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喧嘩はやめて!

 リサの馬車が見えなくなるまでその場で見送ったアナスタシアは、自分の部屋に戻るため、くるりと方向をかえた。すると視線の先にある寮の出入り口の前にハワードが立っていて、こちらを見ていた。


「ハワード、いつからそこに居たの?」


 ハワードは眉を下げ、優しく微笑んだ。アナスタシアの睫毛は濡れていて、涙が零れ落ちないように何度も瞬きして我慢した事が窺えた。しかしそれには気付かない振りをして、いつも通りに話しかける。


「お前達の邪魔にならないよう、ここからリサを見送っていたんだよ。馬車を降りていた男が居たが、ザイトブルクから誰か迎えに来ていたのか?」

「ええ、お兄さんが来ていたわ。兄妹って良いわね。ハワードは誰か迎えに来るの?」

「うちは俺付きの従者が来る事になっている。親父は今抜けられない仕事をしているらしくてな。あ、迎えが来るまで暇だから、荷物運び、俺が手伝ってやるよ」


 アナスタシアは頑張って自分で運び出すつもりでいたが、少ないと言っても大きなトランク2個は女性が一人で運ぶには重すぎる。それに四階から階段で下りなくてはならないのだ。ここはハワードに甘えることにした。


「ありがとう、助かるわ。そろそろうちの馬車も来る頃だろうし、荷物を外に出しておこうと思っていたの」

「よし、任せろ。テッドにも手伝わせるか。先に部屋で待ってろ。非常口側から二番目の部屋だろ? すぐ行く!」


 ハワードは返事を待たず、テッドを探しに行ってしまった。アナスタシアは寮に入って自分の部屋に向った。寮の中はもうほとんどの卒業生が外に出ていて、空室になった部屋のドアが開いたままになっている。各フロアには勿論まだ在校生は残って居るが、卒業生達の出入りの邪魔にならないよう部屋から出てはいけない事になっていた。そのため今はどのフロアもとても静かだ。

 四階まで行ったアナスタシアは、ふと思いつき、自分の部屋を通り過ぎ、空室になった元リサが使っていた部屋を覗いてみた。家具などはそのまま残っているが、それ以外の物は綺麗に無くなっていて、リサはもうここに戻って来る事は無いのだと実感した。急に寂しさがこみ上げて来て、喉の奥がぎゅっと閉まった様に苦しくなる。

 先ほどは我慢できた涙が今度は止める事が出来ず、ぽろぽろと零れ落ちた。それを慌てて手で拭い、自分の部屋へ行こうとすると、ドアの前にテッドが居た。だがそこにハワードの姿は無い。


「ハワードはどうしたの?」


 アナスタシアはテッドに聞くが、テッドは何の事かわからないと言う顔をした。


「俺は君がリサを見送っているところをたまたま部屋から見ていたんだ。あの後一人になって泣いてるんじゃないかと思って来てみた。やはり案の定、泣いていたな」


 テッドは友人達の荷物を運び出す手伝いをしていたが、それも済んで自室に戻り、自分の迎えが来ていないか窓の外を見て、たまたまリサが馬車に乗るところを目にした。二人が別れを惜しんでお互いに手を伸ばし合う姿を見てしまい、その後に残されたアナスタシアが心配で様子を見に来たのだ。ハワードとは入れ違いになり、一人で女子寮に来ていた。


「ハワードが来る事になっていたのか?」

「ええ、荷物を運ぶのを手伝ってくれると言って、さっきあなたを探しに行ったのだけど。どこかで入れ違いになってしまったのね」


 アナスタシアは自分の部屋のドアを開ける。しかしテッドはその場に止まって部屋には入らなかった。


「荷物、それだけか? 他はもう外に出してあるんだな。トランク2つ位なら俺一人でも運べるから、ハワードが来る前に済ませてしまおう」

 

 アナスタシアの部屋の中を見て、テッドはそう判断したが、他の荷物は初めから無い。そして壁に掛けられた自分のコートを見つけて、ヒュッと息を呑んだ。


「俺のコート、どうしてアナの部屋にあるんだ? 無くて今朝探していたんだ」

「覚えていないの? 非常階段で……貸してくれたでしょ?」


 テッドは動揺して目を泳がせた。やはり相当酔っていたらしい。アナスタシアは、もし彼があれを覚えていないなら、このまま無かった事にしてしまおうと思った。


「いや、夢は見た。非常口から外に出て涼んでいたら、アナが寝巻きにガウンを羽織って、素足に部屋履き姿で現れる夢だ。まさか、夢じゃなかったのか? ちょっと待て、あれが現実だとしたら、俺は……」

「俺は何だ?」


 ハワードが階段を上って女子寮にやって来た。どこから話を聞いていたのか、テッドの言葉に噛み付いて、彼に鋭い視線を向けながら部屋に入る。普段のハワードからは考えられない厳しい表情に、アナスタシアは戸惑いを隠せなかった。


「あの時は酔っていて、記憶が曖昧なんだ。どこからが現実で、どこからが夢なのか、自分でもよくわからない。アナ、俺は君に何かしたか?」


 テッドはアナスタシアにコート越しのキスをした事を覚えているらしい。しかし夢だと認識しているならば、今ここで言わない方が良いだろうと思い、アナスタシアはリサにしたのと同じ説明をした。


「本当にそれだけか? じゃあ、その後の事は全部夢だったんだな。そりゃそうか、俺にそんな度胸は無い」


 テッドはあからさまにホッとしていた。彼は夢の中で何をしたのか、あの後夢を見た事は確からしい。


「昨日はコートを貸してくれてありがとう。うっかりそのまま部屋に着て行ってしまったから、返さなくちゃと思っていたの。今返すわね。ハワード、そんな怖い顔をしないで? テッドは薄着の私を注意して、コートを貸してくれただけ。別に怒る事じゃないでしょう?」


 ハワードは納得していなかった。昨夜テッドの部屋で酔いつぶれていた彼は、慌てて部屋に戻って来た、明らかに様子のおかしいテッドを見ていたのだから。

 ハワードはアナスタシアがハンガーから外したコートを奪い、テッドに返した。二人は睨み合っているが、ここにリサが居ない事で仲裁する者が不在だ。今まで、実はちょいちょいこんな事があった。リサが仲裁に入って何とかなっていたのだが、二人はいくら仲が良くてもアナスタシアに関してはどちらも譲るつもりは無く、卒業するまではどちらも抜け駆け禁止とリサに約束させられていたのだった。

 今はその枷も無くなり、自由に口説く事ができるわけだが、テッドの行為はルール違反だ。それはアナスタシアの知らない事ではあるが、自分が関わって二人の仲が悪くなるのは嫌だった。


「喧嘩をするなら外に出てちょうだい! どうしてしまったの? あなた達、とても仲が良かったでしょう」


 アナスタシアは悲しい表情で二人を見た。リサとの別れで泣いた後という事もあり、その破壊力は凄まじいものだった。ハワードは慌ててこの場の空気を取り繕った。テッドもそれに合わせて仲直りする。


「悪い、お前に嫌な思いをさせたな。今まで見せた事は無いが、こんなのいつもの事なんだ。喧嘩じゃないから、そんな顔しないでくれ」 

「ごめん、アナ。ちょっと誤解があっただけだ。喧嘩じゃないよ」


 そして二人は握手をして見せて、トランクを一つずつ持つと部屋を出た。アナスタシアは部屋を振り返り、最後に全体を見渡して部屋を出た。


「二人共、研修先が一緒なのだから、喧嘩は止めてね」


 ハワードは笑顔で頷き、テッドは照れくさそうに「はい」と答えた。


 玄関まで行くと、ランスウォールの紋章が付いた馬車が丁度入ったところだった。テッドとハワードは馬車まで荷物を運ぶと、アナスタシアとハグをした。短い休暇の後は、一年間新人研修として三人一緒に港町ミナージュに赴任する。それまで暫しのお別れだ。

 二人はアナスタシアを苦しめた女狐を見てやろうと、離れた所から様子をみることにした。

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