第2話
「なぁあ! 何するんだ! 俺は上司だぞ……。……無視だと、もう、いい! やってられるかぁ!」
キエルは怒った。体に痛みはない。力に任せて蹴りであったように思ったが、その実、後に痛みを残さない見事な蹴りでもあったのかもしれない。盛大に尻もちをついた後、キエルはもうこんなところにはいられないとぷっつんしてしまった。
かといって、相手は女子であるが、腕力でかなうとは思えない、情けないことに。
故に、こんな筋肉集権国家のような場所にいられるものか、と強く確信した。自分はそもそも、もっといい環境で、いい仕事をして、いい家庭をもって、とにかく、キュイなどという一言だけを放つ訳の分からない筋肉金髪ドワーフと一緒に仕事をしたい訳じゃないんだ、と脳みそがパニックを起こしていた。
キエルは優秀な社会人であったが、訳の分からない環境、訳の分からない人、訳の分からないシチュエーション等々、数々の訳の分からないものに一度に触れすぎて、怒りが抑えきれなくなってしまったのだ。怒りが抑えきれなくなってしまうと、冷静な判断はできなくなる。アテなどない。アテなどないが、とにかく、もうこの場にいられないと考えたキエルは、ほぼ木造一階建ての小さな役所を飛び出して、ずかずかとなるべくその場所から離れるようにして街の中をあてもなく歩き回った。
その様子は例えるならば、恋人に振られた女の子が悲しみのあまり街をさまようような光景に似ていたが、キエルの場合はあまりにも違い過ぎた。そして、この時、キエルは自分が大きな過ちへの第一歩を踏み出していることに気づいていなかった。
街並みにはいつもどこかにふらふらした酔っ払いがいるし、はたまた、喧嘩してる気性の荒そうな男や女がいる。街といっても、階層の高い建築物はほとんどなく、少し遠くへ目をやればそこには木々の生えた山々が視界に入るような田舎を感じさせる場所である。建築物の多くは木造、たまに、原始的なコンクリート造りのものも見られるが、壁面の汚れや損傷が目立つ建物が多い。
ここ、バラウォンはホーマ連合国家の果ての果て。ホーマ連合国家の国土は広い。端から端に行くには魔導列車と呼ばれる魔力による高速移動機関を利用しても、実に十五日以上の日数を要する。であるからして、国家といえども地域による貧富の差が激しければ、街の雰囲気の違いも激しい。
キエルが前に勤務していたヴェストール自治区は、ホーマ連合の中でも発展している地域上位に数えられるくらいに裕福な一帯であったが、中には、連合国家外の蛮族と呼ばれる大きな文明社会を持たない種族たちの小国家とも大差ないほどの貧困地帯と大差ないような地域も存在する。では、ここバラウォンはどうかというと、魔物の住処が近いということもあり、それらを狩ることによって生計を立てている冒険者と呼ばれる職業の人たちが多く住んでいることから、多少は発展していたが、それでもやっぱりド田舎であった。平野部に街がないということも起因してか、周囲では農作さえろくに行われていない。農作に向いていない土地といってしまえばそれまでだが、それ以上に、農作物を自分で作るよりも、魔物を狩って得た副産物を色々な地域へ売り飛ばして得る金で食べ物を買った方が効率がいいのである。
ではでは、それらの事項がキエルにとって何を意味するのか。
こと、今、キエルが置かれている状況において、重要になってくるもの、それは、まさしく、治安であった。
キエルは怒りに任せて歩いているうちに、どうやらメインストリートを外れた小道へと入り込んでしまったらしい。それにも気づかず、キエルは誰かと肩をぶつける。いや、ぶつける気はなかったのだが、肩がぶつかる。というより、ぶつけられる。
「おうおうおう! 兄ちゃん! ええぇ!?」
ぶつかると同時にキエルにまくしたてるようにして詰め寄ってきたのは、ボロボロの服を身にまとった、恐らく、人間ではない種族の──獣人と呼ばれるカテゴリに属する者。人間との大きな違いは、頭に生える獣型の耳と、お尻から出る立派な尻尾であろうか。その他の部分については人間と大差はない。服も身につけているし、肌の色も変わらない。男性の獣人は、毛深いという特徴がある。
獣人ということを差し置いて、この目の前の人を表現すれば、不良である。一言で言って、不良である。骨の髄まで不良であった。
「……えっと、あの」
ここでキエルはようやく我を取り戻し、辺りを見回す。すると、いつの間にか、その獣人の仲間だろうと思われる輩がワラワラと集まってくる。いつの間にかキエルは彼ら不良に囲まれ逃げ場を失っていた。
キエルに最初にぶつかってきた男がキエルの胸元を掴みあげる。この街に来てからキエル、二度目の胸元掴み上げっ! キエルの体重はさほど軽い訳ではないが、この街は重力が小さいのだろうかと不思議に思うほどである。
しかしそんなことはない。キエルが胸元を掴み持ちあげられるのは、この街の重力が小さいのではなく、この街の住人が人を持ちあげるのが好きなのである。
「えぇ? 痛いって言ってんだよぉ、なぁ。その身なりなら、金持ってるんだろ? 挨拶代わりに置いていけよ」
「い、いや、その、ですね」
金はある。確かに持っている。しかし、それは容易に差し出せるものではない。この街でのしばらくの間の生活費である。まとまった金は、都市の銀行へと預けてきたが、それにしたって、こんなところで暴力によって自分が積み上げたものを奪われるわけにはいかない。
キエルは弱腰ながら、相手の要求に屈しないでいると、いよいよ相手もしびれを切らしたのか、語気がどんどん荒くなり、ついに、
「よぉーし、仕方ない! じゃあ一回痛い目を見てもらわないといけないようだなぁ。平和ボケしてるお兄ちゃんよ」
そう言うと、キエルの体を地面へと叩きつけ、他の不良たちもキエルを取り囲む。体を叩きつけられたキエルは少しの間、体にじんわりを響く痛みに顔をしかめていたが、すぐに上を見ると自分が重大な危機に陥っていることを理解する。
まずい、どうする、戦う? 馬鹿なことを言ってはいけない。平和的解決だどうだという前に、自分がこんな筋肉質な不良たちに勝てる訳がない。万に一つもその可能性はない。キエルはそれなりに堅実な男である。そのように人生を送ってきた。であるからして、ここで取るべき行動は二つに一つ。逃げるか、金を差し出すか。……。
迷った末、キエルは一か八かを選択することにした。役所だ。役所まで逃げ切ることができれば、あの超絶強そうな女に助けてもらえる可能性がある。そもそも、役所内でかつあげをしようなんていう馬鹿もいないだろう。そこまで逃げ切る。
胸に熱い決意をして、キエルは素早く立ち上がると、不良のうちの一人を突き飛ばしその間に出来た隙間を掻い潜って逃走!──できなかった。
残念なことに、キエルが思いっきり突き飛ばしたはずの相手は微動だにせずそこに変わらぬ姿勢のまま立ちはだかり、この残念な結果によって、キエルは更なる窮地に立たされることになる。
「おぉううう! やってくれるなぁ!? 逃げようってか?」
「そんな貧弱な体で、人間風情が、獣人に力で勝てるとでも思ってるのかぁ? えぇ!?」
「あぁあ!?」
「おぉお!?」
野獣である! キエルは今、野獣に取り囲まれてしまったのである。キエルは考えたが、もうこれ以上の手は思いつかなかった。暴力主義暴力共和国のこの地において、自分はなんたる無力……!
けれども、金を渡すわけにはいかない。でも、どうしようもない。判断し兼ねるキエルに対して、獣人はついに暴力を振りかざさんと腕を振り上げる。
絶体絶命だった。
けれど、助けなど来ない。もうキエルに出来ることは、目を閉じることだけであった。無抵抗のまま、目を閉じ、そして、時が過ぎ去るのを待つしかない、そう覚悟した時、人通りの少ない路地裏に、これまで聞いてきた獣人の男どもの声とは異なる声が響き渡る。
「待て!」
その声は、女性のものらしかった。獣人たちの行動は止まり、その声がする方を一斉に振り向く。キエルは、自分の身に何も危害が加えられていないことをようやく理解して、目をそっと開けて、声がする方を見た。
そこには一人の女性が立っていた。けれども、人間ではない。彼女の頭には凛々しい三角の大きな獣の耳がついていたし、その後ろには大きな尻尾がついていたのである。獣人だ。その服装は露出が多い。けれど、決して、女性が男を引きつけるためになされている露出ではなかった。そこから見える肌、特に腹を見れば、鍛え上げられた体であることが良く分かり、故に、すぐに、この露出は単に服装の重量を軽くし、動きやすさを重視した結果であろうことが分かった。
だが、そんなことはキエルにとって至極どうでもいいことだった。重要なのは、彼女が何を目的にここに割り入ったのか。
「……なんだぁ、お前」
「あたしを知らないのか?」
見下さんばかりの勢いで、女の獣人は近づいてくる。敵対しそうだとキエルは直観的に思った。少なくとも、獣人とは仲間ではないっ……!
「知らねぇなぁ? 女が一人でこんなとこに来るなんてよぉ」
「はぁ~、それはそれは……この街にいてあたしを知らないとは、お前ら、素人だな? 悪いことは
言わない、さっさとうせな。未来ある若者たちの未来を奪うのはよくないし」
挑発的な物言いだ。
「うるせぇ! なぁ、お前ら、こいつ、知ってるか?」
獣人たちは、ケラケラと笑うばかりで、物おじしていない。当たり前だ、数の差がありすぎるのだから。しかし、それ以上に、女の獣人は全く動じていないようだった。
「あー、いいよいいよ、教えてやる。あたしの名前はアーベラ・オルトロス。この街の──役人だ! 最近この辺に見ない顔の怪しい奴が出る、って聞いてパトロールしてたんだけど、ま、君らじゃなさそだね」
役人……! その言葉に、キエルは驚きの顔をする。ああ! この人は救世主だ! 救世主に違いない! と、胸躍らせる。数の差は相当なものだ。しかし、アーベラの放った役人という一言に大きな共感を覚え、きっとこの人ならなんとかしてくれるに違いないという大きな期待に胸躍らせた。
「役人ん……?」
獣人たちは相変わらずにたにたと気味の悪い笑みを浮かべている。始まるぞ、このままいくと、この場で戦闘が始まる、キエルはそう考えた。身構える。口論、交渉が決裂したあとにきっと始まるであろう戦いに対して心の準備をする。しようとした。
しかし──。
「んべぇ!?」
キエルの目の前には、獣人の男が一人、腹を抑えて転がっていた。
そこには交渉なんて綺麗なものはなかった。力による打倒! 口論さえ巻き起こることなく、次々に、アーベラは、不良たちを薙ぎ払っていく。そんなことがあっていいものだろうか!? 役人と言い、名前を名乗った女が、次の瞬間には善良ではない一般市民たちを次々に打ち倒し始めたのである。
一般的に考えれば、ここではまず、醜い言葉の応酬による挑発合戦が行われるべきだったのである。それこそが、ある種、この暴力共和国のような地帯におけるあるべき喧嘩の姿なのだろうとキエルは思っていたし、何より、不良たちも思っていた。そう、不良たちも。
しかし、今ここに繰り広げられている光景は、
パンチ、パンチ、キック、キック。戦闘はプロが素人を相手にするように、一方的に行われた。不良たちもあまりにも早急過ぎる戦闘の幕開けに、最初はあっけにとられていたが、少し経ってようやく自分たちが圧倒的な力による攻撃にさらされているということに気づき、反撃を試みる。
けれども、彼らの攻撃は半分も当たらない。さらに、当たってもアーベラにダメージが入っている様子はなかった。屈強などという生易しい言葉で語れるものではない。そこにあるのは一体の兵器である。まるで鋼鉄の巨人が無力な人間たちを薙ぎ払い、立ち上がろうとするものたちを踏みつぶすがごとく戦うアーベラの姿は、キエルが考える、役人、という二文字とは対極に位置するとんでもないものだった。悪魔である。魔人である。鬼である。恐怖であり、パワーである。
一度地面へ倒れ込んだ者も完全に戦闘不能になった訳ではない。アーベラの武器はあくまでその拳であり脚であるのだから、一撃で戦闘不能に陥る訳ではない。けれども──圧倒的過ぎた。二度、三度と繰り返せば、ついに、その衝撃は格闘によるものとは考えられないほどに、不良たちの体を強く蝕んだ。
キエルは、その様子をただただ茫然と見ている他なかった。
本来、いい加減のところで止めなければならなかっただろう。それこそ、暴力による権力行使などまっぴらごめんだと考えるキエルの取るべき行動であったはずだろう。
けれども、できなかった。まぁ、簡単に言ってしまえば、こんなとんでもない人相手に言葉が通じるとは思えなかったのである。正直、キエルはちょっとちびりそうになっていたのである。