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怪奇抄  作者: fumia
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第二話:ある狂人の記録

 何という事だ……。

 最悪だ……。


 私は中古で安く購入したC20後期のセルシオの運転席に座りながら、呆然と眼前の光景を見つめていた。

 時刻は深夜1時の住宅地の路地。外は土砂降りで視界が悪かった。だからライトを上向きにしてフォグランプも点け、スピードを落として走行していた。

 だが……、だがこんなもの想定出来る訳がない。こんな夜更けにパジャマ姿の幼女が傘も差さずにフラフラと目の前に飛び出して来るなんて……。


 私は車のライトを全て切って、ハザードランプだけ点滅させると、シートベルトを外してドアノブに手を掛け、盥の水をひっくり返した如く滝のようにアスファルトを叩きつける雨の中、闇夜の下に降り立った。

 辺りを見回してみる。真夜中である上にこんな大雨が小一時間も降り続いている所為だろう、周囲に人影らしきものは一切見られなかった。


 私は少し安堵しつつも、今度は車の前方に目を向けた。


 車のフロントバンパーから10m程離れた場所。漆黒の闇を断続的に照らし出すオレンジ色の光に照らされて、1人の幼子が道路の上に臥している。年の頃は5歳位だろうか、デフォルメされた左耳に桃色のリボンをしている可愛い兎のイラストが細かくプリントされた桜色のパジャマ姿で、おかっぱ頭に丸い顔をして、肌も透き通るように白く、まるで稚児の市松人形を彷彿とさせる可愛らしい子供である。こんな子供が孫だったりしたら、さぞかし鼻が高くなるだろう。

 だが、今やこの子の後頭部や蟀谷から流れだしたどす黒い血液が、打ち付ける雨や地面に溜まった水溜りに溶けこんで一帯を薄く赤く染めている。


 目を瞑って俯せで倒れていたので、死んだのかとも思ったが、私が彼女の足元にそっと近付くと、上の方に伸ばした右手の人差指がピクリと痙攣したように動くのが見えた。一応まだ生きてはいるらしい。

 どうせなら死ねば良かったのに。下手に生きながらえてこんな子供の一生の面倒を見る羽目になる位なら、過失致死で賠償金を払う方がまだ安上がりだろう。それにこんな事で世間から恥辱を受ける訳にはいかない。

「糞っ……!」

 私は毒々しく吐き捨てた。


 車のトランクに仕舞っておいた青い羊毛の毛布に少女の体を包み、ラゲッジルームの中に放り込むと、私は車に乗り込んでなるべく静かに、何かに急き立てられるようにその場から離れた。


 2時間後、私は自宅から車で1時間半程掛かった所にある山中の自然公園へとやって来ていた。

 この公園の髄一の名所でもある、狸ヶ池と呼ばれる大きな池の深い淵の岸辺に到着すると、私は雨で濡れた草原の柔らかい緑の葉の上に青い毛布で包まれた物をドカッと放り投げた。

 そして毛布を広げると、原型を留めない程グチャグチャに粉砕した少女の頭部、両腕、腰から上の胴体、股間部、両足を取り出すと、次々と池の中に投げ込んでいく。

 そして全てを終えた後、毛布を回収して手に填めていたゴム手袋を外すと、直ぐにその場を後にした。


 車に戻ると、以前学生の一人から貰ったクロックスの黒いゴムサンダルから普段履いている茶色い革靴に履き替える。

 帰宅後、私は毛布とゴム手袋とゴムサンダルを即刻処分した。


 数日後、各紙の一面で仰々しくこんなニュースが報じられた。

『〇〇自然公園にある池の底から女児のバラバラ遺体が発見!性的変質者の仕業か?!』


 その記事を読んでほくそ笑みながら、私は自分で淹れたカップの中のインスタントコーヒーを一口だけ口に含んだ。


 工学部の学部棟の一つ、研究室が集結した15階建ての大きな建物である1号館の6階の廊下を、エレベーターホールから自分の研究室へ向かう為に私は歩いていた。

 学生や院生達の憩いの場となっているラウンジの近くを通り掛かった時、ふと人の話し声がラウンジから聞こえてきたので、私は不覚にも腕時計で時間を確認してしまった。深夜の2時5分。こんな時間に私以外に残っている奴がいるのか、そう思いながら私は物陰に身を隠し、中の様子を窺った。


 ラウンジに居たのは、博士課程の3年生として私の下に付いている笹木君だった。俗にいう爽やか系イケメンと呼ばれるような二枚目で、背が高く色白のスラっとした容姿端麗な子で、ウチだけでなく他の学科や学部の女子学生からの人気も高い好青年である。


 そんな彼がこんな時間に、実験室ではなくラウンジで独り言をブツブツ呟いている事を奇異に思ったが、よく見ると彼が右手に携帯電話を持って耳元に当てている事に私は気が付いた。何だ……、電話をする為に席を外していたのか。


 そのまま通りすぎようとした時、彼が話している声が偶然耳の中に入って来たので、私は愕然とし、再び物陰に潜伏した。

「……ええ、そうです。例の狸ケ池の事件で……。」

「……そう、実は見てしまったんですよね。」

 私は立ち上がってラウンジに入ると、笑顔を作りながらゆっくりと彼に近付いた。

「……何を、ですって?そりゃ、勿論犯人を、ですよ……。」

「……ええ、それは……、……っ?!」

 偶然此方へ振り向いた笹木君と、私はばっちりと目が合った。彼は有り得ない物を見るように、飛び出んばかりに目を見開いて驚きながら私の顔を凝視していた。そして、

「……ああ、すみません。キャッチが入ったようなので今回は失礼します。では、また。」

と言って慌てて電話を切ると、

「き……桐生先生……。こんな時間にどうされたんですか……?」

と、慌てて姿勢を正した。尤も、ギクシャクし過ぎていて、動揺している事が容易に察せられてしまったが……。

「何、実験が立て込んでいてね……。気が付いたらこんな時間になってしまっていたよ。それより笹木君、君も精が出るね。こんな時間まで実験かい?」

 私は何も聞いていない風を装い、手に持った籠に入った試料である金属片を見せつつ笑顔で彼に語り掛けた。

「ええ、博士論文を纏めなければいけなかったので……。でも、それも今日の分は終わったから、もう帰ります。それでは……。」


 そう言い残して彼はその場を立ち去ろうとしたが、私は彼をこのまま帰す気は更々無かった。

「ああ、笹木君。」

「は……、はい……!」

「それなら丁度良かった。こんな時間に引き留めてしまって悪いが、少し実験の手伝いをして貰えないかな。」


 私は金属加工をする各種の実験装置が入った実験室の一つに彼を招き入れると、圧力を掛けて金属試料を押し潰す機械の電源を入れ、彼に解析装置のデータを読み込んで傍に置いた大学ノートに解析結果を書き写すよう命じると、加工機と私から背を背けさせる形で彼を座らせた。


 私は、手持ちのアルミニウムのチップの中から、歪な切れ目が上から下の方に向かって斜めに走っている、本来ならこの実験で使用するのにそぐわない物を敢えて機械にセットすると、長年の経験から、この位の力なら上手く試料を粉砕させて笹木の脳天を貫けるだろうと思う値を適当に機械に入力して設定し、操作スイッチをポチっと押した。


 鈍く単調な音を立てながら、金属片が押し潰されていく。

 そして突如、ピシっと軋むような音が加工機から聞こえてきた。試料に走っていた断層が圧力に耐え切れずに砕け散ったのだ。

「笹木君、危ない!伏せろ!!」

と、私は咄嗟に物陰に逃げ込みながら彼に向かって叫んだ。

「え?」

 不思議そうに振り向いた彼の眉間に向かって、加工部位から勢い良く弾き出された鋭利なアルミニウムの欠片が銃弾のように襲い掛かっていた。


 事態に気が付いた笹木君の端正な顔が驚愕と恐怖でみるみるうちに醜く歪んでいく。直後に彼の鼻の付け根の辺りに着弾したアルミニウムが彼の白い肌に減り込み、更に目も当てられない物へと変えていった。

 やがて、金属片は彼の頭部を貫通した挙句彼の顔の上顎から上を木っ端微塵に吹き飛ばした。頭蓋骨が破断し、白っぽい色をした脳味噌が爆発したように四方へ吹っ飛んでいく。そして、眼球が付いた視神経をひらひらと舞わせ、ありとあらゆる物を無差別に真紅に染めながら、笹木君は実験室の床の上へゆっくりと崩れるように倒れていった。

 私は加工機の陰から出て操作を停止すると、下顎と下の歯だけを残して頭が無くなってしまった笹木君の元へ歩み寄った。まさか、こんなにも上手く事が運ぶとは……。


 私は態とらしく彼の遺骸に駆け寄ると、

「笹木君!笹木君!」

と、さも今し方彼の事故に偶然めぐり遭った第三者のように振る舞いつつ、

「大変だ!誰か!誰かいないか?!」

と、廊下に向かって助けを求めた。


 階段を此方に向かって駆け下りて来る音が聞こえる。暫くすると、廊下の向こうから7階に研究室がある、ウチの学部の学部長も務めている同期の関谷教授が白髪混じりのゴマ塩頭を振り乱しながら此方の方へ走って来るのが見えた。

「桐生君……!何なんだ、さっきの音は?何があった?」

「ああ、関谷教授。いい所に来られた。大変な事になってしまった……。私の不手際の所為で、笹木君が……、笹木君が……。」

 私が悔しそうに俯きながら涙を流す様を見て勘づいたのか、関谷は身を乗り出して私の右肩越しに実験室の中を覗き込み、

「な、何という事だ……。」

と、息を飲んだ。

「私の所為だ……。傍に居たのだからもっと注意深く監督指導していれば、こんな事には……。」

「落ち着け、桐生。こういう実験をしていればこういう事故は何時でも有りうる事だ。必ずしもお前だけの所為じゃない。」

「しかし……。取り敢えず今は警察に連絡し……。」

「止せ!」

 いきなりドスの効いた声を上げた関谷を私は沈黙してじっと見つめた。

「今はまだ、これを公にしない方がいい。こんな事故が表沙汰になってみろ。大学の沽券に関わるぞ。」

「だが……。」

「兎に角、俺が何とかするから……。桐生、お前は何もせずに俺達上の者に任せて今日はもう帰れ。」

 こうして、関谷に追い立てられるまま私は大学から帰宅した。


 翌々日、大学から笹木が深夜の実験中に正気を失って自殺したという発表がなされた。


 実験装置に故意か過失か不適合な試料を導入し、破裂した試料を至近距離で顔面に浴びて即死するという過程で発生した自殺、または事故。ただし自殺である可能性が高い。それが大学から公表された笹木 修一の突然死のあらましだった。


 強引なこじつけとしか取り様がないが、こんな無茶な理屈が案外すんなり通ってしまったのも、偏に笹木の自宅の部屋から、

『もう絶望しかない。死んでしまいたい……。』

と、自殺を仄めかすメモや、

『桐生先生……恨みます……。』

等私に対する恨み辛みを書き殴ったレポート用紙の紙片が見つかった上に、死亡当時の彼の所持品の鞄から多量の向精神薬と精神科の受診票が発見されたからである。

 昼間の彼しか知らない私には想像さえ出来なかったのだが、酷く精神が不安定な時には、真夜中に外へフラフラと行く当てもなく徘徊したり、何処かへ電話を掛けたりする事が度々あったらしい。


 あの晩もあの雨の中を覚束無い足取りで出歩いていたそうである。そう言えば、例の私が生きたままバラバラにしてしまった女の子も、夢遊病の気があったらしい。あの晩も両親が気付かぬ間に寝具から抜け出し、玄関のドアを開けて外に飛び出して行ったとか何だとか……。全く迷惑な話である。

 お陰で、私は彼女を毛布に包んで自宅まで連れ帰り、後頭部に大きく開いた傷口から車に轢かれたと鑑識に判断させない為に頭部を金槌で滅多打ちにして砕き、猟奇犯の仕業に見せかけて警察の意識を自動車事故という概念から逸らす為に電動鋸を使って遺骸を7つの部分にバラバラにし、遺骸に付着したアスファルトの砂利や自動車の塗料を洗い落とす為に態々1時間以上掛かる山の中まで行って死体を池の中に放置して来たのだ。ついでに、今は夏場で水温が高く、水中の微生物や動物が活発に活動しているので、彼等が彼女を分解して身元を確認し難くしてくれたらな、という不確かな思惑もあった。


 まあ、その事は追々置いておくとして、笹本君の通夜からの帰り道、私は同じ学科の教員である同僚達や工学部主任である関谷教授と、とある居酒屋の座敷席で相席して酒を飲んでいた。

 上座から順に、関谷教授、学科長の稲垣教授、私、五十嵐准教、藤原准教、滝沢准教、長島准教、益子常勤講師、佐藤常勤講師、川上常勤講師、そして一番の若手でこの度逝去した故人と同級生であり、親交もあった高橋常勤講師、そして非常勤講師の岩手と中上、他助手4名の順に腰を落ち着け、私達はチビチビと辛気臭い酒を飲み交わしていた。


 以下にもそれらしい、全員が黒い喪服を着てビールのジョッキと摘みを前にして沈黙を守る中、私の向かいに座っていた、狐を彷彿とさせる面長の胡散臭い顔をした稲垣が不意に私に向かって話し掛けてきた。

「しかし、まあ……。桐生教授の所ではよく人が死にますなあ。今度の笹木にした所で、よくまああんな高度な自殺方法を選んだものですな……。ねえ、桐生先生?」

「…………。」

 私は彼を無視すると、ジョッキを手に持ってぐいっと一気にビールを口の中に流し込んだ。

「でもさあ、笹木さんが死にたくなった理由も解らなくはないですけどね。」

 そう口火を切ったのは、末席にいた助手のウチの1人、この中で紅一点の中居 美沙である。

「だって、あの人。3年の時に1年留年した上に、桐生先生に3回も卒論を撥ねられて、結局足掛け8年で大学を卒業して、1年浪人した末にまた桐生先生の口添えでウチの博士課程に入って来られたんでしょう?何だかんだで、院卒しても30歳じゃないですか。そんな無駄に学歴と年齢が高い人を新卒として雇う企業があるとは思えないし、大学に残るとしても確実に桐生先生の元に着いて毎日のようにいびられる訳でしょう?しかも博士論文を無事に通して貰えるかも分からないし……、わたしなら普通に死ねるなあ……。」

 女という奴は皆こうなのだろうか?何もこんな時に不帰の客の事を茶化しながらベラベラと喋りたくらなくてもいいだろうに……。その原因を作った事を棚に上げて、私は彼女の事を少々疎ましく思った。


 彼女から視線を外すと、高橋講師と益子講師が話を交わしているのが目に入った。お互い斜向かいに座っている所為で、此方まで会話の内容がよく聞こえて来る。

「益子先生。俺達が3年の終わりの頃にやった研究室への分属の時の事、覚えていますか?」

「え?ま……まあ。覚えているよ。」

「あの時、笹木の奴、先生の研究室に行く事を希望していたんですよ。」

「そうだったっけ?」

「ええ、でもあいつ。桐生先生の必修落としちゃって3年をもう一度やり直す羽目になって、結局桐生先生の研究室へ行かざるを得なくなってしまったんですよね。」

「ああ、そうだったね。僕も入れてあげたいと思ってはいたんだけど……定員が一杯になってしまったからね……。」

「仕方ないですよ、先生の研究室は人気がありますから……。ただ、思うんですよね。あの時桐生先生の研究室に配属されなければ、あいつが死ぬ事も無かったんじゃないかなって……。」

 そう言いながら、佐藤講師の陰から私の方を睨みつける高橋の視線を感じて、私は彼の方へ振り向いた。

「私に何か用かね?高橋君。」

「いいえ、何でも。」

 口ではそう繕いつつも、無音のまま口の形だけで、

「この、狸親爺が……っ!」

と発するのを、私は見逃さなかった。


 笹木が死んで数日が経過した休日のある日、私は車に乗り込もうとして、家の車庫に回り込んだ。


 かなり大きなガレージには、銀色の車体カバーが掛けられたセルシオの他に、特殊鉄鋼裁断用の大型電動鋸や延伸装置、板金加工の為の装置等、ちょっとした自動車修理工場を開けそうな大型機械が幾つか肩を並べて寄り添っている。

 元々、電気自動車やらソーラーカー等の『学生の、学生による、学生の為のエコカー』造りが各地の大学で跋扈していた時代、その風潮に乗ってウチの工学部でもオリジナル電気自動車プロジェクトが立ち上がり、私も金属加工の専門家として参加せざるを得なかった時に、私の家のガレージを開放してボディーとシャシーを製作する工作機械を置いたまま、プロジェクトの終了と共にそのまま我が家に放置された物である。

 今でも、車のエアロパーツを製作したり、簡単な修理やチューニングを行ったりする為に私が無断で使用しているが、今現在裁断機は脂と血液が染み付いて使い物にならなくなってしまっている。


 カバーを外して車を露出させる。

 一度ボンネットを外して内側から叩いて延伸する事で、何とか誤魔化せるレベルまで凹みを修復し、事故の衝撃で割れてしまったエアロやヘッドランプカバーをユニット毎新しい物に交換したものの、やはり日曜大工程度の素人仕事では完全に修復する事は不可能だった。ボンネットの彼方此方が少しだけ歪な凹凸だらけになった自動車を見て、私は溜息を吐くと、車に乗り込んで本職の板金屋に向かった。


 自動車修理専門店、モリタオート。ここに一人の板金職人がいる。嘗て私の教え子であった守谷 昭一である。

 相変わらず金に近い茶色に染めた髪を逆立てて不良然としている元教え子の姿を見つけた私は、車を停めて降車すると、彼に向かって声を掛けた。


「いやあ、忙しいところにすまないね、守屋君。実は君にウチのセルシオを直して欲しいんだが……。」

「成程……。こりゃ、酷いですね……。」

「近所の糞餓鬼共がボールをぶつけて凹ましたようでね。御覧の有様だよ。」


 守屋はボンネットの窪みを確かめるように手で丁寧に撫でると、少し間を置いてからこう言った。

「先生。この車、補修した後がありますね。」

「ああ、私の所にある工作機械を使って修理しようと頑張ったんだが、やはり仕上げが今一つでね。やっぱり金が掛かっても綺麗に仕上げて貰った方がいいかな、って思ってさ。」

「ふーん。でもこれ、本当にボールをぶつけられただけっすか?」

「どういう事かな?」

「補修範囲が広過ぎるんですよ。上はここ、下はグリル際、左右はいっぱいまで補修痕が残っている。おそらく一番努力された所のようですね……。」

「…………。」

「先生、この車、人を轢いたでしょ?」

 あまりにも平然と彼が尋ねて来たので、私は暫く呆然とし、驚き慌てる事まで忘れ掛けてしまっていた。

「おい、守屋君。君は何を言っているんだ?私が人を撥ねる訳無いじゃないか。変な言い掛かりはよしてくれ!」

 我を取り戻した私は、彼に向かって抗議した。すると、彼はニヤリと笑うとこう言った。

「ねえ、先生。先生が金属加工技術のエキスパートって云うなら、俺らは板金のプロフェッショナルっすよ?毎日のように車を見ていれば、それがどんな状況で壊れたか位容易に想像できまさあ。」

「…………。」

「残念でしたね、先生。抜けた所なら上手く誤魔化して証拠隠滅する事が出来たでしょうが、俺様の目に留まっちまったのが運の尽きっすねえ?」

「貴様、私を脅迫する気か?折角落ちこぼれだったお前に就職先を紹介してやったのに!」

「滅相もない。俺は善良な一市民として通報してあんたの後ろ手に縄を頂戴させるだけですぜ、先生。それに、就職先を斡旋したって言われても、こんな時化た町工場に行かさられて恩に感じるも糞もあるかよ!」

「…………。」

「でもね、先生。俺だって話が分からない奴じゃない。」

「…………。」

「取り引きしようぜ。」

 そう言って、私の肩に肘を掛けながら親指と人差指で環を造ると、奴はふてぶてしくニッコリと笑った。


 私は自宅の上がり框の傍で、三和土の上に現れた守屋を笑顔で出迎えた。

「いやあ、よく来てくれたね。守屋君。御足労様だったね。」

 守屋は唖然とするように口を大きく開けて目を見開きながら私を見つめていた。

「はあ……。所で、金の工面が出来たって、本当の事でしょうね?」

「ああ、きっちり3百万、封筒に入れて向こうに用意してあるよ。……まあ、何だ。ここで立ち話するのも何だから、上がりなさい。ほら、このスリッパを使って。」

と、私は彼に足元にあった来客用のグレーのスリッパを彼に勧めた。

「それじゃあ、お邪魔します。」

 そう言って守屋は促されるまま右足をスリッパの中に収めた。

 だがその途端、

「痛っ!」

と大声で叫ぶと、彼はスリッパを蹴り飛ばしてそのままつんのめると、右足を掴んでその場に蹲った。

 何事かと思って蹴り付けられたスリッパの方へ視線を向けると、スリッパの空洞の中から一匹のオオスズメバチがガサゴソと現れた。どうやら、そこの玄関の傍の軒先に巣を造っている連中の働き蜂がスリッパの中に迷い込んだらしい。スリッパの中にオオスズメバチの餌場集合フェロモン(集団で特定の餌場を占拠する性質があるオオスズメバチの働き蜂が分泌するフェロモン。匂いを付けた所に他の働き蜂を誘導する集合フェロモンの一種。集団攻撃の引き金にもなる。)の希釈溶液を染み込ませておいたからだろう。1匹だけだとはいえ、上手く入り込んでくれた様である。


 一方スズメバチに刺された守屋の方を見ると、顔が紅潮し、手足がむくれ、体全体が細かく痙攣している。

 そんな守屋を見下ろしながら、私はそっと彼に語り掛けた。

「なあ、守屋。確か去年の夏、私が君の所に車を修理に出した時に言っていたよな?オオスズメバチに刺されたって……。」

「そ……それがどうしたんだよ?……うぅ。」

 守屋は苦しそうに呻いている。

「実は、過去にスズメバチに刺された経験があると、二度目に刺された時に強烈な免疫不全が発症する事があってだな。それをアナフィラキシーショックって云うんだ。生物学や医学系の専門用語だが、名前位はお前も聞いた事があるだろう?」

「――――――っ!」

「前回、去年刺された時は何も無かったと自慢しておったが、何も無いように見えてスズメバチの毒を認識して特異的に結合する抗体を作る記憶細胞がお前の中で造られていたんだよ。」

「あ――――うわ――――――っ!」

「そして今回、スズメバチの毒素が体内に侵入した事を察知した白血球細胞の好塩基球がアレルギー反応に関係するIgE抗体を産生して、こいつが抗原であるハチ毒と特異的に結合する事で肥満細胞を刺激してヒスタミンを放出し、ヒスタミン受容体からの一連の反応によって血小板凝固因子が全身に放出される。ちなみによく間違えちゃう事があるけれど、肥満細胞と脂肪細胞は全く別の組織の細胞だからな。体内の脂肪を貯蔵するのが脂肪細胞。ゴルジ体が生産するような細胞内分泌物を顆粒状の組織に大量に備蓄している細胞が肥満細胞。『肥満』って名前が付いているからって太っている訳じゃないんだからね!……まあ、そうすると体中の毛細血管が拡張されてショック症状を引き起こしてだな。その主な症状というのは……。」

と、簡単な口弁を垂れ流しながら、私は四苦八苦して藻掻いている守屋の顎を蹴り付けて俯せから仰向けへと無理矢理寝返らせた。

「まず、体表面の毛細血管が拡張される事で、表皮が紅潮、蕁麻疹等の発疹や炎症が起こる。こんな風にな。」

 私は彼の白いTシャツを捲って彼の紅くなった腹部を顕にした。

「次に、人によってまちまちだが、喉の粘膜が炎症を起こして息苦しくなったり、喘息の発作が止まらなかったり、ショック症状を起こしたり、腹痛や下痢を起こしたりするが、お前の場合は……。」

「うう……苦しい……。ゴホッゴホッ……。うっ!痛……っ!は、腹が……。」

 ギュルギュルギュル……ズババババ……。物凄い音と強烈な臭気を撒き散らしつつ、奴の股間の辺りが気味の悪い黄土色の液体によって染められていく。

「全部かよ!というより、他人の家で糞を漏らすな!うつけ者が!……まあ兎も角、血管が拡張して筋肉が収縮する事で、だんだんと気管支が狭められていき、どんどん息が苦しくなって最後には窒息とショック症状を起こして死ぬ。」

「せ……んせい……。た……助け……。」

「すまんなあ。助けてやりたいのは山々なんだが、生憎家には抗ヒスタミン剤もアドレナリン注射も強心剤も無くてなあ。諦めろ。」

「あ……ああ………………。」

 ガクッと頭を垂れて地面に打ち付けると、散々目の前で七転八倒していた守屋はピクリとも動かなくなった。

 死んだのかとも思ったが、脈はあるみたいだから辛うじて息はあるらしい。私は面倒臭く思いながらも、彼の為に救急車を呼んでやる事にした。


 彼を収容した病院からの連絡によると、どうにか一命を取り留めたらしい。私は詰まらんと思いながら電話を切った。

 その瞬間、私は背後から誰かに見られているような感覚に襲われた。恐る恐る背中の方を振り向いたが、誰も居やしなかった。

 当然だ。今やこの家には私しか居ないのだから……。


 工学部の1号館の6階にある私に割り振られた研究室、610号『製作物理学科金属加工形而下学・金属加工デザイン工学研究室』の中のデスクの上にあるパソコンの電源を切ると、私は部屋の電気を消して退室し、ドアを施錠した。そして、研究室のドアに貼り付けてある教員の出欠表に取り付けた白い円形のマグネットを手に取ると、

『桐生 和夫

在室中:

巡回中:

外食中:

帰宅:○

会議中:』

という感じに引付け直し、エレベーターホールに向かって実験設備が乱雑に置かれた暗い廊下を歩き出した。


 時刻は9時窓から見通す事が出来る下界は既に闇に包まれ、1km程離れた場所にある高層マンションの共用廊下の白い灯りがチラチラと瞬いている。

 もう殆どの人間が帰宅したからだろう。2基並んだエレベーターは両方共1階に停まっているようであった。

 エレベーターの『▽』のボタンを押すと、向かって左側のエレベーターがゆっくりと上の方へ上がって来た。

 2階……3階……4階……もうすぐ……5階……6階。

 チーンという妙に甲高い電子チャイムの音と共にエレベーターの扉がゴトゴトと軋みながら両側に向かって開き、煌々と真っ白に輝く蛍光灯によって明るく照らされた筐体が現れた。

 エレベーターに乗り込むと、私がいる『1』のボタンを押して扉を閉めた。だが、私が乗車した箱は私の意に反して最上階へ向かって真っ直ぐ上昇して行った。上の方にも帰宅を急ぐ人がいるのだろうか。そんな事を考えながら、私はエレベーターの赤いデジタル表示をじっと見つめていた。


 やがて、エレベーターは『RF』と表示された階でやっと停止した。

 一瞬こんな時刻に屋上に出ていた奴が居るのかと訝しみ掛けたが、ある事実に思い当たって私は若干恐怖した。


 あれ……、このエレベーターって屋上まで行けたっけ?


 私の記憶が正しければ、このエレベーターは最上階の15階までしか行けない筈だった。その15階にしたって、どの実験室も講義室も使用されておらず、昼間でも人の出入りが皆無な広大な物置と化している。こんな時間に人が居る訳がない。

 しかもエレベーターだけでなく、屋上に出入り出来る階段や出入口はこの建物に存在しない。


 普通なら行ける筈がない屋上。不審に思うよりも、長年この大学に勤めていても体験する事が無かった、ごく身近にあった未知の領域に足を踏み入れるという好奇心の方が勝ち、エレベーターの扉が開くと共に、私は外へ向かって一歩を踏み出した。


 それは黒褐色のコンクリートの地面に白色のコンクリートの1m程度の柵のような壁が四方を取り囲んだ、何の変哲もない屋上だった。

 エレベーターの扉が閉まり、足元を照らしていた白い灯りと自分の影が闇に飲み込まれた瞬間、私は背中に風が吹き当たるのを感じた。


 退路は絶たれた。もう前に進むしかない。

 顔を前に上げると、正面の突き当たった所にあるコンクリートの塀の上に、薄い桜色のパジャマを着た、おかっぱ頭で色白の可愛い少女がちょこんと腰を下ろし、どっしりと据わった瞳で私の方を凝視していた。

 彼女は、おいでおいでをするように掌を下にむけて指を広げたり閉じたりして前に伸ばしていた右腕を、まるでロケットパンチのように二の腕と肩の付け根から唐突に右腕を私の方へ飛ばし、私のズボンの裾をガシッと掴んだ。

 そして、まるで子供が父親に無邪気にせがむように、高性能の牽引機並の剛力で引き摺られるがまま、徐ろに私は彼女の方へ向かって歩みだした。


 肌と肌が触れそうな程近づいた時、両手で私の右腕を掴み直すと、とてもじゃないが笑顔とは呼べそうにない表情でニタリと不気味に微笑むと、突如彼女は仰け反るように背中から空中へその身を躍らせた。そして重石の力で引き上がるエレベーターの筐体のように、私の体も釣られてつんのめって左手を柵の上に付きながら上体を外に向かって乗り出した。

 意識の方は全く働かなくても、体の方は本能で危機を察知出来るのだろうか、私の身体は足を踏ん張って重心を下半身の後方へ移すように体重を掛けながら彼女に抗っていた。


 その時突然誰かが、それもかなり体格のいい大人の男が背後に現れたような気配を感じた途端、両の掌を付けて腕に力を掛けてグイっと押し出すように、そいつは私の背中に止めの一撃を加えた。

 頭から真っ逆様に地面に向かって自由落下をする刹那、私は確かに奴の声を聞いたような気がしつつ、暗冥とした闇の中に意識が飲み込まれていった。


「ザマアミロ……。」

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