第八話 螺旋階段
雨に濡れた街を僕は白い息を吐き、うつむきながら歩いた。目の前に映る風景はすべて死んでいるようで、まるで温度も感じられなければ表情もなかった。世界が色あせていく様は、僕の心そのものなのか、或いは暗闇の中の映し鏡のように輪郭だけの世界に自分の身体半分を囚われてしまった不条理さを映し出した青写真のようであった。
紡ぐべき言葉も見つからなければ、断ち切るべき思いも、縫い合わせなければならない破れた心も僕は、持ち合わせていなかった。ただ、あなたの部屋に行くこと。玄関のドアをノックして、あなたが部屋から出てくるのを待つだけ。それしか考えることが出来なかった。そしてそのことがどんなことを意味すのかなど、まるで気にすることも出来なかった。ただ、こめかみに当てたピストルの引き鉄を引くまでの間の、僅かな瞬間を慈しむだけで、僕の心は満たされていった。
もう、終わりにしよう
そんなありきたりで、ありふれた、どこにでも転がっているようなチープな感情が僕を支配していた。白い息を吐くたびに僕の体温は奪われていくようで、それはそれで心地よかった。いっそ凍り付いてしまったほうが、痛みすらも感じないほどの無表情な残酷を受け入れることが、僕には必要だったのだ。
壊れてしまうなら……いっそ壊してしまおう
ところが僕は、あなたの住むアパートの前まで来るとすっかりと怖気づいてしまった。何をいまさら恐れることがあるのか。何をいまさらためらうことがあるのか。
あなたを 失いたくない
いや、そもそもあなたは僕のものでもない。失うことなど最初からないというのに。ないはずなのに。あるはずもないのに。いるはずもないあなたに、僕は……僕は……
ゆっくりと、それでも僕の足は止まることなくあなたの部屋へと向かう。それまでに僕が正気を取り戻すか、狂気を手に入れるのか、僕にはどうすることもできなかった。正面玄関を迂回し、駐車場から非常階段へと上ろうと上を見上げたとき、あなたの部屋のあるほうを向いたとき、そこにあなたは立っていた。
いるはずもないのに。会えるはずもないのに。
「ど、どうして……」
僕は自分で言って、おかしくなってしまった。自分で自分を笑うしかなかった。あなたは僕をいつから見つけていたのだろう。僕が気づくより、ずっとずっと前から僕を見ていたのだろうか。僕は不意に止まった足を再び前に運ぼうとした。一瞬のためらいを乗り越えて、僕が冷たい雨にさらされた冷たい非常階段の一段目に足をかけると、上のほうで階段を誰かが下りてくる気配がした。あなたは信じられない速さと静かさで螺旋階段を駆け下りてくる。僕は思わず、それに見蕩れてしまい中途半端な姿勢のまま、あなたが降りてくるのを待つことになった。
「キクちゃん、ごめん。オレ……」
あなたの耳に届くはずの声は、雨音と濡れた路面を走る車の音で掻き消された。僕は傘をたたみ、再び階段を上り始める。あなたは僕が階段を昇り始めたのと同時に降りるのをやめた。何がなんだか、考えるよりも先に、僕とあなたの距離はようやく会話ができる距離にまで近づいていた。あなたの表情を見るのが怖かった。僕はあなたの足――白いスニーカーを素足で履き、細いジーンズは、あなたの長い足をより長く――もちろん階段の下から見上げているという状況もそれを助長していたが、ため息の出るようなすらりと伸びた足から腰、そこで初めてあなたが傘を持っていることに気づいた。それは男物の傘だった。
「今日ね。傘を持っていかなかったの。そしたら、部屋まで送ってくれるって……ごめんなさい。わたし……」
押し殺したあなたの声、あなたの小さく、白い息の向こう側で動く口元は、僕の心の中の凍てついてしまった何かを一気に溶かし、止まってしまった時を一気に突き動かした。
「わたし、約束を――」
あたなの瞳が僕をどんな表情で見ているのか、それが怖くて僕は駆け出していた。持っていた傘を置き去りにしてあなたの立っている場所まで一気に駆け上がった。そしてあなたを抱きしめ、あなたの唇に僕の唇を合わせた。僕は強引にあなたの瞳を閉じさせた。
以外にもあなたの頬は冷たく、あなたの身体は僕と変わらないほどに冷えていた。まさか――
「も、もしかして、外で待っていたの?」
「きっと、来るんじゃないかと思って、電話を切った後、タバコを買いに行くって嘘ついちゃった。あー、嘘じゃないか。本当にタバコは買いに行くんだから」
「ごめん。どうしても、会いたくて……」
「いいのよ。でも、今日は、もう、だめだから」
ようやくあなたの目を見ることができた。僕はあなたの瞳の中に、何も見つけることができなかった。悲しみ、、憎しみ、哀れみ、怒り、慈しみ、喜び、安らぎ……僕の知っているようなものは、どこにも見つけることができなかった。僕にはそれがどうしても納得がいかなかった。
だから僕は――
「だ、だめ、やめて、こんなところで……だめだって。だめ……」
僕はあなたを愛撫した。舌を絡ませ、声が漏れないようにした。冷たい手であなたの身体を弄り、ジーンズのボタンをはずし、ファスナーをおろした。あなたは力なく抵抗し、僕は無理やりにあなたを犯した。
僕は、狂ってしまった。
息を殺したよな、それでも激しい息遣いは、白く立ち上り、暗闇に解けていく。僕は螺旋階段をすごい勢いで駆け上がるような悦楽にも似た苦しさに酔いしれ、その一方であなたの存在がどこか遠い存在になっていくのを感じていた。僕の目の前にいるあなたは、一体全体、誰なんだろう。
一瞬の高揚感の後の、どうしようもなく後ろめたいような、目眩のするような感覚に襲われながら、僕はあなたに見送られながらその場を去った。
僕は、狂ってしまった。
そうでなければ、僕は、僕自身を許せない気持で、やはり気が狂うしかなかった。
雨は、より激しく、より冷ややかに、僕の世界を打ちのめした。翌日あなたが僕に電話をかけてくれなかったら、僕はきっと、本当に狂ってしまったかもしれない。あなたはまるで何事もなかったかのように、振る舞い、僕もそれをよしとした。よしとするしかなかった。




