第五話 街の夜空
すべては思い通りに事が運ぶと思っていた。そんな淡い期待は、ひどく簡単に裏切られる。火曜日も木曜日も、彼女は現れなかった。最近では夜9時をすぎると2~3人しか客が来なかった。窓の外を歩く人波を、ブラインドの隙間から覗いている。彼女が通ったらわかるかどうか、正直自信がない。勤め先は錦糸町であることは、身分証明書を照会する時にチラリと見えた定期の行き先でなんとなくわかった。OLであれば、これまであったときのようなラフな格好とは違って、それなりに身なりを整えているだろうし、大人の女性と付き合った事がない僕にはまるで自信がなかった。自信がなかったけど、それでも僕は窓の外を歩くあなたの姿を想像しながら、髪の短い女性を目にすると、あなたではないと確信できるまで、その姿を追い続けた。
むなしく流れる音楽は、それがどんなに楽しげな曲であっても、僕をあざ笑うか、からかうようにしか聞こえない。どんなに一生懸命に思い出そうとしても、あなたの顔の細かい特徴や服装を思い出すことはできない。なぜなら僕はあなたの瞳に目を奪われて、ほかの事にはなに一つ注意が行かなかった。あなたの瞳と声だけが、僕を狂わせている。
店を占める時間になっても、僕の妄想は止まらない。あなたが閉店間際に飛び込んでくるのではないかと、そんな淡い期待を持って、いつもよりもゆっくり帰り支度をした。ちょっとした空気の流れで扉が揺れてドアの開閉を知らせるベルが小さく鳴る。一瞬のときめきと落胆は、諦めることをしない僕の心を揺さぶる。戸締りを確認して電気を消し、ビルの階段を下りる。外は思いのほか寒い。もう、冬はすぐそこまで来ている。道路のちょうど迎え側に屋台が出ている。美味しいと評判のたこ焼きは、そういえば、去年の今頃はよく食べていたなと思い出してはみたものの、あなたと屋台のたこ焼きを食べる事ができたら、どんなに楽しいだろうという救いのない妄想にまでたどり着いたときには、僕は、不機嫌になるしかなかった。
胸のポケットからKOOLを取り出す。当時BOXのタイプも発売されていたが、僕にはどうして違う味に思えて、紙のケースのものを愛煙していた。ミリタリーショップで買ったZIPPOライターのオイルの香りが好きだった。ZIPPOはベルトに専用のホルダーをつけて持ち歩いていた。タバコに火をつけ、首を縮ませながら下を向きながら歩く。時々タバコの煙が目に入る。ひどく顔をしかめながら、両手をジャンバーのポケットに突っ込みながら家路を急ぐ。
ふとあなたが借りたレコードのアーチスト、門あさ美のことを思い浮かべる。この二日間、彼女のアルバムを聴いてみたけど、何一つ自分の心に残るものはなかった。好きでもなければ嫌いでもなく、あなたと共有すべきものを何一つ見出す事ができなかった。だからなのだろうか?
だから、あなたは、現れなかったのだろうか?
週末になればあえるかもしれない。もし、今日か、その前の日にあなたがきたのなら、土曜日の夜にあなたとどこかに食事に行きたいと誘うつもりだった。そういう事が僕にできるかどうかわからなかったけど、あなたにだけなら、そういうことができるような気がしていたのに。
根本近くまで吸ったタバコを排水路に投げ込む。空を見上げると、うっすらと雲のかかった月が、頼りなさ気に浮いている。明るさもだが、三日月のようなシャープさもなければ満月のような狂おしさもない、半分になりかけの月だった。街の明かりが騒がしくて、星もどこか遠慮がちだ。都会の夜空には恋人と語り合うようなロマンスはなにもない。あなたはどんな夜の顔をしているのだろうか?無意味な信号を無視して、僕は歩く。なるべく街燈のすくない道を選んであるく。夜に忍び込み、自分がどれだけロマンティックになれるかを試すつもりで、星の見える人気のない街路地に身を隠す。そんなことであなたを感じることなどできないけど、それでも僕にはそうするしかなかった。あなたに会えなかったというその痛みだけでも、僕の心の中に刻み込みたかった。
親兄弟のいる暖かい部屋に戻ったとき、僕は、きっとあなたの面影を忘れてしまうに違いない。忘れることが嫌なんじゃない。そこに戻らなければならない自分を見つける事がどうしようもなく嫌だった。そう、僕には帰る場所がある。でも、僕のこの気持ちを共有できるはずもなく、だからこそ、帰りたくないと思うこともあるのだと、そういうことに気付いたのは、このときが初めてだったかもしれない。あなたと出会って、何もかもが変わり始めていた。




