何処かの誰か、それは―
最終話です。
「へぇ、またヒーローが現れたかっ!? だってさ。ったく、ガキじゃあるまいし、ニュースで言う事かよ」
テレビのニュースを眺めつつ、一人の青年はそう言葉を吐く。
そんな様子の息子を見た母親は、少々語気を強めて嗜めた。
「まったく、あんたは何に対しても偉そうに……。それよか勉強はちゃんとしてんのかいっ! 来年には受験勉強も始まるってのに!」
「うるせーなぁ……いちいち母さんはうざったいんだよ! 塾に行きたいって言った時、母さんは金が無いから無理とかぬかしたくせによ? なにが勉強はー、だよ。 ったくやる気出してた時に潰したくせしていけしゃあしゃあと」
そう言われた青年は、母親に言えば、何も言えなくなる切り札を早々に使う。
そして効果は絶大であった、母親は下に目線を向けて、申し訳なさ気に言うのだ。
「……それは、悪かったと思ってるよ。だけどね? それでも勉強はちゃんと、そうでしょう?」
「あー、うっぜ。 上行くわ、ったく静かにテレビも見れやしねぇ」
「あっ、ちょっと! ……はぁ、そうだよねぇ。塾に行かせてあげてれば、ううん。 私立でも良いよって言ってあげられたら」
母親は、足音を無駄に大きくしながら、二階へと上がっていく息子に声を掛ける。
しかし、いつもの事なのだろう。
すぐにため息を吐き、自分の情けなさに苦しむ。
この家庭は、母子家庭だ。
母親1人で今まで必死に家庭を守ってきた、息子が幼い時に事故で亡くなった夫のためにも、彼女は必死に頑張ってきたのだ。
しかし、普通の生活を送れるようになった今でさえ、私立の大学へと、そして塾へ通わせるなどの余裕は一切無かった。
「まったく、英雄ねぇ……。あの子の言う通り、そんなもんいるなら、いや……言うもんじゃないね」
彼女の昔の趣味であった洋服や靴といったファッション、そして今はもう枯れ木しかない庭で行っていた家庭菜園すら止めて、息子のために玩具なり、服なりを買い与えてきていたのだ。
息子のために全てを尽くしてきた、そのつもりだ。
そして息子も根は良い子だと知っている、誰よりも、彼女は誰よりも知っているのだ。
だからこそ、悲しい。 その子をこんな風にしてしまった自分が。
「今の時期、あの子だって大変だったろうに……。あの時の私は、はぁ……言い方ってのがあっただろうに」
そう言いつつも、洗濯物を取り込むために彼女は庭へ出ていった。
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「まじかよっ! あっはっは、ウケるわ! あいつそんな事言ったのか?」
「そうそうっ! だっせぇよな! 偉そうに言ってた事がよ、教師にそれは違う。とか言われてやんのっ!!!」
青年は今、街の中では高台に位置する商店街にあるゲームセンターで学友と騒いでいた。
普段は、彼自身でも家庭の事情を知っているために外食などもせず、当然の事ながらこういった場所に行きはしない。
だが、外は大雨が降っていた、そして彼は傘を持っていなかったのだ。
「それにしても、何時まで振るんだよ……。ったく、これじゃ家に帰れやしねぇっての」
「別に良くね? お前んとこのババァ、うるせぇんだろ?」
そう、言われた瞬間、青年は先ほどの声とは違った声を出して一言言った。
「……おい、てめぇウチの母さんの事なんつった? もう一回言ってみろよ、聞き間違いだよな?……あ?」
「お、おいおい……。 わりぃ、そういう意味じゃ無かったんだよ。で、でもよ? お前、家だと居心地が悪いっていつも言ってるじゃねぇか」
一応は謝罪を受け取った上で、そう言われてしまうと青年も言葉に詰まる。
「……っあぁ、そうだよ。だってよ、それはっ」
青年が何かを言おうとした時だ。
ビニールテープを引き裂いたような甲高い音が街中に響き渡った。
「……は?」
学友は何が起きたのか、そしてこの騒音の意味がいまいち分からないのだろう。
呆然とした表情で、口を開けたまま、そう言った。
「馬鹿やろうっ! 洪水だよ!! やべぇ、この前の梅雨の時期に壊れたまんまだぞ!? すぐに溢れる! くっそ」
この街は、元々洪水の多い街だ。
そのために、主な施設は高台にあるし、避難所も当然そこにある。
しかし、住宅は盆地に集中しており、今回のような場合は危険と言えるだろう。
なぜならば、以前の洪水で堤防が破損しており、それを修復している所だったために、今回はそこから避難出来る時間すら無いかもしれないためだ。
「やべぇよ! はやく俺らも逃げようぜっ!」
学友は、ようやく事態を察したのだろう、顔には確かな焦りを浮かべて、一筋の汗を流していた。
「……う、あ……でもっ」
青年は眼下に見える街並みを見下ろす。
その奥の方に我が家はある、遠い、とてもではないが間に合わない。
そこへ行きたい、今までのいざこざなど気にせずに助けに行きたい。
――――しかし、怖い。恐ろしい。死にたくない。
その黒い感情は、たった少しの躊躇の元である、ソレに纏わり着く。
もしかしたら、そのいざこざが無ければ今すぐに彼は駆け出せていたかもしれない。その黒い感情を振り切れたかもしれない。彼は自分の母から多すぎるモノを学び、享受しているのだから。
しかしちょっとした、ほんの少しのトゲを黒い感情は見逃さなかったのだ。
「っ、行かないってんなら俺だけでも、もっと上に行くからなっ!? お前もすぐに来いよ!!」
そう言い残して、学友は坂を上へと駆け上っていく。
「あぁ、どうしよう!? 母さんがっ、あぁくそぅ!!」
青年は坂を駆け降りようとしたり、上ろうとしたり右往左往だ。
そうこうしている彼の横を大勢の人々が上にいくために過ぎていく。
「急げっ急げっ!! 大丈夫だっまだ間に合う!!」
逆に、下へと駆ける人々もいた。
消防の人ではない、地元の人間である。見た事のある商店街の小父さん、兄さんといった面々が、顔に焦りを浮かべながらも確かに助けるために走る。
「土嚢は積んでいるか!? よし、行くぞ。おらっ、小僧! どいていろ、あぶねぇぞっ!! ……消防に連絡はっ!?」
「もうしているっ! 役所もそこへ駆けつけている最中だそうだっ! 急ぐぞ、俺らの街なんだ! 俺らが守らないでどうするってんだ!!」
口々に、そう言いながら、街を守るために彼らは走る。
しかし眼下では今にも川の水位は氾濫しそうな勢いで増え続け、とても間に合いそうには見えない。
どう見ても死にに行くように見える、しかし彼らは迷わない。
「あ、うぅ……なんでっ、くっそ!」
青年には、その大人達は正しく愚かに見えた。
なにせ死ぬのだ、行けばもしかしたら多少は時間を稼げるかもしれない。
その事で多かれ少なかれ助かる街人も、建物もあるかもしれない。
だが結果は同じだ、止められない。
「あぅ、うううう、怖いっ、でも母さん、あぁ」
しかし、青年は願う。 自分もそうしたい、そうしないといけない理由がそこにはあると。
願う、祈る、助けてくれと。
――――何処からともなく現れて、どんな絶望をも打ち砕く、そんな存在を。
だが、そんな存在は居ないはずだ。
居たとしてもニュースで流れている内容を覚えている限り、何時でも、何処でも、本当にギリギリの場面でしか、彼らは現れないのだ。
「くっそ、いるなら来いよっ! 頼むからっ!!」
彼の叫びは、助けを求める悲鳴は、逃げ惑う人々の騒音に混ざって消える。
誰の耳にも届くことは無い。
――――はずだった。 しかし届くのだ、英雄にだけは。何故ならば。
「……あれ? なんだこれ?」
青年が、強く願い、叫びを挙げた時に再び強く握り締めた拳。
その中に、掌の上に、何かがあった。
弱弱しくも、力強い、そんな灯りを宿す黒い何かだ。
「…………、いや、こんなのはどうでもいい。そうだよ、何やってんだよ、母さんがまだあそこにいるんだ、俺も行かないと」
それを無視するように、英雄に願うだけでは駄目だと、その黒い何かに教えられたかのように、青年は足を踏み出す。
――――黒き何かは、その変化を喜ぶかのように、弱弱しい灯りを徐々に、段々と強くする。
青年は歩く、走る、駆ける、誰よりも大切な人のために。
青年は前を向く、大切な人を守ろうと足掻いている大人達に見てみぬ振りをし続けた何かをしっかと教えられたかのように。
青年は拳を握る、今までの己を叱咤するように。
青年は声を挙げる、己の勇気を、ちっぽけな灯火が消えないように。
――――その時、小さな勇気は一瞬だけ、誰でも持てる覚悟へと、そんな小さな、しかし偉大な覚悟は、人が誰しも胸の中に抱ける普通な、だけれども大いなる覚醒へと姿を変える。
青年が己の何かを示す叫びを挙げた時だ。
遂に、堤防が決壊を起こそうとしていた。市民消防団の人々、近所の人々と遅れてきた消防や警察といった公的機関の者達。
それらが必死に止めようとしても、それは止められない、直に水流に飲まれるのが誰の頭にも過ぎった。
「はぁはぁっ、はい! これを、はい!」
バケツリレーよろしく、小さな土嚢を必死に運ぶ人々の中に、青年の母親はいた。
か弱い女性の腕で、重いソレを必死に持つ、運ぶ。
彼女は知らない。愛する息子が今どこにいるのかを、だからこそ命を賭けられる。
己がここで時間を稼げば、息子が助かる、それならば何の恐れがあろうかと。
この場にいる勇者達は全てその想いだけが力だ、その想いだけで何でも出来る。
悔いがあるとすれば、それら愛する者達の今後を見届けられない事であろうか。
――――-英雄とは、そんな人々の前にこそ、その姿を現す。
雨が降り続ける黒い空から、しかし本物の黒を背負い、その悪しき黒を倒すべく現れる。
「――――」
「え? 今なにか、っ!? あ、え、まさか」
青年の母親は誰かに呼ばれた気がして、堤防の上を見上げる。
そこには、黒き背を見せるなにかが悠然と立っていた、その背は大きいようで小さく、それでいて強さに満ち溢れていた。
武力、知力、そういった強さではない。心の、魂の強さだ。
その背を見た者は力を与えられる、前に進もうと思える、諦めずに奮起できる。
そう、まさしく英雄の背中に他ならなかった。
腰に輝く、ベルトへと、人々の勇気を、覚悟を、覚醒を集めたように。大事に、大切にベルトを撫でて英雄は軽く振り向く。
「――――遅くなった。もう……大丈夫だ」
聞きづらい、くぐもった声で黒いなにかは言う。
しかし言いたい事は、その声の音とは違い、ハッキリと汗を流しながら必死に動く彼らへと通じた。
「――――っ!」
そう言うと、黒いなにかは濁流激しい川へと近づいていく。
そして決壊しそうな箇所へと容赦なく襲い掛かる水流へと向けて、小さな、しかし硬い拳をぶつけたのだ。
「……うそだろ?」
その拳はどれほどの想いを篭めて握られていたのだろうか。
いともたやすく黒く濁った殺意を打ち砕く、それを何度も、何度も打ち砕く。
――――正義の英雄は決して倒れない、諦めない、そこに守りたいと願う人々が居る限り。
「は、ははっ、はっはっは!」
「うそみたいだ、こんな事が……」
どれほどの時間、黒と黒が戦ったのだろうか。
勝敗は明らかだ、黒き殺意となっていたものは空に陽の光が射したことで常の穏やかな色を取り戻しつつあった。
そしてその場に立つのは、やさしき黒。
「――――助かった、礼を言う」
既に乾いているはずの汗を今も流す人々に、そう言い残すと黒は全て消えた。
英雄は、誰かを、何かを守ろうとする人がいなければ強くあれないのだ。
英雄とは、誰よりも弱い存在であり、だからこそ誰よりも強く在れる存在なのだ。
「…………いつの間に、あんなに大きくなって」
消えた黒、しかしたった一人の女性は別の意味で大粒の涙を流す。
それは喜びであり、少しだけの悲しみ、しかしそれは黒きものではない。
愛する何かが、思った以上に強く、大きく成長していた事に親というものは時として涙を流してしまうものなのだ。
――――
――――
――――
「ほらっ、ったく遅刻するよ! いつまでもグーグーと、そんなんでどうするのっ!」
「あー、うっさいなぁ……。あの洪水の時に、逃げるために走り回って体中が痛いんだよ……」
あれから数日、街はいつもの日常を取り戻していた。
同じく、この家庭の朝もいつもの朝の光景である、否。少しばかり、両者の声に本来の、下らない意地や罪悪感に隠されていた温かみが感じられる。そこだけは違うだろう。
「まったく……、馬鹿みたいに逃げようとしたんじゃないのかい? あぁ、あの時に見た英雄みたいになってもらいたいもんだねぇ。そうだったら、あぁ……。どれだけ自慢の息子だろうかね?」
何故か、あの洪水の日以降、息子は体を満足に動かせぬ程に衰弱していた。後日、心配する母親に引き摺られて連れて行かれた診察所が簡単に言うには、酷い筋肉痛を起こしていただけだそうだが。
とてもそうだとは思えない母親は、しかし何も聞かない、何も問わない。
けれどもその眼差しは、愛する息子へと向けるソレは、何よりも誰よりも信じているモノ。これは変わらない。
「……ちぇっ、はいはい。そうですねぇーっと、んじゃ……行って来るわ」
息子はやはり何も言わない、何も答えない。
しかしその言葉は、大切な母親へと投げるソレは、何よりも誰よりも分かっているモノ。
「……はいはい。気を付けて行くんだよ? また怪我したりしないようにね?」
「しねーよ、したとしても……。その時は俺じゃないかもな、うん、そんな気がするよ」
青年は、玄関を抜けて空を眺める。
青い、何処までも透き通り、続いているような空だ。
そこに黒は無い、しかし黒は何処にでも存在する、悪しき黒もあれば、その逆も。
「そういうもんかね? あんたは一丁前に偉そうな事言うからねぇ? 私は心配だよ、っとほら! 遅刻っ遅刻しちゃうって! 急ぎなさいっ!」
何も無い日々を愛し、大切にする人々がいる限り。
しかしそれらはいつだろうと現れる、そして涙が流れる悲劇があるのだろう。
だが、もしかすると、その場に英雄が現れるかもしれない。
しかし、忘れてはならない。
英雄は、何かを守ろうとする人々がいるからこそ、その場へと現れるのだ。
何もせずに、願うだけでは決して現れてくれはしない。
もし、そのような場に遭遇してしまったとしたら、貴方はどうするだろうか。蛮勇と知りつつも尚、無謀と分かりつつも更に、決して譲れぬ想いを糧に。
――――叶うならば、小さな勇気の灯火を宿す事を。
――――叶うならば、小さな覚悟の拳を握る事を。
――――叶うならば、小さな覚醒の雄叫びを上げる事を。
そうすれば、その小さな輝きを集め、きっと現れるはずだ。
どこにも存在はしない、しかしその集いし煌めきが悪しき黒を照らした時、どこであろうとも颯爽と現れる。
そんなやさしい黒き英雄が。
そうか。
――――やさしき黒を背負いし英雄は、もしかすると貴方なのかもしれない。
以上、駄文失礼しました。




