トラヴィスとマリエル
「トラヴィス! ここよ! 私に会いたくて探してたんでしょ? あの時はあなたの事を恨みもしたけど、もう怒ってなんかいないわ。だってこうして迎えに来てくれたんだもの」
マリエルはアナスタシアと話して居た時よりも声のトーンが1オクターブ上がり、可愛らしい甘えた声を出した。この状況下でもトラヴィスが自分を助けに来ると本気で思っている。トラヴィスはアナスタシアに視線を向けて、何か考えを巡らせた後、マリエルの居る独房の方へ歩いて行った。
「ああ、トラヴィス、何だか前より凛々しくなったみたい。騎士の制服が良く似合ってるわ。さあ、早く私をここから出して。あなたの温もりを感じさせて」
トラヴィスは独房の扉から2メートルほど離れた場所で立ち止まり、小さな格子窓から目を凝らして必死に自分を見るマリエルに対し、ウンザリした表情で説教を始めた。
「馬鹿なのか? 俺がお前を迎えにだと? そんな訳あるか。お前は自分の立場を分かっていないのだな。せっかく温情を与えてくれた者達の善意を踏み躙り、挙句その相手を罵倒するとは、呆れて物が言えないぞ。助けてもらったという実感が無いのだろうが、あの日、本当ならお前の命はあそこで尽きていたのだ。兄はリサ皇女が侮辱されたと聞いて、お前の首をはねるつもりだったのだからな。それを、アナスタシアとリサ皇女が処刑を望まないと言ってくれたから助かったのだぞ。そういえば、お前の父、ミンス男爵も領地と爵位を没収されただけで済んだというのに、ランスウォールに見当違いな復讐を企てて、父を怒らせてしまってな、処刑が決まったらしい」
久しぶりにトラヴィスの姿を見てその声を聞き、舞い上がったマリエルはトラヴィスの言葉をぼんやりと聞き流し、楽しかった日々を思い出していたが、ミンス男爵の処刑が決まったと聞き、全身の血の気が引いた。
「嘘! そんなの信じないわ! ミンス様を助けて! きっと私の敵を討とうとしたんでしょ? 処刑を止めてよ!」
「うるさい、黙れ! 今日、お前は王都へ身柄を移されるが、ミンス男爵と生きて会う事は無いだろう。あの時は別れの言葉も言えなかったが、これでお別れだ、マリエル」
トラヴィスはそれだけ言うと、くるりとマリエルに背を向けて、看守の居る扉に向って歩き出した。
やけにあっさりとした別れの言葉だと感じるが、特にマリエルに会いたかったわけでも、最後に言いたい事があったわけでも無い彼は、団長命令で仕方なくここに来ただけである。正直なところ、もう一生関わり合わずに居たかったくらいなのだ。あれは忘れたい過去であり、娼婦の娘だと知ってからはマリエルという女の存在を記憶から消し去りたいとさえ思っていた。彼にとっては単なる若気の至りで、はじめて知った女の肌に溺れてしまっただけの事。父親に現場を見られたあの時、急速に頭が冷えたのだった。
「イヤァーー! 行かないでトラヴィス! あたしを連れて逃げてよ! 何も悪い事なんかしてないのに、ちょっと本当の事を喋っただけで捕まるなんて、こんなのおかしいわ! あたしは正直に生きてるだけよ! 貴族連中はズルイわ! 自分に都合の悪い事は全部私のせいにして! 手を出した自分達には何の責任も無いって言うの?」
トラヴィスは苦い顔をして耳を塞ぎ、まだそこに居たアナスタシアから顔をそむけ、看守にドアを開けさせて早足で地下牢から出て行った。アナスタシアもそれに続くように地下牢を出たが、耳にマリエルの叫び声がこびり付いて離れなかった。まだ階段の途中に居たトラヴィスを見つけたアナスタシアは、後ろから彼に声をかけた。
「トラヴィス様、ちょっといいですか?」
トラヴィスはビクッと肩を跳ね上げ、一拍置いて無理に笑みを浮かべて振り向いた。
「ああ、何だ? お前から声をかけてくれるだなんて、嬉しいな。こんな所では何だし、場所を変えるか?」
取り繕ってはいるが、動揺がはっきり見て取れる。団長は多分、トラヴィスに自分の招いた結果を見ろと言いたくてマリエルの元に行かせたのだろう。
それが、自分のせいでこれから死を待つ元恋人と別れた直後だというのに、彼の口から嬉しいという言葉が出たことに、アナスタシアは嫌悪感を覚えた。
「いいえ、ここで結構です。先ほどの会話、全て聞かせていただきました。あれを聞く限りでは、あなたは自分のした事を理解し、反省しているようにも感じました。でしたら最後に、マリエルに対して一言でも謝るべきだったのではありませんか? 勿論彼女の行いは褒められたものではありませんが、彼女からの誘惑に負け、あなたが手を出した事で、女の子が一人、命を落とす事になったのですよ。耳を塞いで逃げ出している場合ではありません」
トラヴィスは黙って俯いた。それに反論するようであれば、この男は真のクズだ。アナスタシアは言葉を続けた。自業自得とは言え、このままマリエルだけが一人重い処罰を受け、口封じの為に死んでいくのは忍びなかった。
「あなたの場合は、本当ならば平民に落とされ、城から放り出されるはずだった。ジュリアス殿下の怒りの矛先はマリエルに対してだけではなく、そもそもの元凶である弟のあなたにだって向けられていたはずです。本当に分かっていますか? 自分達のした事を。私に婚約破棄を言い渡した事などは、国を揺るがすほどの事でもない瑣末な事ですが、あなた達は休戦中の隣国の皇女を、指をさして侮辱したのですよ? 散々言われて来たとは思いますが、それがザイトブルク側に知れれば、たちまち戦争が始まってしまうかもしれない一大事だったのです。私の対応が甘かったのですね。簡単に許してしまった事、今では後悔しています」
アナスタシアは自身の甘さを反省しつつ、トラヴィスに厳しい視線を向けた。
「マリエルに謝るべきと言うが、俺だけが謝罪しなければならないのか? 後で知ったが、俺の周りの男達は皆一人残らずマリエルと関係を持っていた。あの女はただの娼婦だ。娼婦の分際で王子である俺を誘惑し、この身を汚したのだ、罰を受けて当然であろう。実際、娼婦の娘だったそうではないか。子供のうちから娼館で客を取っていたような女に、謝る言葉など無い。俺が謝罪するのはアナスタシア、お前だけだ。リサ皇女には、兄を通して謝罪の手紙を渡した。ジュリアスに言われ、侮辱した件が問題になった時には、潔く首を差し出すという文書にサインまでさせられたのだぞ。それでもまだ何かせねばならぬのか」
トラヴィスの中では、もう全てが終わっているようだ。あとはアナスタシアの許しを得る事さえ出来れば、それで良いと思っている。
ジュリアスに言われなければ何もせず、侯爵家の跡取りとして順風満帆な生活を送るつもりでいたのかと思うと、アナスタシアの中に沸々と怒りの感情がこみ上げて来た。
「私はあなたを一生許しません。反省したと見せかけて、何一つ変わっていないではありませんか。リサに対して謝罪文を送った事にも納得出来ていないようですし、あなたという人は……これ以上話しても、無駄なようですね。私からの許しが欲しいと仰るなら、絶対に許さないとここで宣言致します。金輪際、私に話しかけないで下さいませ。顔も見たくありません」
「なっ、何故そんなにマリエルの肩を持つのだ? あんな下賤な女、死のうが生きようがどうでも良いではないか。大体、お前にとって害にしかならない奴だぞ。放っておけば被害は広がる一方だったのだ。何をそんなに怒っているのだ?」
アナスタシアはキッとトラヴィスを睨み付けた。自分とは考え方が違い過ぎて、とてもじゃないが理解出来なかった。
「それをあなたが言うなんて……情の欠片も無い方だと、今はっきり分かりました」
「情ならある! 待て、俺を見限るつもりなのか? 俺は変わる! お前が側に居てくれたら変わることが出来るのだ。まさか本気で話しかける事すら許さないと言っているのか? やっとまともに会話が出来たというのに、これが最後だなどと冷たい事を言わないでくれ!」
トラヴィスを見ていて、何かが足りないと思っていたアナスタシアは、彼の襟にバッジが付いていない事に気が付いた。自分とテッドの襟には、魔法騎士の証しである守りのクロスと、後継者の証しであるそれぞれの家の紋章入りのバッジが輝いているが、トラヴィスの襟には何も無い。ジールマン侯爵夫人は甥である彼を溺愛していると聞いていたので、当然、養子になると同時に後継者として指定されているものと思っていたが、現実はそこまで甘く無かったようだ。
これから彼の成長を見極めて決めるのかもしれないが、ジールマン侯爵家の為にも、そうならない事を祈るばかりだ。
「ここを出たら、もう話しかけないで下さい」
「あ……待て……!」
トラヴィスの制止を振り切って外に出たアナスタシアは、目を瞑って深呼吸した。そして次に目を開けた時には、もうあの二人の事を考えるのを止めた。
完全に気持ちを切り替えたアナスタシアは、午後の巡回に向けて本部前に集合した隊列に加わる事にした。そこには既にテッドが居て、集合時間を過ぎても現れないアナスタシアの事を心配しながら待っていた。
「アナ、どこに行ってたんだ? 探しても居ないから心配してたんだ」
「ごめんなさい、一言声を掛けてから行けば良かったわね。団長から呼び出されていたの。最後にマリエルに会って話す事は無いかって。だから母親の事を知らせて来たわ」
「律儀だな。放っておけばいいのに」
マリエルはこの一時間後、王都に向けて出発し、収監先に向う途中で母親の無残な姿を目撃した。その後形ばかりの裁判を経て、ミンス男爵よりも先に処刑される事に決まった。
その頃トラヴィスの叔母であるジールマン侯爵夫人は、30歳を目前に、諦めていた懐妊の兆しが現れていた。




