第一話 運命の歯車
あなたは、何の前触れもなく――それはまるで、僕があなたに会いたいと思う、息が詰まるような苦しみに耐えるために費やした時間を一挙に飛び越えてしまうほどの唐突さで現れた。
「いらっしゃいませ」
思わず声が上ずりそうになるのを堪えて、あなたを店に迎え入れた。
「こんにちは」
なんということのない、ただの挨拶――だけど、僕には特別なことだった。考えてみれば、そんなふうに挨拶を返してくれるような人間関係を、お店の客と持ったことはこれまでなかったのだ。それは、偶然、土曜日の夕方、いつもは18時から店に入る。だがこの日、昼出の人に頼まれて、早めに勤務交代したのである。
それを運がいいというのか、或いは自分が避けられていると気落ちするのか……そんな二元論では言い表せないような感情が内側からこみ上げてくる。これは偶然じゃない、なにかの必然。なにか特別な意味があるに違いない。
「こんにちは」
他に何も思い浮かばず、戸惑うより先に、そう口走っていた自分に驚く。あなたはどこか意外そうな――そうじゃない、不思議そうなというのが適切なのか――ともかく僕がたじろぐような、しなやかな身のこなしでカウンターに近づいてきた。一瞬僕は、期待をしてしまう。
「ごめんなさい。忙しくて来れなかったの」という言葉が、次に用意されているものだとばかり思った。でもあなたは、まるでそんなことを覚えていないかのようにただ僕の返却の手続きをぼんやりと眺めているだけだった。
耐え切れなくて、僕は思わず口にした。
「待ってたんですよ。美味しいたこ焼きを食べてもらおうと思って」僕は嘘をついた。勝手にあなたに期待をして、勝手に裏切られて、それで嘘をついて困らせよと思った。
「え?なんで……でも、そう、そうだったの」僕には何の考えもなかった。ただ、あなたを困らせようと思っただけで、次にどうするべきか、なにをするべきか、まったく思いつかないまま、あなたが借りたレコードの盤面をチェックしながら、どうにもあなたと視線を合わす事ができなかった。
「じゃあ、今度、埋め合わせしないとね」
一瞬、僕にはあなたが何を言っているのか理解できなかった。僕の中で時が止まる。僕の引き出しは空っぽで、どこを探しても、何もできやしない。言葉に詰まる僕をあなたは恐ろしく優しい笑顔で見つめている。僕の意地悪な挑戦をまるで気にしてはいないという態度であしらう。僕はあなたに負けてしまった。
「ねぇ、明日はバイト、何時までだっけ?」
「18時……夕方6時です」
「予定は?」
「え、ええ、どんなに遅くても6時半までは店を出るのにかかりません」
「じゃあ、6時半に……そうね、駅前でいいかな、それとも他にいい待ち合わせ場所ある?」
「あ、それなら、ファミレスとかなら、この店の前の道を、下っていったところにあるの、ご存知ですか?」
店の前の通りは緩やかな坂道になっていて、そこを下りきったところのそばに、高校生の頃からよくお茶をしていたファミレスがあった。それはまったくの行き当たりばったりなアイデアで、むしろ断られて別の提案が出てくるくらいの気軽なものだった。
「あ、あそこね。うちのすぐそばよ。あそこのチーズケーキ、そこそこ美味しいのよね。コーヒーはいまいちだけど。いいわ、じゃあ、店の前に6時半でいいかな」
今から思うと、二人の出会いや、いろんなことは、驚くべき偶然と奇遇――なるべくしてなったとしか思えないようなことが続くことになる。これはその最初の出来事だったのかもしれない。もしも、このとき、この場所でなかったら……僕の運命と、あなたの運命が交差したこの場所は、あと二月もすればなくなっていたのだし、僕とあなたが出会って、もし、すぐにあなたがこの店に現れたら、僕は運命など、信じなかったかもしれないし、それに抗うことをしたかもしれない。
動き出した歯車は、砕けて壊れてしまうまでまわり続ける。まるで運命の車輪のように。




