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第八話 愛という名の欲望

「ごめん。今日はこれで帰るわ」

「なんだよ。付き合い悪いじゃん」

「いや、ほら、ちょっと野暮用があって」

「なんだよ。女かよ」

「まぁ、そんなところ」

「いいなぁ。充実したキャンパスライフだねー」

「そんなんじゃねーよ」

「やっぱ大学生はちがうねー」

「だから、そんなんじゃないんだってば」


 高校の同級生と別れ、僕は公衆電話を探しながらあなたの部屋へと向かった。しかし、行くところ行くところ、公衆電話は使用中で、ようやく見つけた電話ボックスは、あなたの部屋から5分もかからない場所だった。電話をしようと財布からテレフォンカードを取り出そうとしたとき、ふとあるものが目に入った。

「これって、あの映画の……」

 テレフォンカード式の電話ボックスの中にはテレフォンカードの自動販売機が設置してあったりする。恋人たちは、数分ごと、長距離なら数秒ごとに減っていくデジタルの数字を眺めながら愛を確かめ合うのだ。カードを使い切ってしまうと電話は切れてしまう。未練でテレフォンカードを買い足す。金で時間を買うような罪深さはないが、会えない辛さは深まるばかりだというのに……

 テレフォンカードの自販機の中に見覚えのある絵柄があった。それはあなたが好きだと言っていた映画『哀愁』のテレフォンカード――僕は無性にうれしくなり、舞い上がった。


 きっとあなたは喜んでくれる。


 あなたを驚かせようと、テレフォンカードを買うと電話をしないであなたの部屋へと急いだ。階段を上り、あなたの部屋のドアの前に立ったところで急にある考えが、僕の足を止めた。


 もしかしたら、他に誰かがいるかもしれない。


 迂遠なことだ。他の誰かとは、結局のところ特定の誰かのことを示している――顔も名前も知らない男。僕は自分のうかつさに腹を立て、その場を立ち去った。道路からあなたの部屋を見上げる。暑いカーテンの向こうにうっすらと光が漏れている。あなたは部屋にいる。でも、あなただけとは限らない。そういうことだって、ありえるというのに……あたりを見回し、公衆電話を見つける。


「Plese tell me your name」

 あなたの声は、いつもと変わらない。僕は静かに名乗る。

「風間と申しますが、篠田季久美さまのお電話でよろしかったですか?」

 少しの間の後、あなたが電話口にでる。

「ふー君、どうしたの?こんな時間に」

「あ、よかった。もしかしたら、いないかと思った」

「……嘘でしょう?」

「えっ?なんで」

「うーん。なんとなく。近くまで来てるのかなぁって」

「すごいね。実はそうなんだけど、ちょっと今から会えないかな?」

「うーん。どうしようかなぁ……」


 あなたの声のトーンはどこかいつもと違って聞こえた。他に誰かがいるなら、たぶん電話にでないか、出てもよそよそしくしただろう。でも、そうではない。そうではないけど、いつもとは違っているような気がして鳴らなかった。

「ダメって言ったら、どうする?」

 ……思わず、言葉に詰まった。

「嘘よ。いいわよ。でも、もう遅いからあまり遅くまではダメよ」

「う、うん。わかった。すぐ行く」


 さっきまでの浮ついた気分はすっかり萎えてしまっていた。どんな顔をして会えばいいのかすら、僕にはわからなかった。どうにも、調子が悪い。玄関の一呼吸間を置いて、インターフォーンを押す。程なく扉から灯りがもれて、そこにあなたは立っていた。


「どうぞ、入って」

「うん。ゴメン、急にきちゃって」

 謝るくらいなら、来なければいいと、そんなふうに思われたのではないのか。自分で言っておいて、なんとも小心な!


 部屋の中は暖かく、それでいて何もかもが冷たく感じるような……そう、誰にも歓迎されていないような疎外感を感じた。そんなことはないと、あなたは優しく微笑みかける。

「どうしたの? こんな時間に」

「あぁ、実は高校の時の同級生と近くで飲んでたんだけど、これを――」

 僕の中で予定していた言葉をまるで知っていたかのように引き出すあなたに僕は戸惑いを覚えた。なにもかも見透かされているような惨めな気持ちになった。


 ほら。これ、すごいでしょう? ボクが見つけたんだよ。ねぇ、ボクのこと褒めてくれる?


「すごーい。こんなのあるんだぁ。よく見つけたわねぇ」

「なんかこれを見つけたら、すぐに見せたくなっちゃって」

「ありがとう。でも、良かったの?高校の同級生と久しぶりに会ったんでしょう?」

「ほら、浪人生もいるからさ。今日はそんなに遅くまで飲む予定じゃなかったから」

「そうなんだ。お酒は切らしてるのよ。どうする? コーヒーでいい?」

「うん。コーヒー飲んだら帰るね」

「そんなに慌てて帰らなくてもいいわよ。もう少しゆっくりしていけば?」

「うん。じゃあ、お言葉に甘えて」

「お湯沸かしてくるわね」


 あなたは『哀愁』のテレフォンカードを大事そうにタンスの引き出しにしまい、台所へ向かった。僕は暖かな部屋に一人取り残され、そしてあの人形たちの視線にさらされながら、意味の無い自問自答を繰り返していた。


 何をしにきた。僕は一体、ここに 何をしに来たんだ。あなたに会うため? あなたを抱くため? あなたに甘えるため? あなたを自分だけのものにするため?


 あなたに会うことができれば、それでいいと思っていた。でもそれは大きな間違いだった。僕の心の中におよそ理性の部分では制御できないような揺らぎが、言い知れぬ不安、底知れぬ渇望、ままならぬ思い――今まで経験したことのない感情が渦巻き、ほとばしり、あふれ出ようとしていた。


 苦しい。こんなにも苦しいものなのか? 誰かを好きになるということは こんなにも苦しいことなのか?


 僕はそのとき、その感情が何であるかを知らなかった。何であるかがわからなかった。知らなければ抑えることもできず、わからなければ開放することもできない。ただ、ただ、持て余すだけだった。


 とてもこのままじゃ帰れない。そんな漠然とした、散文的な、直感的なことでしか捉えようがない自分が嫌で嫌で仕方がなかった。


 でも、仕方がなかった。



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