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第四話 淡い想い

 火曜・木曜・土曜の午後と日曜の午前、これが当時のアルバイトのシフトだった。返却予定日によって、レンタル料金もかわってくる。旧作はだいたい1週間のレンタルだ。日曜日、彼女に会える可能性はきわめて低い。夜ならまだしも、日曜日は朝11時から夕方6時までの勤務。もし今日来店するとしても昨日と同じ時間だろうと思っていた。


「門あさ美……聴いたことはないんだよなぁ」

 門あさ美のコーナーを眺める。6枚のレコードがおいてある。もし、全部のレコードを借りるとして、それは一度に1枚とは限らず、場合によってはあと1~2回しか店に来ないかもしれない。そのタイミングで会える可能性はごくわずかのように思えた。諦めるつもりはなかったけが、それなりに妄想は膨らんだ。もしかしたら次に来たときには男を連れてくるかもしれない。あの時の洋服の感じだと、電車に乗って出かけた帰りというよりは近所の買い物の後みたいな少しラフな格好だった。あのときは、そういうことに頭が回らなかった。客の個人情報は見ようと思えば見ることができる。だけど、そういうことを今までしたこともないし、しようと思ったこともなかった。気にはなってどんな住所が書いてあったか思い出そうとしてみるものの、全く思い出せない。


「キクミって……珍しいといえば珍しいか」

 閉店が決まってから、週末の昼間は比較的常連のお客さんがまとめ借りをする事が多くなった。そういうことの妨げになら内容に、忙しい時間にはFMをかけっぱなしにしている。最近開局したFM横浜は、日本のラジオ局とは思えないような軽快なテンポで英語のジングル、流暢な英語で曲紹介をするDJ、まさにおしゃれを売り物にしていた。時々流れる交通情報が浮いて感じられるほどだった。


 夕方4時、ちょっとしたエアポケットのような時間、客足が途切れる。がらんとした店内に軽快な音楽が流れる。門あさ美でも聴いてみようか。そう思ってレコードジャケットを眺める。タイトルを見てもパッと思い浮かぶようなものはなかった。とりあえず今ここにある中で一番新しいのは『麗 u ra ra』門あさ美はいつも返却されたレコードを棚に戻すときに戻すところを間違えそうになる。そのくらいの印象しかない。


 カランカラーン


 不意に店のドアが開く。ドアが開いた事がわかるようにベルが備え付けてある。

「いらっしゃいませー」

 反射的に声を上げる。カウンターに戻ろうとする動作の中でお客さんを確認しようとして思わず声を上げそうになる。あなたは昨日よりもさらにラフな格好でそこに立っていた。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ、どうも」

 照れくさそうに挨拶をするあなたにもまして、きっと僕の表情は恥ずかしいくらいに笑顔が引きつっていたに違いない。怒ったり、泣いたりする感情を抑えることは簡単だけど、うれしいと行く気持ちを隠すのは、そもそも経験があまりないのだ。


「なんか要領がわからないうちにいっぱい借りるのヤダなって思って、昨日は1枚しか借りなかったんだけど、すぐに録音終わっちゃって……テープいっぱい買っちゃった」

 彼女の手には、僕が決して買いに行かない店のレジ袋に3本パックのカセットテープが入っていた。定価に近い、割高な買い物だが、この店で買うよりは少しだけ安い。


「あ、サクラ堂で買ったんですね。この辺ならキムラヤって店が一番安いですよ」

「えー、そーなの」

「あ、このことは内緒でお願いします。うちでもテープ扱っていますので」

 なんて可愛らしい笑顔なんだろう。いや、そうじゃない。彼女の顔そのものは、もしかしたら僕の好みじゃない。だけど、なんだろう、この不思議な感じ……


 たったこれだけの会話のやり取りで、僕はすっかりあなたの虜になってしまった。もちろんその時は気がつかなかった。まさか、自分かこういう形で誰かを好きになるなんて、まるで思っていなかった。


「門あさ美、お好きなんですね」

「うん、好きよ」

 その『好き』という言葉でドキドキしている自分が信じられなかった。

「すいません、僕不勉強で、門あさ美はまだ聴いたことないんです」

「そう、そうね、私もあんまり聴いたことないわ」

「え?」

「だから聴くの」

「このレコードはどうでした?」

「よかったわよ。でも、違うの。この曲じゃないの」

「あ、何か曲を探してるんですか?」

「そうなんだけど、はっきり覚えてないのよ、だから探してるの」


 それはまるで僕には歯が立たないような、まるっきり異質の存在だった。あなたの言葉は、その一つ一つがまだ見たことのないような宝石のような輝きを持っていた。もっともっと話をしたい。こんなふうに他人に興味を抱いたのは生まれて初めての経験だった。今までの恋とはまったく違うもので、僕はそのときそれを恋だとは気付かなかったくらいだ。


「バンドとか、やってるんですか?」

「あ、はい、でも、まだ、始めたばかりで」

「すごーい、バンドやっている人とか周りにいないから、興味あるわ。ギターとか弾いてるんですか?ギター?」

「いえ、僕はまだ、楽器は、ドラムを練習してるんですけど、今のバンドではボーカルを」

「えー、かっこいい。どんな曲をやるんですか」

「Tレックスとかわかりますか?」

「ごめんなさい、ちょっとわかんないかも。洋楽だったらスティービー・ワンダーとか、ビリー・ジョエルとかが好きです」

「スティービー・ワンダー良いですよね。僕も好きです」

「ね、いいよね、じゃあ、こんどゆっくりお話しましょう」

「はい、是非」

「バイトはいつ出てるんですか?」

「えーと、火曜、木曜、土曜の6時過ぎとあとは日曜日の朝から6時までです」

「そうね、じゃ、火曜か木曜日かな。じゃあね」

「ありがとうございました」


 話をしている間、僕はずっとあなたの瞳を見つめていた。こんなに誰かの瞳をじっと見つめたのは初めてだったかもしれない。それをつぶらというのだろうか?彼女の瞳は白い部分がほとんどわからないくらい、小さくて、でも、涙がこぼれ落ちそうなくらいに潤んでいる。あなたが出て行った後、僕は一人見せの中で小さな、小さなガッツポーズをとり、心の中で大きな声で叫んでいた。こんな自分の一面があるとは、いままで全く気付かなかった。それとも、僕が変わったのだろうか。そして次にあなたに会うまでの長い夜を過ごすことになる。それは予想をはるかに超える長く、長く、そして苦しい時間だった。



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