斧。
「──待ってくれ、ということは、体を鍛えているのも、力が必要だとか、強さがどうだというのも……」
「勿論、斧を使うためだ!」
断言される。脳みそ筋肉とこれ以上まともな話し合いは難しいと考えると、キエルの頭はさらに痛みを増す。
「あー、じゃあ、するってぇと、あのもう一人のキュイ、って子も……?」
「斧!」
「いや、略し過ぎ!」
まぁ、略し過ぎだが、大体言いたいことは分かる。斧を好み、斧が強いと思っており、斧を心から愛し、斧の、斧による、斧のための生活をしているということを指しているのであろう。
筋肉だけならまだしも、斧という野蛮極まりない武器を好んでいる二人を相手に果たして自分はこの先、生き延びることができるのかという不安がキエルから解消されることはなかった。
幸いにも、キエルが酔いつぶれるよりも前に、アーベラが、眠くなってきた! と高らかに宣言したため、酒の席が無事終わることとなる。
その後、二人が向かったのは勿論役所であり、役所についてでようやく、キエルは今晩の寝床のことに意識が向かう。
「あー、そういえば、そうだ。役所の近くに、役人用の寮があると聞いていたんだが……」
役所に入ると同時にアーベラに尋ねたキエルであったが、アーベラは、んん~、と唸ると、役所の中にあったソファに寝転がり、そのまま動かなくなってしまう。
……。沈黙。
「はぁ」
キエルはため息をついた。日は沈み、役所の中は僅かな魔力の魔力灯が点灯する。薄暗い部屋の中、いるのはもう既にいびきをかいているアーベラと──こちらは手にぶっそうなものを持っているキュイ。キエルは諦めた。仕方ない、この場でこの役所のことが分かる者はもうキュイしかいないのだから。
座って、斧を手にしているキュイ。先ほどのアーベラからの話がなければ、これはもう自分は今日の彼女のお食事にでもなってしまうに違いないという恐怖を覚えたであろう。キュイは斧を丁寧に磨き上げているのである。
「あのー……」
恐る恐る話しかけるキエルに対するキュイの返答は、
「……………」
勿論、無言。キエルを見ることもなく、ただ斧の手入れをし続けている。手を止める様子さえない。
しかし、彼女に聞かなければ自分の寝床が分からない。このまま突っ立っている訳にもいかない。何とか懐柔する方法はないものだろうかと思考を巡らすが、残念ながら良い方法は何一つ思いつかない。
最低でも、場所さえ聞き出せればいいのだ、ともう一度気を取り直す。
「あの、社員寮の場所を知りたいんだ」
「…………」
「社員寮というか、俺が今日から寝泊りする場所を」
「…………」
「キュイさん」
「…………」
「社員寮の場所をだね」
無視され続けても、ひたすら反応を伺いながら何度も問いかける。これこそ、必勝、相手がうっとうしくなるのを待つ作戦。いくら鋼の精神を持っていようとも、うっとうしいに変わりないだろう。もうキュイに気に入られることは半ばあきらめかけていたキエルは、好感度など放っておけとばかりにうっとうしすぎるしつこい上司を演じるのである! 無視し続けても地獄の果てまで目の前でごちゃごちゃ言い続ける。ほんの少しの情報を与えるだけでこの人間は黙る。その二点があわされば……。
ビシィ! とキュイが指さす。無言で。キエルの方を見ることなく。指し示すのは役所の奥。
「ああ~ありがとう、ありがとう!」
このお礼は、教えてくれたことに対するお礼であると同時に、暴力的な行為が伴われなかったことへのお礼でもあった。
さて、キュイが指し示す先がどのようなスペースなのか、キエルは知らないが、しかし、そこで寝泊まりしていいということは確かだろう。そうでなければ、またこの場所にキエルがキュイに言葉を求めてうっとうしくやってくるのであるから、彼女が嘘を教える必要などないのである。
キエルは、不良たちから奪われなかった荷物を手にして、キュイが指示した役所の奥へと歩みを進める。木製の扉を一枚開け、短い廊下の先には二つの扉。突き当りの扉を開けると、そこには小さい斧やら、大きい斧やら、中くらいの斧やら、そして、人が二人か三人がかりで持つような大きな斧とかが入っていたので、そっと扉を閉める。
そのまま顔を少しひきつらせながら、もう片方の扉を開けると、そこにあったのは寝室と呼ぶべき空間であった。ベッドが一つ。床には絨毯や毛布などが散乱していたり、クッションやら何やらが散らかっていたりするが、ここは紛れもなくベッドルームであろう。
特徴的なのは、入り口にわずかな段差があるということであり、どうやら、そこで靴を脱がなくてはいけないらしい。ホーマ連合の国土は広い。郷に入っては郷に従え、キエルは靴を脱ぎ部屋の中に入る。
広さは役所の表の部屋と比べると、三分の一、いや、それ以下であり、人が二人も入ったらいっぱいになるだろうが、キエル一人が住む分には何の支障もない。無論! ヴェストール自治区のおんぼろ宿のさらに下を行くみすぼらしい空間であることは事実であり、キエルは、こんなところで何十年も住み続けるのは絶対にごめん被ると考えていた。絶対にこの場所を脱出してやると強い決意を再確認するのに十二分な材料となったのである。
「はー、今日はもう疲れた……」
窓から日の沈んだ空を見上げてつぶやく。もう今外に出るのはあまりに危険だろう。昼間でもあの治安の悪さだ。夜、キエルのような人間が外に出るのは、身ぐるみを剥いでくださいと言うようなものだ。
荷物を適当に部屋の隅へ置く。収納スペースが部屋にあるが、そこは物で埋もれているため、明日以降整理させてもらおうと考えつつ、唯一あるベッドの上に寝転がる。ギシギシと軋む音が聞こえるが、大丈夫、問題なく寝ることはできそうだった。
仰向けに寝転がる。天井ももちろん木造であり、木目が丸見えである。しかし、どうにもありがたいことに、ここらは気候が温暖だ。冬といえど極寒にはならない。であるからして、モンスターも活発であり、それがいまいちこの地が発展できなかった理由でもあろう。
そんなことを考えていると、キエルは眠気に襲われた。一日、慌ただしく動いていたのだ、仕方あるまい。眠気に抗う意味も薄く、キエルは目を閉じ、そのまま眠りへと入っていった。
朝早く。陽が山と山の間から顔を見せる頃から、すでにバラウォンの街は動き始める。バラウォンの街は夜の間も活気づいている地区があるほどにまるで不夜城のごとく動き続けていたが、朝が来ると、夜活動していた層とは別の層が動き始める。
その大半は、モンスターたちが住む場所へと出発する者たちだ。彼らは朝早くに出発し、日が暮れるよりも前に帰ってくる。奥深くの生息域へ向かう場合は、野営をするなどして長期に渡って滞在するものもいたりするが、それはもちろん多くの危険を伴うため、冒険者の中でも熟練の者たちが多い。外で一晩越せるようになるというのは、冒険者の中でも初心者と中級者を分ける一つの目安ともなる。
さて、そんなバラウォンの冒険者たちとは違い、まだ眠りについている者たちがここ、バラウォンの役所の中にある一室にいた。彼らの名は、キエル・メーセン、そして、キュイ。
なんと驚くべきことに、彼らは今、二人で一つのベッドの上に寝ており、その体はまるで密接するがごとく近い位置にあり、というより、キュイの下半身より下はキエルの上半身に思いっきり乗りかかっていたりする。
うなされるキエル、一体彼は何の夢を見ているのであろうか、ということはさておき、この状況、何が一体どうなってしまったというのか。そして、この状況下において先に目を覚ましたのは、一人ですやすや疲れをとるために寝ていたはずのキエルであった。
「……」
目を開けて天井を見る。なんだ、この汚い部屋は、と思う。そして、ほんの数秒で、ああそうかと思い出す。自分が左遷されて、バラウォンという辺境の街の役所に来てしまったという事実を。さて、と起き上がろうとする。起き上がれない。何故か。それは、キエルの体の上に重石が載っているからである。
では、その重石の正体は? おそるおそるその正体を見るキエルの視界に映ったのは、二本の棒と、その付け根あたりにある──尻。それは太ももであり、尻である。さらに視線をたどっていくと、体、腕、顔。幸いなことは、キュイが露出の少ない服を着ていたことであろうか。
キエルは考える。
何か自分は間違ったことをしてしまっていたのだろうか、ということについてだ。確かに、昨日の夜、酒は飲んだ。結構な量飲まされたが、しかし、泥酔とまではいかず、無事ここまで帰ってきたことを覚えているし、その後、キュイに寝床を指示してもらったことも覚えている。キエルの記憶が五分前に脳に書き込まれたものでもない限り、キエルは自分が間違ったことをしていないだろうということを確信する。
しかし、である。
問題は、今、自分の上に、二本の太ももが載っているという事実である。変えようがない事実であり、鍛え上げられているであろう太ももは服に隠れているものの、その形を間違いなくくっきりと表している。
キエルは決断した。二本の太ももの下から脱出することを。
決死の作戦が今始まる。キエルはそのまま体をどけることは困難を伴うと判断し、キュイの腰に手をかける。何も全身を持ち上げる必要はない。手はただ添えるだけ。少しの隙間が出来れば簡単に脱出できるだろう。脱出してしまえばこちらのものだ。そのままキュイの体をベッドの上へと降ろす。それで終わり、何もなかった。何も問題は発生しない。
キエルの頭の中では、この後自分がとるべき行動が完全にシミュレーションされ、やぁおはようアーベラという声とともにソファで寝ているであろうアーベラを起こして、今日からいよいよこの街、バラウォンの再建やらなにやらに向けて行動を開始し、ついには街の治安とかそういうのを復活させて、功績を認められああだこうだと昇進していくのだ。それこそが、キエルのたどる道、こんなところでドワーフの女の子のちょっと柔らかい太ももの下敷きになり続けてほうけている訳にはいかないのである。
決心したキエルはキュイの腰を持ち上げる。わずかにできた隙間から、見事体を脱出させ、キュイの腰を降ろし、なんともスムーズに任務を完了させた、はずであった。
しかし、この最後の瞬間、バタンと扉が開く。
その音に驚くキエルはその方向を振り向く。いや、決して、彼は好き好んでキュイの腰に手をかけ立ち上がったわけではない。キュイの腰をつかみ続けている訳ではないのである。ほんの少し、扉が開く時間が遅ければ、アーベラがこの瞬間を目撃することもなかったのである。
これはとんでもない偶然にも見えるが、しかし、このバラウォンの街の朝は誰にも平等に訪れる時間であり、朝のわずかな賑わいによって目を覚ますのは、何もキエル一人ではないということからも、残念なことに、これは悲しくも必然であったと考えることもできよう。
「……まっ!」
アーベラは口に両手を当てて、驚いた顔をしている。叫ぶ様子もない。しかし、キエルは焦る。
「いや、違うんだ、これは、その」
実に典型的な焦り具合で弁明しようとし、とにかく、腰から手を放すべきだとキュイの方へ視線を向けたところで、さらなる衝撃の事実が明らかとなる。ぶつかる視線。片方はキエルのものであり、もう片方は、キュイのものである。キュイはゴミを見るような眼でキエルの顔を睨んでおり、そこに一切の慈悲はない。
「あー、これは……だね」
冷静になればこのゴミを見るような眼に対しての反論は実に容易である。自分はキュイにそちらの部屋で寝ろと指図された後に寝ていただけであり、今自分がキュイの腰を掴んでいるのは、そもそも、キュイの寝相が悪いからではないか、ということを指摘すればいいだけなのだ。
しかし、残念なことに、こういう場において即座に冷静な発言をするということは大物政治家が記者らに問い詰められた場において問題発言をしてしまうのと同じように困難なことであり、よって、即ち、次の瞬間、キエルの体には重たい衝撃が叩き込まれ、体は宙に吹き飛んでいったのである。