第17話
対峙。その相手は、キエルと変わらぬ人間。特別これといった特徴を見つけることが難しい中年の男であったが、身にまとう服はやけに汚く汚れていた。一瞬、ここあたりに住んでいる関係のない浮浪者だろうかと考えたキエルであったが、こんなところに人間が一人で生活できる訳もない。確信を持って言い放つ。
「お前だな! ドラゴンを操っているのは!」
男は、くひっ、くひっ、と奇妙な笑い声を上げながら、両手で顔を覆い、肩を震わせ、何を思ったか、その場を逃げるべくキエルに背を向け走ろうとする。
キエルは突然の行動に驚きつつも、その背中を見失わないように走る。幸い、男の足はそれほど速くなく、運がいいことに少し走って男は転倒する。
どうしてやろうかとキエルは考えた。この男は何に弱いのか。そして、手にしている斧にチラリと視界をやる。アーベラから預かった一本の斧。この斧の使い方なんてキエルは知らないが、それは恐らくこの男もまた同じであろう。だから、キエルは斧を男へ向けることにした。きっと、アーベラならそうするだろうから。
転倒した男が体を回転させ、仰向けにキエルの方を向くよりも早く、キエルは手にする斧を男へと突き付ける。相手は研究者。そして、ドラゴンを操って何かをしようと企んでいる男。それらの情報だけを見れば、危険極まりなく、今すぐに排除しなければならないような存在だ。
だが、今、キエルの目の前で顔を震わせ、あまりがっしりとしているとは言い難い軟弱な体でずりずりと後ずさりをしようとしている情けない姿の男が、情報から考えられるような、とんでもないことをしでかす男には思えなかった。
これはキエルの勘。
社会人をやってきて、学んだ、人を見る力。男は、一人で世界征服を企むような人間には見えなかったのだ。
「俺は、キエル・メーセンだ。お前は」
まずは問う。目の前で起きている、ドラゴンとアーベラたちとの戦いを考えれば、こんなことをしている場合ではないかもしれない。しかし、キエルには考えるところがあったのだ。男は、怯えながら答える。
「わ、私は、シュタイ、シュタイノフだ」
「……よし、分かった。だけど、残念ながら、お前にはここで死んでもらうことになる」
もちろん脅し。虚勢。キエルにそんなことができる訳がない。けれど、そう言いながら、ゆっくり斧を頭上へと上げる。今にも振り下ろすぞという合図。一方で、キエルの顔は冷静だ。それは演技ではない。振り下ろす気がないから冷静、ただそれだけなのだが、これは相手からしたらあまりにも気味が悪かった。
「な! ま、待ってくれ! 待って!」
しかし、その幼稚な脅しでも、この男に対しては効果覿面だった。これで、この男がどういう男かということを確認する。
「じゃあ、まずは、あのドラゴンの回復を止めろ。いや、操作を止めろ。もうこれ以上戦闘させるな」
威圧的に接する。これは交渉ではない、要求であり、命令だった。かつてのキエルならこんな強引な手段は取らなかっただろう、しかし、今のキエルは違う。アーベラたちの命がかかっている、そして、強引であることの強さを知っていたから。
しかし、シュタイノフという男が簡単には引き下がらないであろう男であるというのはキエルも分かっていた。何故なら、彼は、建物を破壊し、証拠を隠滅するくらいのことを考えている男だからだ。
「わ、わかった、ドラゴンは止める。だから、もう見逃してくれいいだろ……?」
心配そうに言うこの男。しかし、キエルはそこで納得しようとはしなかった。何故なら、ここで終わってしまえば、事態は何も変わらないからだ。通常、要求を一つして、それが満たされたのならば、相手の要求も聞くというのが一般的な交渉であろう。しかし、キエルは続ける。
「まだだ、もう一つ。もう一つ条件がある」
「なっ……」
それには、シュタイノフも顔を歪めたが、けれども、キエルは気にすることなく続ける。いや、シュタイノフが顔を歪めたからこそ、続ける。彼は交渉をしたがっているのだから。彼は──そう、どちらかといえば、キエルと似たような人間。進んでいる道は違っても、だ。キエルはそのことを肌で感じていたのである。
「待て、これは、俺にとても、そして、お前──シュタイノフにとっても、いい話なんだ」
それは、キエルが逆転の一手を、かつての上司ジーグルド・ゼールバッハへの反逆の一手を仕込んだ瞬間。
バラウォンの果てでドラゴンとの戦いが繰り広げられてから一週間以上の時間が流れた。
その間も、世界は変わりなく動いていたが、ヴェストール自治区の役所に、かつて、この街から去ったはずの人間が一人訪れていた。
「……あっ、えっと、メーセン、さん……?」
キエルは堂々と受付に表れ、とても申し訳なさそうな顔をしている受付の女性に対して言う。
「ああ、久しぶり。間違いなく、キエル・メーセンだ」
彼女は、かつての同僚。彼女は、キエルがこの街を去る時、引き留めることなどしなかった。しかし、キエルの怒りは彼女に向けられていることはない。彼女とて、自分と同じ一人の職員に過ぎないからだ。彼女は、自分と同じ。そこに何か恐ろしい事情が隠されていようとも、たとえ、キエルの左遷があまりに不自然であったとしても、それに対して異を唱えることなどしない。
そして、それは、もちろん、彼女一人に留まる訳がない。キエルの姿に気づいた職員は、互いにひそひそと声を交わし、けれども、誰一人としてキエルを笑顔で迎え入れる人はいなかった。かつての同期も、そして、部下も。
キエルはそれに苛立ちを覚えることはなかった。けれど、悲しくはあった。だからといって、その悲しさを怒りに変えることはしない。キエルが今、怒りをぶつけなければならない相手は、他にいるからだ。満を持して、キエルは言う。
「ジーグルト・ゼールバッハさんに会いたいんだけれど──」
しかし、勿論、受付の女性は困った顔をして、事務的に返答する。そう、お決まりの言葉。
「恐れ入りますが、お約束はいただいておりますか?」
実に事務的な、相手がキエルであることはまるで関係ない、そんな物言い。キエルは目を細めて、突如、ダンと受付のカウンターを叩きつける。ビクッと肩を震わせる受付の女性、そして、その奥に控える他の職員たち。
「約束? ああ、そうか、約束ね。いいか、こう伝えろ、キエル・メーセンが来た。それだけで十二分だ」
何を馬鹿なことを、とこのセリフを聞いていた誰もが思ったことだろう。しかし、キエルは知っていた。ジーグルト・ゼールバッハは必ず自分に会うだろうということを。
「その、そう、申されましても──」
怯える女性職員に、キエルは告げる。
「あー、そうだな……えぇと、そうだ、秘書。秘書に伝えるだけでも難しいだろうか? たった一言でいい。来た、とだけ告げてくれればいい。それだけでここで騒ぎ立てることをやめよう。他の市民の方々もいることだし。それに、もし、伝えなければ、きっと君は大きく処分されることになるぞ。大事な用事なんだ、とてもとても大事な、ね」
大事な用事という部分以上に、彼女は、処分という言葉に反応した。相手はキエル・メーセンであり、このヴェストール自治区から左遷された男だ。ただ私怨をぶつけにきただけの可能性もあれば、気が触れてしまっている可能性だってある。だが、万が一、本当に万が一、何か重要な用事があったとしたらどうすべきか。自分がここで全く相手にしないことによって、情報伝達が遅れて、何かが起きるとしたら──。
彼女が迷っている様子であることを悟ったキエルは、更に一言言う。
「早くしてくれ。秘書だ、秘書に伝えるだけでいい。それだけでゼールバッハは分かる。ここでは言えないことなんだ。間に合わなくなる」
明確にプレッシャーをかける。女性は考えた。秘書に伝えるだけなら問題なかろう、と。伝えずに処分されることになったら大変なことだが、秘書にたった一言魔導通信機で連絡を入れるくらいでこの目の前の男が黙るというのなら、それくらいしてやってもいいか、と。
この場にいる誰もが考えていた。そんなことをしても無駄だろう、と。
しかし──女性が魔導通信機を通して得た答えは、キエルを自分のところへ通せというゼールバッハ直々の言葉であった。
彼女にとって、上司の命令は絶対。ゼールバッハがそう答えた以上は、キエルを案内せざるを得ない。
役所の最上階、キエルが数度だけ立ち入ったことのある一室。そこに、ヴェストール自治区を取り仕切る男、ゼールバッハの部屋が存在した。四階建ての建物の最上階から見下ろす街の景色は非常によく、ゼールバッハという男は、その景色を見ることが好きだった。
彼は、ノックして入室してきたキエルに振り向くことなく、秘書に、少しの間外にいてください、とだけ言って秘書を退室させる。
ゼールバッハの服装は貴族が着るような正装。彼はいついかなる時もこの服を身にまとっていた。それだけで、まるで彼が特権階級に所属する人間かのように見えるが、実際のところはそうではない。彼は、あくまで国家公務員。国に雇われた存在であり、ヴェストール自治区の中でのみ、トップに立つ存在であるのだ。
部屋の中は意外にも質素であり、豪華絢爛な装飾物は一切存在せず、目立つものといえば、シンプルに事務用の机のみ。その上には魔導通信機やその他、仕事に必要だと思われる用具が並んでいたが、それでも綺麗に整頓されている。
久しぶりに見るゼールバッハの背中は、恐ろしい怪物が眠っているような不気味さを醸し出していた。彼の命令さえあれば、今すぐにでも、キエルはこの場で取り押さえられ、牢獄にでも何でも入れられてしまうのだ。キエルは今、バラウォンの地から離れ、職務を放棄している状態であるのだから。
「お久しぶりです、ゼールバッハさん」
かつての上司に挨拶をする。
何故、キエルは、彼が会ってくれるということを確信していたのか。それは、ただ一つの根拠に過ぎない。キエルは、シュタイノフをあの後拘束し、ゼールバッハに定期連絡をさせないようにしていたのだ。それにより、彼に何かが起きたであろうということをゼールバッハが悟るのは簡単だろうと考えた。
となれば、その後しばらくたって、キエルが訪れたとあれば、何か事が起きたということは簡単に予想できる。では、ゼールバッハが考えることは何か──キエルはそこまで考えていた。だから、
「久しぶりですね、メーセンくん」
そう言って、けれども、ゼールバッハが振り向かないのは、彼がある程度の緊張状態、不安状態にあることを隠すためだということを悟っていた。何故なら、ゼールバッハはキエルが何をどこまで知っているのか知らない訳だ。キエルはそんなゼールバッハにとても重大な秘密を打ち明けるようにして言う。
「ようやく戻ってきました。そして、ようやく──あなたを追い詰める時が来ました、いや、来てしまいました」
「ほう」
一言しか返さないゼールバッハ。流石はここまで上り詰めた人物だけある、とキエルは感心していた。彼は表情を隠すために背を向けているのではなかったのだ。ゼールバッハが振り向く。その顔には、下らないものを見るかのような目でキエルを睨む顔があった。威厳。そこにあるのは威厳そのもの。有利なのは明らかにキエルのはずなのだ。キエルは真実を知っているのだ。ここにドラゴンが来襲したという事実の、その裏側にある真実を。
しかし、それでもなお、キエルはこの人には勝てないんじゃないかというような気さえして来る。
「僕が、バラウォンに左遷させられたのは、不自然だ、間違っている。まずは、ゼールバッハさん、あなたに謝っていただきたい」
キエルの言葉を聞くと、ゼールバッハは、くくくっ、と笑いを堪えるようにして、表情を砕けさせる。キエルは堪らず、
「何がおかしい!」
と、叫ぶが、ゼールバッハは、そんなキエルの言葉なぞ聞こえていないかのように体を小さく震わせ、笑いを堪え、少し経ちようやく口を開く。
「あぁ、そうか、そうだな。それで? 何を望む? まさか、それだけを聞きに来た訳ではないでしょう。メーセンくん、君が望むのはヴェストール自治区への復帰? それとも、私の謝罪ですか?」
キエルは僅かな苛立ちを覚えこそしたが、すぐに、小さく深呼吸をする。アーベラ、キュイ、訳の分からない連中ではあったが、彼女たちがキエルの神経を異様に逆撫でしてくれたことにより、今の彼は苛立ちを制御できるようになっていたりした。
そして、キエルはゼールバッハを睨む。この男に、自分は、勝つのだ、と決意を新たにする。




