3-2 悪夢
これは夢だ。
幼い頃に経験した悪夢だ。
今もその悪夢が私を蝕む。
「さぁ、やりなさい」
私達を監督する大人が、兄様を指さして私に命令通りにしろと告げる。
「い、いや」
震える声で、泣きながら拒絶を示すも、大人達の声は変わらなかった。
「やれと言っているんだ」
淡々と冷たい声で、まるで道具を見るかのような目で私達を蔑む。
「フラウ、やれ」
兄様が、私に大人達と同じようにやれと告げる。
でも、他の人達と違い、兄様は温かかった。
兄様は分かっているんだ。私がやらなかったらどうなるか。
だから、私は――。
ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。
悪夢は今も私を苛み、私を責める。
私をここから解放してくれるのはただ一人だけ――。
「フラウ」
兄様の感情の籠らない優しい声が、私の耳朶に溶けるように響く。
兄様が魘されていた私を起こしてくれていたようだ。
セレナもサティも心配そうに私を見ている。
「また、見たのか?」
私はこくりと頷く。
今では大分治まっていたが、どうやら再発したらしい。
「兄様……」
私が言えば、兄様はきっと答えてくれる。これは甘えだ。だけど、兄様以外に私を罰してほしい存在はいない。
「私にお仕置きしてください」
「わかった」
これが一番いい方法だと悟ってからは、これを行うようにしている。
兄様は私を恨んではいないが、私はそれでは気が済まない。
私が甘えるのは、兄様を愛していることと贖罪のためだ。
兄様に私の全てを捧げるのが、私の贖罪なのだ。
目隠しをされ、兄様の姿が見えない。だけど、兄様の体温が兄様の所在を告げる。
今回はこういう趣向なのだろう。
視界を閉ざされた私の五感は一つが閉ざされたことで、他の感覚が鋭敏になる。
兄様の舌が私の肌を這うように舐めてくださる。他にも舌の感触がすることから二人も混じっているのだろう。
生まれた時から意思を持つ事を剥奪された私達は、大人達の都合のいいように造られた。
その中で唯一持ってもいいと許可された感情は、兄様に対する愛情だけだ。
兄様だけを視界におさめ、兄様の事だけを思い、兄様だけに尽くす。
徹底的な依存だけが、私に持つ事が許可された感情だった。
何故そうするかは後ほど知る事になったのだが、幼い頃に課せられた全てはそれを育む為のものだった。
それが切り離せないほどの感情になってから、ようやく他の感情を持つ事を許可されたのだ。
肌が強く吸われ、私の身体に次々と紅い跡を残す。吸引する力は痛みを発するほどだが、これは罰なのだ。兄様が下さる仕置きの跡が、私の身体に刻まれる事が悦楽へと導く。
痛みが心地よく感じてしまう。罰にならないかもしれないが、兄様が痛みだけを発するものを私にする事を嫌うのだ。だから、本当の罰は別だ。
傍からすれば、私達は禁忌を犯しているのだろう。誰からも後ろ指を指されてもおかしくない行為だが、私はそれを下らないと吐き捨てる。
人々が後生大事に持っている倫理観や道徳など、人々が互いに牽制する為の方便にすぎず、己の獣欲を押さえる為の鎖にすぎない。
法がいい例だろう。あれは幾度となく改正され、国ごとに違った様相を見せる。
人は法を守らんがために人になると言うが、法の書の分厚さを見るがいい。
あれは、法を制定しなくては、人々は罪を犯すという何よりの証拠ではないか。
法を守ることで、人々の社会に秩序が生まれることは否定しない。
人が人として社会の中で生きるには必要だとも思える。
だが、私達はその倫理観や道徳、普遍、常識から切り離されて生きてきた。
誰も私達に社会の中を生きる事を望む者はおらず、社会の外を生きる事を私達に強要し、刻みつけた。
私達が生きてきたのは、人間が後生大事に抱えたものから切り離された環境なのだ。
私達には犯した罪の意識から目を背ける為の自己弁護など、人々に対する贖罪など必要ない。ただ、己の目的だけを追求する。
昂った私を縛りつけ、兄様達だけで楽しんでいる。
縛りつけられている為に自分を慰める事が出来ない。
ただ、彼女達があげる嬌声から自分も貫かれる想像をすることしかできない。
これが、今回兄様が私に下さる罰の形なのだ。
私を罰せられるのは、兄様だけ。
私を傷つかせるのは、兄様だけ。
私が捧げ、望み、尽くすのは、兄様だけ。
だって、私は――。
私の心は飢餓から狂いそうだった。
きっと私は懇願するのだ。
卑しい雌犬の様に。主人に命を握られている奴隷の様に。
それでもいい。
私は『聖女』ではなく、一人の女。
兄様だけの女なのだから――。
** *
街は活気に充ち溢れ、まるで祭りごとの最中のような喧騒に包まれている。
一糸乱れぬ行進は華やかさとは無縁ではあるが、確かな実力と統率を感じさせ、人々に安心感を齎す。
出征の門出に相応しい、悠久の空は何一つ遮らせる事もない快晴である。
人々は、この勇壮なる軍が勝利を凱旋の花束と共に自分達に齎すに違いないと、確信に満ちていた。
行進を一目見ようと、住む家の窓から、数多くある石橋から、今日特別に配置された見物用の小舟から、人々は勇敢たる兵士達を見送っている。
アタル達もその一人であり、彼らは軍が街を出ると、人々と同じように日常へと戻っていった。
「あたし達も参加したかった……な!」
レイアはアタルへと金属鎚を叩きつけながら、攻略に参加できなかった事を愚痴る。
「し……かたないだろ。僕達は所詮雇われ者なんだから」
アタルは衝撃をエイドスで緩衝しながら重量に勝る鎚を交差させた双剣で受け止め、反発のエイドスと共に、鎚を押し返す。
「でも……手伝えるのに手伝えないのは辛いぜ」
レイアは押し返される鎚に同じように反発のエイドスを付加し、鍔迫り合いに持ち込む。
アタルが硬直状態に陥ったのを見逃す筈もなく、アタルの側面から水の鞭が自身を加速、及びしならせてアタルに急襲する。
「いいじゃねぇか。楽ができて……」
アーブが操る水の鞭の脅威を察したアタルは持っている剣の力を抜き、レイアの身体を泳がせた。
「と……」
レイアは泳ぐ身体を立て直そうとするが、横からは鞭が迫り、アタルの代わりにレイアを襲おうとその身を唸らせる。
だが、レイアに当たろうとした瞬間、水は鞭の形を解く。水は地面に零れようとするが、次は槍の形をしてレイアをやり過ごし、アタルを貫こうとする。
「コロッセオに通っている成果が出ているじゃないか!」
迫り来る水槍に炎槍をぶつけ、相殺する。互いのエイドスがぶつかりあってできた衝撃を無視し、爆裂の炎をアーブへと向ける。
「当然よ! 碌に通ってはいないぜ! とはいえ、暫くは休場だがな」
アーブは水の盾を二重に敷き、爆裂の炎をその身に届かせない。
コロッセオは目玉である騎士の決闘を、コロニー攻略の為に人員が確保できなかったため休場となったのだ。
開催されるのは、コロニー攻略後、暫く立ってからと目処が立っている。
「いい機会だろ! お前は賭博に嵌りすぎなんだよ!」
槌を解き、槍に戻したレイアは槍を加速させ、アタルへと薙ぎ払う。
アタルは右手に持つ剣でそれを防ぐと同時に、炎弾をレイアへと放つ。
空気を貪りながらレイアへと迫る炎弾だが、光の盾がレイアへの攻撃を防ぐ。
「そうですよ。賭博は身を破滅させる娯楽です。神の使徒としても見過ごすわけにはいきません」
巨大な氷柱がアタルを押し潰そうと重力に従い、落下する。
「いやいや、どう見ても俺は節制していたでしょう?」
『嘘つけ!!』
バックステップで避けたアタルは、アーブへと炎槍をいくつも飛ばす。何故か、鉄塊がその中にも含まれていたが。
「あぶ!」
サイドステップで大半を避けたのだが、躱せないいくつかは氷の盾が防いだ。
「というか、お前は俺に向けるなよ! 今は味方だろ!」
「すまん。つい……」
三対一の模擬戦である筈なのに、味方であるレイアにアーブは怒鳴るが、レイアは柳に風とばかりに気にした様子はなかった。
その後の訓練は激しさを増し、終わった時には三人とも疲れ切っていた。
マーテルに治療と疲労回復のデュナミスをかけてもらいながら、アタル達はこれからの事を話す。
「攻略が終わるまでどうする?」
「どうするもなにも訓練しかやることないだろ」
「そりゃ……そうだけど」
アタルの指摘にアーブは意気消沈する。
今までコロッセオを楽しんでいただけに、今の時間は彼にとっては苦痛ともいえるのだ。
「あたしもシヴァについていけばよかったかな」
シヴァ達は軍の出征にこっそりと付いていっている。
とはいっても、あくまでそれは非公式であり、ただの観測に止めるだけだった。
「それは先生にもシヴァにも止められただろう。観測にはお前は邪魔だって」
「だってよ……」
拗ねるレイアではあるが、シヴァ達がアタル達を連れていかなかったのは、この点にある。あくまで観測に止めるだけなので、介入しそうな人物の同行は避けたのだ。
その監督役としてエリオスも残っている。
「待つしかできないというのも辛いものですね」
「ああ」
** *
コロニーをギリギリ見下ろせる丘で、シヴァは穢魔にもロマーナ軍にも察知されないように隠密に観察していた。
シヴァがロマーナ軍に付いていったのは、加勢する為ではない。
出てくるであろう厭魔の能力を洞察するためだ。
ロマーナ王国からは介入するな、との通達があった。
故に、彼は何が起こったとしても介入する気はない。
「しかし、ロマーナ王国も馬鹿な選択をしたものね。折角使える駒があるのに使わないなんて」
「勝てるという幻想に取り憑かれているのだろう。それが、虚妄が生み出した幻想になるのか、現実になるのかは定かではないがな」
シヴァとしては人の情思が絡む、特に国の様な巨大すぎる人の思惑など気にも留める気はない。
彼にとっては自分にとっては有益か無益か、それとも邪魔になるのかという損得勘定でしか測る気はない。
故に今回の出来事は、彼にとっては取るに足らない出来事だった。
要は、欠片が手に入ればそれで良いのだ。
『勇者』としての誉れや矜持も持ち合わせておらず、武功を挙げることも人々に感謝される事にもシヴァは興味の一片すら抱かない。否、抱けないように教育されてきたのだ。
「我としてもどうでもいいな。失敗したとしても数は減らせるだろうからな」
「私としては、結論が出るまでどれくらいかかるのかが気にかかりますね」
野宿する事に抵抗はないが、それでもベットなどがあった方が良く、食事も野宿では摂取できる物が限られるので、早めに終わる方が何かと都合が良いのであった。
「それこそ、彼ら次第ですね」
セレナの見遣る先には、拠点を建設するロマーナ軍の姿があった。
** *
ロマーナ軍拠点に設置されている幕舎の一つで、今回の攻略の最高責任者であるマリクス=レガトゥスは、友人である今回編成された精鋭部隊隊長ガイウス=シーザーと語り合っていた。
「長いようで短かったな」
「ああ……ようやく死んでいった戦友達に報いることができる」
マリクスもガイウスも、共に以前の攻略に参加した身であると同時に敗残者でもある。
その時に受けた屈辱を返す為に、彼らは生き恥を晒して生きてきた。
「あれから兵士達は戦う事を恐れ、一時はもう二度と戦うことはできないかと思ったよ」
「だが、私達は兵士達の誇りを取り戻し、勇敢に戦う事を誉れとすることを兵士達に教示することができた。だから、ここにいる」
「ああ、その通りだな。友よ」
マリクスは、この日の為に二本のワインを用意した。
一つは、今飲んでいる勝利を誓うワイン。
もう一つは、勝利した後の祝福のワイン。
ロマーナ王国はワインの生産を他国よりも多く扱っており、マリクスはロマーナのワインこそ世界一だと信じている。
チーズを一つまみする。ワインの生産が盛んな為か、ワインに合うつまみもロマーナ王国は多彩な色を放っている。
勝利を誓うワインをグラスの中で揺らすと、最高級のルビーの様に光り輝いている。
ロマーナ王国は誉れある国だと、マリクスは確信している。
このようなものを生み出せる国が断じて穢魔程度に負ける筈はないと。
「何故だろうな。勝利すると一片の疑いもないほど確信しているのに、どこか不安を抱いている自分がいるよ」
ガイウスは揺らめくルビーの輝きを目にしながら、その輝きを曇らせる闇が瞳の中に映っていた。
「戦場を前にして、ナーバスになっているだけだよ。隊長の君がそんな様では付いてくる部下が可哀想だろ」
彼とて、一抹の不安はある。
しかし、最高責任者として表に出すことはしない。上司の不安は部下に伝播してしまう為、彼は己の勝利を誰よりも信じ込まねばならない。
「私もセンチメンタリズムになっていたようだ。確かにこれでは部下も浮かばれまい」
「そうとも。我らの役割は最善を尽くし、勝利を信じることだ。勝敗の趨勢はどちらにも傾く事は知っている。だが、それでも勝利すると信じなければ、誰が信じるというのだね? 勝利とは、空から雨が降るものではなく、自らの手で掴み取るものだよ」
マリクスはクラスを掲げ、不敵な笑みを浮かべる。
「それでは私達の勝利を祝って」
ガイウスもグラスを掲げ、マリクス同様不敵な笑みを浮かべる。
『乾杯!』
交差するグラスは勝利の鐘の様に音を奏でた。




