第3話
このあまりにも悲惨な光景に、キエルは何か別のことを考えようと試みた。あ、そう言えば、アーベラとかいう女、あんなこといってなかったけな、そう、確か、
「未来ある若者たちの未来を奪うのはよくないし──」
とか、何とか。えぇ?! 正気か!? その言葉は一体脳のどのあたりで考えてから発せられたんだ!? キエルの数々の疑問は、目の前の悲惨な戦闘の前にどこへ発散されることもなく思考の彼方へと消えていく。
キエルはあっけにとられて見ている他なかったが、その戦闘は一方的なものだった。アーベラ・オルトロスなる獣人はその鍛え上げられた肉体で不良たちをばったばったと倒していく。見ているだけでも心地いいほどの圧倒的な展開に、キエルは魔力の存在を疑うが、僅かに分かる程度のキエルでは、アーベラから魔力の発生は感じられない。肉体強化を行う魔術は確かに存在するが、恐らく、アーベラの体にそのような付加はかかっていないだろうと考えられた。
ものの数分の間に、不良たちはついにアーベラを倒すことを諦める。これ以上ここにいてはあまりに危険と判断したのだろう。その判断は紛れもなく正解そのものであり、逃げる彼らをアーベラは追うことなく見つめていた。
事態が収まったことを確認したキエルは、一言お礼を言おうとして、はたと思った。そういえば、この人、役人だとか言っていた。では、自分が発するべき言葉は、ありがとう、であっているのだろうか? うん、確かに、それは必要な言葉かもしれない。しかし、左遷とはいえ中央付近の地から飛ばされた自分の役職はここでは彼女たちより上のはず。そう考えると、今の武力による制圧を注意しなければならないのではないか……? そう思ったキエルであったが、しかし、ずしずしと迫ってくる逞しい体を持つアーベラに注意をすることなど到底できないと判断する。
「あー、あー、えーっと」
一体この女はどのような人なのだろうか。さっきのような恐ろしい行為を平気で行うのだから、血も涙もない人に違いない。これはまずいぞ、逃げるか、逃げちゃうか、なんてことを考え、どうやったら身を守れるか必死に答えを探そうとするキエル。けれども、アーベラは近づくと、その顔を素晴らしく豪快な笑みに変える。
「君はあれか? 旅人かな? それとも、その姿を見るに──うーん、そうだなぁ、商人! そうだろう! いや、よくこんな辺境の地に来てくれた! あたしは、この辺りを収めてる役所の役人だ。アーベラ・オルトロスという」
すっと差し出された右腕。キエルは改めて、アーベラを見る。身長は同じくらいだ。露出の多い服装が、腹筋の凛々しさを強調する。キエルがイメージする獣人の女の子とは全く違う逞しさ。彼女なら、ジャングルの奥底に放置されようがその身一つで魔物たちの頂点に立ちでもしそうなくらい。一方で、その体つきは、グラマラスであった。胸のふくらみと、太ももが女性ということを確かに表しているのである。キエルはしどろもどろしながら答える。
「あぁー、ええと、キエル・メーセンだ」
少し迷ってから、付け加える。
「ヴェストール自治区の役所から来た」
ヴェストール自治区はそれなりに都会であり、ホーマ連合国家の中では場所を知らない者は教育を受けていないような層くらいだ。そして、当たり前であるが、役人であれば、誰でも知っている──はず。
「……?」
首を傾げるアーベラ。キエルは、聞こえていなかったのかと判断し、もう一度言う。
「ヴェストール自治区だ。ここから東へしばらく行ったところにある……」
「……? ん? ああ、そうか! さっぱりわからんけど、よろしく!」
ダメだ! 全くピンときていない! 絶対にこの人、ヴェストール自治区のことを知らない! どうやって公務員の試験に受かったのか全くもって不明であるが、キエルは念のため、そう、念のため尋ねた。彼女はこの街の治安を守る的な公共グループとかに属しているから役人と言っているかもしれないという可能性を辿るためだ。
「えぇと、オルトロスさん。君は、役人だと言ったが……」
「ああ、そうさ!」
「役人というと、そのー、どこで活動を?」
「あー、そうさね。ここで立ち話をするのもなんだ、よし、役所で続きを話そうじゃないか。またうっとうしい奴らが寄ってきても面倒だしね」
にっこり笑うアーベラは、その後に不吉なことを付け加えた。
「ま、一人関係者がいるけど、気にしないでね」
道中の様子は爽快なものであった。
アーベラが歩く。柄の悪い連中は、その顔を見ると、ひそひそ話ながら道を開ける。まるで蜘蛛の子を散らすように、とまではいかないまでも、明らかにいかつい人たちはアーベラに近寄ろうとしない。たまに挨拶してくるような連中は、不自然に服装が整っていて、何だかそれだけで不気味である。
その後ろを歩きながら、キエルはどうやって話を切り出してよいものか考えた。
「いや、この街は、いつもこんな感じなのかな」
「ああ、そうさ。何せ、魔物たちがすぐ傍にいるような場所だ。柄の悪い連中が集まる。最近、奇妙な格好でここらで見ない奴が辺りをうろついている、とかいうタレコミがあって、ここらを歩いていたら、お前さんが襲われてた、って訳だ」
「な、なるほど」
お前は警察か、とツッコミを入れたくなったキエルであったが、ここは一応我慢しておくことにした。もしかしたらそうかもしれないし。
すると、アーベラが突如、笑い始める。何事かと唖然としながら歩みを進めるキエルに、
「いや~! それにしても、あんな雑魚にびびり散らかしちゃって! キエル、君は弱いなぁ~! そんなんじゃこの街でやっていけないぞ? えーっと、商人だっけ」
キエルは少しむかっとしながら、
「自分もオルトロスさんと同じ役人だ」
キエルはプライドが少しばかり傷つけられた仕返しとして、何か言い負かしてやろうかと企む。どうやら、相手にはそれなりの教養さえないと思える訳だし、言い負かすなど造作もないことだろう、とキエルの中の自尊心が背中を押す。
「それに──見たところ、オルトロスさんは役人とは程遠く見える……。こんな辺境の街、ごろつきばかりが溜まっていて、豊かな生活とは程遠い。治安も悪く、とてもホーマ連合に統治されている土地とは思えないくらいだ」
言葉は次々に出た。
「俺はね、これでもヴェストール自治区から来た役人だ。こんな辺境の地で終わる人間じゃない。それに、俺はここと統括する責任者として転属命令を貰っている。オルトロスさんには悪いけれど、俺の指示に従ってもらうことになるだろうし──」
そこまで言ったあたりで、二人は役所に着く、やはりか、と考えるキエル。しかし、前を行くアーベラは役所に入る手前で、グルリと体を方向転換した。キエルを睨みつけている。少し言い過ぎてしまったかと思う。これは誰が相手でも気分を害するだろう、と。しかし、それでも、マウントを取っておかなければこの後のここでの生活に支障をきたす、であるから仕方ない、まさか、ここで俺を殴り飛ばす訳にもいくまい、とキエルは考えた。
けれども、アーベラの表情はそれはそれはさわやかなものであった。
「あー、そうなのか! え!? もしかして、君、怒ってる? ごめんごめん! 気を悪くしたなら謝るよ、本当に申し訳ないっ! ま、そんなことはどうだっていいさ! とりあえず、入りな、入りな!」
キエラの中で何かが瓦解した気がした。それは、つまり、キエラの揺るぎないプライドに、自尊心に、大きくヒビを入れられた瞬間であった。いや、何も、百パーセントすごいと言っているのではない。しかし、単純に衝撃を受けたのだ。ここまで嫌味を言われて、敵対的な言葉を放たれ、にも関わらず、ごめんと言えるということに。
この人は、きっと単純なんだろうとキエラは思った。
しかし──一方で、──それは、強い強い、あまりにも強すぎる思考だとも思った。強い。アーベラ・オルトロスという人は、かくも強い……。
茫然としているキエラを見て、役所に入りながらアーベラは言った。
「あ、ところで、さっき言ってた、ホーマ……? なんだっけ」
キエルの頭から尊敬の念が八十パーセントくらい抜け落ちた気がしたが、なんとか踏みとどまり、アーベラの後に続く。しかし、ここはキエルにとってあのドワーフの女の子との因縁の地であった。運良く彼女が外出でもしていてくれることを祈ったが──
「あ」
当然ながら、彼女はその場にいた。しかし、キエルがここに来た時と全然違うのは、彼女の目つきである。彼女は、アーベラを目にするやいなや、その目をにこやかな笑みへ変化させ、トレーニングをすぐにやめるとアーベラに近寄り、抱き着いたのである。身長さがあるため、ドワーフの女の子はアーベラに抱き込められるようになる。犬に近いのはどちらかといえば獣人のアーベラであるが、今、この場面においては、ドワーフの少女こそが飼い犬であり、彼女は帰ってきた飼い主を思いっきり歓迎していたのである。
「キュイは元気だなぁ~」
「アー姉に怪我がなくて何より……」
キエルは心の中で、大丈夫、その人が怪我をするときなんてきっとこの街にドラゴンが襲ってきたとかそんな事態でもなけれどあり得ないから、とツッコミを入れる。
そして、二人の会話を耳にしたキエルは、ここでようやく気がつく。キュイ……それは、恐らく、いや、確実に、挨拶でもなければ何か特別な意思表示をするための擬音でもなく、このドワーフの女の子の名前だったのである。そう考えると、まぁ、多少は納得がいく。胸元を掴みあげられたこと以外は。
さて、そんな微笑ましい犬と飼い主のふれあいの風景を見ていたキエルに、突如危機が襲いかかる。キエルの存在にキュイが気づいたのである。
「…………」
無言でスタスタとキエルの前に迫るキュイ。目つきは再び鋭くなっており、犬は犬でも獲物に狙いを定める猟犬と化していた。キエルは悩む。ここでどう対処すればいいのか。
大口叩いて出ていった癖に、不良に襲われて逃げ帰ってきましたではあまりに恥ずかしい。そうだ、いっそのこと──。キエルはキュイから数歩離れて、キュイとアーベラ両名を視界に収められる位置に移動し、二人を交互に見てから話し始めた。
「えー、こほん、改めて──俺はワケあってヴェストール自治区から転属になったキエル・メーセンだ。ここバラウォンの役所にいるのは、情報によると地方役人だけだと聞いている。俺は国家公務員であるから、立場的には二人の上に立つことになる。よろしく頼む」
突然行われた自己紹介であったが、アーベラはうんうんと冷静に眺めている。一方で、問題はキュイだ。彼女は、相変わらず恐ろしい目でキエルを見ているのである。そして、言い放つ。
「認めない」
と、恐ろしい一言を。認めない。それは勿論、キュイからキエルに対して放たれた一言であった。唸るキエル。何も言い返すことができない。
「お前みたいな弱い奴の下に立つのなんて、絶対に認めない」
そんなキエルを畳みかけるようにして、キュイは再び言う。そこからは強い意志が感じられた。
「僕の上に立っていいのはアー姉だけだ、自己紹介はそれで終わりか? じゃあ、僕は外を走ってくるよ」
キュイはそう言い放つと、アーベラの横を通る時だけは、砕けた笑顔を見せて、そのまま外へと出て行いこうとする。
しかし、キエルの横を通ろうとして足を止めた。
次の瞬間、彼女は、キエルの胸元へ顔をギリギリまで近づけた。頭突きでもされるのかと身構えるキエルであったが、キュイの頭はキエルに衝突する直前で止まる。何をしているのか、といえば、彼女は、すんすんと匂いを嗅いでいた。すんすん、すんすん、とキエルの匂いを嗅ぐ。一体何が目的か、キエルが止めるように言おうとした瞬間、キュイは顔を離し、これまでにない、曇った表情で飽きれたような顔でキエルに言う。
「お前からは匂うよ、クサイ、クサイ、権力、富──そういうものの匂いがね。いや、いいんだ、それ自体は。いいか、僕たちは確かに、バカかもしれない。けどな、はっきり言っておくよ。この街で必要なのは力だ。お前に力はない、それが事実さ」
そう言って満足したのか、キュイは最初の宣告通り、外へ走りに行ってしまった。
キエルは衝撃を何とか受け止めつつ、よろよろと役所内をうろついた。とりあえず、もう、キュイという女のことは忘れて、今後のことを考えようと思ったのである。
「あぁー、えー、と……」
しかし、何も思いつかない。そんなキエルに対して、アーベラが見かねたのか話しかけてきた。
「なぁ」
アーベラを見るとキエル。
「これ、行かないか? もう、ほら、そろそろ業務終了の時間だし、な?」
キエルは時計を見る。うん、時計の針は、大体昼の四時を回った辺りだ。全くもって業務終了の時間でもなんでもないが、彼女のジェスチャーが表しているもの、それは、飲み、であった。