第四話 螺旋
とはいえ、それはやはり、期待する気持ちが半分、或いはそれ以上だったにちがいない。理性ではなく本能がそれを懸命に下隠しに隠そうとしていたに違いない。
「期待して、裏切られるのは、いやだ」
子供っぽい、僕のそれは、きっとあなたに隠そうとしても隠し切れないような、見え透いたものだったに違いない。だけど、あの時の僕は、誰にも悟られることなく、誰にも知られることなく、僕する気付くことなく自分自身の邪な感情を抑え切れたと思い込んでいた。
「時間通りね」
彼女はやはり、身を隠すように、ファミレスの階段の踊り場で僕を待っていた――待っていてくれた。もしもあの時、あなたが別の場所で――そう、意地悪にも、身を隠して、僕の慌てふためく様子を伺おうと思っていたのなら、僕は恥ずかしさのあまりに叫びたくなるような衝動を、日に何度も覚えるようなトラウマを背負ったに違いないのだから。
「たこ焼き、冷めないうちに食べないと」
僕はまるでなんでもなかったような素振りで、右手に大事にぶら下げたレジ袋――決して中身がどちらかに偏らないように、慎重に運んできたたこ焼きの入った袋を両手に持ち替え、中身を覗き込むようなしぐさをした。彼女は、やはり、この前あったときと、それほど変わらない格好をしていたが、ただ一つ違っていたのは、スニーカーではなくサンダルだったことだ。彼女の住んでいるところはこの近所だと言っていたのは、本当のようだった。
あなたは階段を軽やかなステップで駆け下り、まっすぐ僕のほうに向かってくる――いや、飛び込んでくるような勢い――一瞬僕が怯みそうになる手前で、まるで重力や慣性の法則に逆らうような不自然な動きで、急に立ち止まり、僕が両手で持つレジ袋の中を覗きこんだ。
「うわー、おいしそう、アツアツのうちに食べないとね! 行こう!」
レジ袋から立ち込めるほのかな熱気とソースの少し焦げたような、甘く食欲をそそるような香りに混じって、あなたの香り――たぶんんそれは、シャンプーかコンディショナーの香りで初めて嗅ぐ香りではないが、僕をどきっとさせた。僕はどうやら、思った以上に匂いに敏感なようだ。
「こっちよ」
唖然とする僕を――たぶんそんな様子だったにちがいない――あなたは、またしても僕にはマネのできない身のこなしで、すっと、僕の横をすり抜け――そのとき、一番強くあなたの香りを感じた――気付いたときには、僕の背中が見える位置にあなたはいた。その行動はまさに僕の予測を裏切る行動だった。なぜなら、僕の背中の方向には、道はない。ファミレスの前を通る道を僕が来た方向に戻るのか、その先に行くのか。当然に僕はその先に向かうものだと思っていた。彼女の家はそんなに近いのか……
「この建物の3階なの」
「えー、本当に近いんだね。目の前だ」
「しーっ、ほら、他に住んでいる人の目とかもあるでしょう?」
「あ、そういうことね。了解、了解」
囁くような小さな声で、僕は答えた。でも、それよりもあなたの少しかすれた、小さく、押し殺した声は、どこか妖艶で罪深い気がした。僕の体の芯の近いところで、何かがゾワゾワとする感覚――それは今までに経験をしたことのないような、隠微で理性とは遠い存在のものだった。僕はそう、あなたの後姿を見ながら欲情をしていたに違いない。あの時、僕にはそれがどういうものなのか、皆目見当がつかなかった。他の誰かに対して、こんな気持ちになったのは初めてだったし、もしかしたら、最後だったのかもしれない。
階段を上るあなたの後姿を、僕は一生忘れることはないだろう。あの時覚えた、この感覚は消える事のない傷跡のように、僕の中に深く刻まれている。あなたの部屋は3階の角部屋、4階建てのアパートの、正面玄関からは一番遠く、そこから上がるよりも、駐輪場を横切り、非常階段から上ったほうが近かった。それに、そのほうが人目につかない。その階段は、微妙に周りからは死角になっている。灯りもやや薄暗い。二人の静かな足音が暗くなったばかりの闇夜に滑り込む。あなたの部屋の前に来たとき、ようやくに僕は心の中のざわめきを抑えることに成功した。
あのとき、螺旋階段を時計回りにまわりながら上って行くあなたは、一体何を考えていたのだろう?もしかしたら、あなたの中に、まだ、僕はいなかったのかもしれない。今の僕には、そう思えてならない。あなたと僕は、同じ階段を、同じように上りながら、実はぜんぜん違う空間を歩いていたのかもしれない。螺旋の中でたまたまめぐり合った二人の時間と空間。僕には突然すぎ、それはあなたにとって、どうだったのか?
今となっては知ることもできない。知りたいと、思わない。
あなたは僕の目の前から消えることはない。
だけど、二度と交わることのない時間軸の中で、永遠に螺旋をまわり続けるのだろう。
運命の歯車が音を立てて回り始める。想像もできないようなスピードで……でも、僕は、そんなことにも気付いていなかった。そう、僕は、まだ、なにもわかっていなかったのだ。あなたのことも、僕自身のことも……




