冷ややかな願い
短冊を見ると、思い出すことがある。
というと、なんだか切ない子供時代の話であったり、悲しい病室の話であったり、あるいは幻想的なものを想像されるかもしれないが、僕のは、ちょっとしたホラーだ。
僕の大学時代の友人に、七海という男がいた。七海は見るからに好青年で、顔立ちも良く頭も切れ、スポーツもできた。かといって、常に集団の輪の中にいるわけでもなく、適度に一人でいることを好み、ミステリアスな雰囲気も醸し出していた。
ちょっと成績が良いことだけが取り柄で、常に周りに気を使ってヘコヘコ生きてきた僕にとって、七海はあこがれの存在だった。同じ研究室に配属になったときには、とびきり嬉しかったのと同時に、ちょっとした申し訳なさを覚えたくらいである。
僕は七海に追いつきたくて、とにかく研究に精を出した。真夜中の研究室には、いつも僕と七海だけが残り、それぞれ黙々とデータ整理をしていた。
そんなある夜、
「ちょっと缶コーヒー買ってくる。ブラックでいいか?」
こう、七海が話しかけてきた。僕は嬉しかった。七海は、一度会話を始めれば普通なのだが、基本的に七海から話しかけてくることは無いのである。僕と七海は、ささやかな信頼関係を結びつつあった。
「いや、一緒に行こう。眼が疲れた」
僕らは、暗い廊下を抜け、四号棟の自販機を目指した。自販機の前はほっとする明るさに満ちていた。
七海は小銭を取り出そうとポケットをもぞもぞと探っていたので、僕が先に買った。そして取り出し口に手を伸ばしたその時だった。
ぽと、隣に何かが落ちた。
僕は疲れた視線でそれを捉え、おそらく大きく目を見開いたことだろう。
藁人形。
タイル張りの床に落ちたそれは、手作りの小さな藁人形だった。七海はさっとそれを拾った。でも僕は間違いなく見てしまった。訊かずにいられない。
「え、何それ」
七海は僕を見ず、藁人形についたホコリを払っていた。訊いてしまってから、僕は急に怖くなった。藁人形などという不穏なものに対する怖さもあるが、七海との友情が終わるのではないかという懸念があった。
「みぃーたぁーなぁー」
七海は冗談っぽく云った。僕は慌てた。
「ああ、いやいや、ごめん。でもそれどうしたの? 誰か呪ってるの?」
僕はカラカラと笑い、不自然にならないように、と、それだけを意識して話していた。しかし、そんな意識と眠気が相まって、僕はしどろもどろになりそうだった。
「そ。後藤教授さ。死なないかなぁって。俺、アイツ嫌いだから」
七海は極めて自然に、何でもない事のよう返してきた。そして小銭を自販機につっこみ、甘い缶コーヒーを買った。へ、へぇ…とか云いながら僕は、自販機の横の壁に背中を預け、それを見ていた。
「でも七海がそんなことやるなんて、ちょっと意外だなぁ。工学部だし、生っ粋の無神論者だと思ってた」
七海はははは、と笑って返した。
「何云ってるの。俺は科学者だよ。こんなもの、本当に当たると思ってないさ」
「そ、そうだよね」
とはいえ、僕は不安を拭いきれなかった。七海とは、一体どういう人間なのか。それがまた分からなくなってきた。
「遊びだよ、遊び。あ、もしかして、木島って、こういうの信じるクチ? なら謝るけど」
「い、いや。工学部の人間が、呪いだ幽霊だなんて信じてるわけないさ」
僕は云う。
「ただ…その、あまり人前に見せないほうがいいかもしれない。気持ちの良いものではないし、中には信じてる人もいるだろうから…」
僕は精一杯、云った。七海は一瞬、冷静な顔になってから、すぐに笑顔に戻り、
「ま、そうだわな。今日は不注意だった。悪い悪い。気を付けマス」
そう云って缶コーヒーを飲んだ。
「それに後藤に見つかったら、カンカンに怒られそうだな」
七海は愉しそうに笑う。それから僕らは教授陣に対する愚痴だの、研究の事を話しながら部屋に戻り、しばらく解析を続けた後、帰宅した。
一週間後の深夜、後藤教授は亡くなった。
激しい交通事故だった。
僕はその事実を新聞の片隅に見つけ、雨の中、慌てて登校した。研究室の扉を開け放つと、七海は一人、奥のデスクで空き缶の山につっぷして眠っていた。
「七海! ニュース見た?」
僕は七海を起こし、事態を説明した。
「ああ、知ってるよ。学内でも結構話題になっているみたいだな。まあ厭なやつだったし、学生も本音は賛否両論だろう」
「いや、そうじゃなくて…」
僕は声をひそめながらも、語尾を強くして云った。
「藁人形! あれ、どうした?」
七海は僕の口許から顔を反らし、ぷっと噴き出した。
「おいおいおいおい、あんなもの本気にするなよ。ただのオマジナイだぜ」
「でも!」
「訴えるわけか? 証拠も無いのに?」
「責任は感じないの? そ、それに、みんなが知ったら、大変なことになるよ」
「責任なんて感じないね。あと、別にどう思われても構わない。そんな非科学的な話でぎゃあぎゃあ云う連中なんて、たかが知れてるさ。木島ってそういうクチだっけ?」
「違うけど…」
僕は云い淀む。
「でも、やっぱり、おかしいじゃないか。だって、効果が無いと分かってるのに、実践するなんて…」
「信じる信じない、やるやらない、なんて個人の自由だし、別の問題さ。信じないとやっちゃダメなのか?」
七海は両手を広げて、ニコニコしながら話す。その姿は、数学の問題を証明したときのようだった。
「ああ、もう、頭はいいのにな…。とにかく、もうやめたほうがいい」
「やなこった。でも、残念だよ、木島がそんな非論理的な事を云い出すなんて」
僕はふんぞりかえるように、七海と背中合わせの椅子に腰を落とした。
重苦しい沈黙が十分ほど過ぎた後、
「怒ってる?」
と、七海が少し気遣うような口調で話しかけてきた。七海から話しかけられたのは、これで二回目だった。
「ちょっとね…」
「まあ、確かに、さっきはちょっと云いすぎたかも。悪かったよ」
七海は云った。僕はそれを背中で聞いた。
「…良いんだよ。確かに正論なんだから…。それに、どうせ本心ではそう思ってるんだろ」
云うと、七海はふん、と鼻で笑い、深いため息をつき、頭をぼりぼりと掻いた。僕は、少しほっとして笑った。
「ま、僕の科学信仰、ひいては信念が甘かったんだ」
僕は自分に言い聞かせるように云った。
「そう云ってくれるのは、木島だけだ」
突然、七海がそんなことを云うので、僕は驚いた。
「どうした?」
「どうもしない。それより、コーヒー買いに行くか」
「うん」
僕らは気だるく立ち上がり、廊下に出た。すれ違う学生が、ときどき後藤教授の死について話していて、僕は再び複雑な気分になった。
「まだ、他にもやってるの?」
「ん?」
「黒魔術さ」
「ああ、そうだな。いろいろやってるよ。アパートの部屋が散らかってて、誰も呼べないな。ハハ」
七海はあっけらかんと答える。
「そっか」
「安心しろよ。今のところ、お前は標的にしていない」
「そうかい。ありがとう」
僕は笑う。
自販機の前に着いた。七海は速やかに百円玉を取り出すと、先に缶コーヒーを買った。
「世の中さ、いろいろ間違ってるよな」
僕がボタンを押すとき、七海がそう呟いた。
「人間なんて、死んでしまえばいいやつばっかりだ。政治家なんか特にそうだ」
そう話す七海は、憎しみと、哀しみと、諦めと、そしてどこか愛しいものを眺めるような、遠い視線を、外に向けていた。
「次の標的のこと?」
「ああ──」
僕は、誰かとは訊かなかった。七海の現世に対する怒りは、なんとなく理解できたし、それを止める術を僕は持たなかった。僕は耐えられず話題を変える。
「そういえば、明日、七夕だね」
僕は云いながら空を見上げる。空は重苦しい灰色だった。
「そうだな──。そういえば、三号棟に竹飾ってあったな。木島も、何か願い事でも書くのか?」
「うん…。別に信じているわけじゃないし、それが外れたからといってどうしようもないけど、願ったり祈ったりするのは勝手だしね。ちょっと、書いてみようかな…」
七海は、ふっと笑った。
「そっか。俺はどうするかなぁ…。他にもいろいろやってるから、別に明日じゃなくてもいいんだけどな」
僕らはコーヒーを飲み終え、歩き出した。
「でも、明日は、なんとなく叶うような気がするよ」
「お前も、とんだロマンチストだな」
僕らは笑った。
研究室に戻った僕は、引き出しの中に入っていた大きめの付箋、にこう書いた。
『彼女ができますように』
七海にも、彼女ができればいいのになぁ、などと余計な事を僕は考えながら、ペンを置いた。鼻歌交じりに、七海も何か書いたようだ。何を書いたのだろうか。また、ぎょっとすることを書いたのだろうか。
人間として生きる以上、時代や人のしがらみに苦しみ、それを呪いたくなる気持ちは避けられない。テレビから流れてくる悲惨なニュースを見るたび、腐った犯罪者たちを見るたび、人間なんてくだらない、と僕だって思う。まして七海ほどの研ぎ澄まされた人間なら、そんな想いも強いのかもしれない。
たぶん、誰だって、心の奥底に藁人形を持っているのではないだろうか。誰かを恨み、呪い、そしてそんな感情すら諦めている。人間、科学、呪術、どれとも一定の距離を取るそういう生き方は、非の打ちどころは無い。けれど、やはり、さびしい。
一年に一回だけの夜。この日くらいは、何もかも忘れて、本能的な、とても馬鹿っぽい願いをかけたい、と僕はそう思う。できれば、みんなもそうしてほしいと願っている。
深夜に二人で付箋を吊るしに行った。僕は何を書いたのか尋ね、案の定、七海は秘密と云い張った。僕はなんとなくむきになって七海の短冊を見た。
「あ」
僕は呟く。
『世界が永遠に平和でありますように』
汚い字で、太いマジックで、確かにそう書いてあった。七海は照れたような笑みを浮かべ、そっとそれを吊るした。僕らは何も云わず、幸せな気分で帰宅した。
翌日、七月七日の七夕は、大雨が降った。
研究室に来ると、七海は一人、無言で窓の外を眺めていた。
「ひどい雨だね」
僕は恐る恐る話しかけた。
七海はゆっくりと振り返った。
「ああ、そうだな」
そのときの七海の顔を、僕は一生、忘れない。
END
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