第七話 壊れたラジオ
近道はある。もちろんそれは高々1分に満たない程度のショートかとでしかない。駅からあなたの部屋まで大通りをそのまま行けば7分くらいかかる。急げば5分をきることはないが、6分かからない――しかし、雨である。僕のはやる気持をまるで逆撫でるように雨は無機質に僕の行く手をさえぎる。雨がというよりは、ゆるい坂道を下る道に色とりどりの傘が、弱弱しい街頭と白々しいネオンに照らされて不機嫌に行き交う中、僕はすり抜けられそうで、すり抜けられない人と人の隙間を、傘を斜めにしながら強引に追い抜かすしかなかった。
僕は 苛立っていた。
もしも雨が降っていなかったら、僕は走ってあなたの部屋の前まで行き――そしてどうしただろう? 怖気づいて引き返したか、あなたを裏切る勇気を持って、ドアをノックしただろうか?
そうならなかったことが、よかったのか悪かったのか? いや、やはり、結果は同じだったと、今はそう思える。
冷たい雨と、なかなか前に進まない苛立ちは、僕の衝動を駆り立てていた未熟な暴走をも鈍らせた。計らずして、僕は冷静さを取り戻した。僕はあなたの部屋には向かわずに公衆電話を探した。思い当たった電話ボックスはどこも使用中で、結局駅のほうへ少し戻ることにした。運よく――そのときはそう思った――眼の前でサラリーマン風の男が電話ボックスから出てきた。財布からテレフォンカードを取り出す。ボックスの中はタバコのにおいと酒の匂いに混じって雨に濡れたコンクリートの匂いがした。そのくらい、僕はすっかり覚めていた。そうなると少しばかり意地悪なことも僕の頭の中に駆け巡り始めた。
「もしも、キクちゃんが約束を破っていたら、僕だって守るものか。そのときは……」
どうしようもなく不誠実な思いは、屈折した愛の形によく似ていた。いや、最初から屈折していたのか、そもそもそれが愛なのか――それも すべて あなたがいけない。
「そしてこの雨と……」
ボタンを押す指の先は、雨で少し濡れていた。いや、最初からボタンが濡れていたのかもしれない。ともかく冷たくて嫌な感じがした。電話に出て欲しいのか、出て欲しくないのか。そして――
「Please , tell me your name?」
あなたの声――いや、電話の声。僕は思わず声を詰まらせ、そして緊張でふさがったのどをこじ開けるために、大きく息を吸い、咳払いをした。自分の名前を言おうとした瞬間、不意に受話器からカチャッと音がした。相手が――受話器を――とる音。
「もしもし――フー君?」
緊張は一気にほぐれる。身体が熱くなる。言葉を捜す。
「ごめんなさい。今は、ダメなの。ごめんなさい。後で電話するわ」
カチャッ
ツーッ ツーッ ツーッ ツーッ ツーッ……
雨は降り続ける。受話器を置く。OL風の女性が二人、僕の後ろに並んでいるのが、雨に濡れた電話ボックスの壁に映りこむ。どんな顔をしてここから出ればいいのかわからない。まずは、そこからだ。それから先のことは……考えられない。考えたくない。考えちゃ……いけない。
大きく深呼吸をして、バイトで接客をするときのような顔を自分のイメージの中で作る。どんなにそれが卑屈であっても、笑顔であれば、いい。ボックスに映りこむ自分お顔を思いっきり殴りたい衝動を抑え、そして下を向きながら電話ボックスをでた。
「お待たせしました」
自分の声が許せないほどに卑屈で、僕は大きな声で叫びだしたくなった。いっそ叫んでしまったほうが楽に違いないのだが、それを飲み込むしかないもどかしさに、思わず気分が悪くなり、胃の中のものをすべて吐き出したくなった。なんて惨めな酔っ払いなんだ。
「みんな、雨に打たれてりゃいい」
思わず頭に思い浮かんだ歌詞を口ずさんだ。同時にその曲のメロディーが僕の頭の中を支配した。ヴォリュームが壊れてしまったラジオのように、けたたましく鳴り響く音楽は、僕をどうしようもない狂気へと掻き立てる。僕の足は、あなたの住むアパートへと向かっていた。あなたと、そして彼がいるアパートへ。




