記憶容量が人より少ないため、大事なことしか覚えていられません。
「お嬢さんの記憶容量は、人より随分少ないみたいです」
魔法医師がそう告げた時、すとんと腑に落ちる感触がした。
これまで、物覚えが悪いと思われてきた。
生後まもない妹の名前を忘れていたり、家庭教師に習った貴族名簿を次の日にはすっかり頭から抜けていたり。
家の中でも覚えている人間とそうでない人間がバラバラだったり、とにかく忘れることが多かった。
それには理由があったと言われて、少しだけ気持ちが軽くなるようだった。
「その上で、どうも優先順位があるようですね」
「優先順位…?」
「ええ。記憶という器に入る量が決まっている。ですから、お嬢さんは無意識下で情報の選別をしているようなのです」
「選んでいる…?」
心当たりがなくて、首をコテンと傾けた。
無意識下なら、覚えがないのも当然だが。
「大事なものだけ残しているといった感じでしょうか。必要性が低いものから消していっているのでしょう。おそらく、関わりの少ない人間や些細な思い出なんかは優先度が低いのではありませんか?」
そこまで言われて、なるほどと思って頷いた。
妹に「あの時こうでしたよね?」と話されてもそんなことあったかしらと話についていけないことは、しょっちゅうある。
自分の侍女はわかるが、それ以外の使用人は名前が出てこないこともよくある。
時々、我が家の使用人なのかもわからなくなる。
だけれど、優先度が上がったことにより、記憶に残ったこともいくつかある。
生まれた直後に聞かされた妹の名前は忘れたけれど、自分の手で抱っこさせてもらえた日からはしっかり名前を覚えていた。
貴族名簿も父に怒鳴られて、明日までに覚え直してこいと言われたのがとても怖くて、翌日には全部暗記できていた、なんてこともあったくらいだ。
私の中で優先順位が高くなれば、再び残ることもあるという証明になった気がする。
「とはいえ、日常生活を送るにとても困難というわけでもないようなので、これまで通り生活していただいて問題ないと思いますよ。ただ、ご家族や周囲の方の理解があるに越したことはないかなと思いますね」
魔法医師は両親の方をしっかり見たあとに、私を見て誰にも気づかれない速さでウィンクしてみせた。
「まあ…!」と声に出さずに、口元に手を当てるだけにすると、魔法医師は笑ってくれた。
今まで物忘れで両親から怒られてきたことも、使用人から面倒がられていたことも、主治医にはお見通しだったみたいだ。
「毎日ご飯を食べることや寝ること、排泄するなどの基本的なことなんかは、忘れていないのでしょう?」
魔法医師の言葉に私は頷いたけれど、後ろで聞いている両親が息を呑むのが聞こえた。
「これ以上悪化したり、容量が小さくなったりしたらそれもあり得るかもしれませんが、まあ魔力脈を見る限りそれもなさそうですし」
「それならよかったです」
「いずれにしても、その記憶容量で日常生活を送れるのは、とても頑張っていることと思いますので、何かを忘れていてもあまり落ち込むことなく過ごしてくださいね。あなたはやるべきことはやっていますから」
魔法医師の言葉に、私は素直に頷いた。
背後にいる両親、特に父からは気まずい空気を感じて、これまで私を叱ってきたことを思い返しているのかな、と思った。
まあ、とても不出来な娘だとよく言われていましたし。
これで怒られる回数が減ると嬉しいですね。
「僕からは以上です。何か質問はありますか?」
「いえ、過去の自分との答え合わせができたようで、とても清々しい時間でした。ありがとうございました、先生」
「何かまた不安なことがありましたら、いつでもお越しくださいませ」
そう言われて、私は両親と診察室をあとにした。
よい先生に診てもらえました、とほっこりしたまま私は帰路についたのだった。
「…というわけですので、覚えていられる量が人より少ないとわかりました。以後、頭の片隅にでも入れておいていただけますと助かります」
久しぶりに会った婚約者にそう告げると、向かいに座る彼は瞬きしながら少しだけ首を傾げた。
目の前にいるのに、顔がぼやけて見えるのは気のせいかしら。
ああ、でも名前がわからない人って、顔を見てもわからないから、こんなふうにはっきり見えないこともあるわよね。
あまり会っていなかったせいもあるかも。
「よくわからないけれど、何か不都合があったりするの?」
「いえ、日常生活には問題ありません。ただ、記憶に残るものの優先順位があるだけです」
「ふーん。まあ、僕に直接何か関係するわけじゃないならいいよ」
「左様ですか」
目の前で優雅にお茶を飲む姿は、見覚えがある気がした。
私も気にせず、紅茶を飲んだ。
ああ、この香り、好きな紅茶だったわ。これも忘れていたのね。
そう考えると、私の中の優先順位の基準って、なんなのかしらね。
知っておいた方が、これから先役に立つかしら。
あ、でも、それも忘れることもある…?
「次のデートは、観劇でもいい?」
「はい、お気遣い感謝します」
「いえいえ、婚約者なんだからそれくらいはさせてもらいますよ」
爽やかにはにかんだ婚約者の顔は、少しだけはっきり見えたのだった。
「お姉様、今日はお出かけの日じゃなかった?」
妹に声をかけられて、読んでいた本から顔を上げる。
「そうだったのだけど、朝、早馬で手紙が届いて」
「婚約者様から?」
「ええ。妹君が熱を出したそうで、そばにいてあげたいから観劇は延期にしてほしいって」
「あら、そうだったんですね。この雨だし、家にいる方がよかったかもしれませんね」
「そうね。おかげで読みかけの本に気づけたから、よかったわ」
「……本を読みかけだと、忘れていたのですか?」
妹の困ったような顔で、そう訊いた。
私はなんでもないように、コクリと頷く。
「ええ。図書室でこの本を手に取ったら、たまたま読みかけの本だったの。私の趣味嗜好って、忘れてても変わらないのね」
「お姉様、ごめんなさい」
急に脈絡もなく謝られて、一瞬止まってしまった。
「…えっと、何が?」
「お姉様が忘れっぽいことにずっとイライラしてて、私…。全然覚えててくれないし。でも、それはお姉様のせいじゃなかったんだって、今すごいよくわかりました」
「自分でも何を忘れてるかわからないの。だからごめんなさいね、迷惑かけてたようで」
「覚えていないって、怖くないんですか…?」
そう訊かれると、どうだろうと頭の中が巡っていく。
怖い、とは違う。
はじめからなかったものでしかないから、気づけないのに、怖いも何もない。
ただ、覚えている人の世界に追いつくのが、ちょっと大変だなというだけで。
「私が忘れてても、誰かが覚えているならいいんじゃないかしら」
「じゃあっ、お姉様との思い出話は、私がいくらでもしますねっ…!」
妹は私の手を握って、真剣な顔でそう言った。
最近は年頃なのか、疎ましく思われていたのに、なんだか幼少期に戻ったように距離が近い。
私は、特に思い出なんかなくてもいいのだけれど。
「そう?ありがとう、私の代わりに覚えていてね」
「はいっ…!私は、忘れません!」
妹の目がうるうるしていた。
人の機嫌を逆撫でしない言い方は、ちゃんと覚えている。
今日もちゃんと使えたようだ。
忘れるって、そんなに悪いことかしら。
嫌な思いも辛かった記憶も、勝手に消えているから、静かだと思うのだけれど。
他の人の記憶って、そんなに頼もしいものなの?
「また、直前でお断りの手紙が来たんですか?」
妹が、私の代わりにプリプリ怒っている。
私はそれを見て、あはは…と苦笑いする。
婚約者からは前回の観劇キャンセルの埋め合わせをすると手紙をもらっていたのだが、今回も当日に行けなくなったと連絡が来た。
「今度はなんで行けないって言ってきたんです?」
「なんでも従姉妹が突然いらして、来客対応に追われているそうよ」
「ええ、なんですかその理由…。少しくらい調整したら、なんとでもなりそうな」
「あら、ご家族は大事でしょう?」
「それはそうかもしれませんけど。前回は妹、今回は従姉妹って、なんか都合いいっていうか」
妹がそう言うので、そういえば前回は妹君が…、どうしたんだっけ。
手紙を見れば思い出そうだが、手元にないし、わざわざ部屋に取りにいく気にもならない。
「まあ、今度は埋め合わせしてくれるのではないかしら」
「お姉様がいいならいいですけどぉ…」
妹はあれ以来、私とよく一緒にいるようになった。
本人には思うところがあるみたいで、罪悪感のようなものを感じているらしい。
そんなことしなくてもいいのに、と思う。
そのうち、それすらも忘れてしまうかもしれないから、いちいち気にしないでほしいというのが、今の私の考えだった。
それこそ埋め合わせをするように、姉妹の時間を取り戻そうとしている妹に、あまり現実味を感じなかった。
覚えていられるかわからないことをされても、あとで本当に忘れても、また怒らないでほしいなあという気持ちが強かった。
この気持ちは、いつのものだったかしら。
あら、また何かを忘れたのかしら。
でもまあ、昨日の家庭教師の授業はきちんと頭に入っているから、優先順位は保たれているのでしょうね。
そして、婚約者から手紙が届いた。
『申し訳ないのだが、幼馴染が事故に遭って骨折したらしい。見舞いに行きたいので、約束を延期させてほしい。何回もすまない。必ず、埋め合わせはするから』
見慣れない手癖の文字に、かろうじて覚えている差出人の名前。
「何回もって、そんなことあったのね」
不思議に思いながら、返事を書いた。
『どうかお気になさらないでください。幼馴染様のご回復、お祈りしています。』
簡素だが、これくらいでいいだろう。
この方とはまだそれほど仲を深めていないようだし。
婚約者って、確か大事なポジションの人だったわよね。
お忙しい方なら、私もその分勉強でもしておいた方がいいかしらね。
その日はそのまま、庭に出て本を読んでいた。
風が心地よく、外で読書をするのにもってこいの気候だ。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
今日は妹も出かけていて、一人穏やかに過ごせる。
「この本、前にも読んだ気がするわね。やっぱり勉強と違って、娯楽作品はどうにも記憶に残らないわねえ」
そんなことを言いながら、読み進めていると、突然影が差した。
顔を上げると、見知らぬ男性がいて、びっくりして硬直してしまった。
…不法侵入?いや、家の者が簡単に通すわけないし。
爽やかな青年は、しっかりとした服装で、高貴な方のようだった。
誰かの、お客様…?
何も言えずにいると、青年はにこりと笑いかけた。
「突然の訪問になってすまない。幼馴染が意外とケロッとしていたものだから、すぐにお暇してきたんだ。だから、先触れもなく、君のところに来てしまったんだけれど、大丈夫だったかな?」
「……」
「あ、ごめんね。やっぱり、怒っている?3回も約束を反故しておいて、僕もズルかったと思うけど、致し方なくて」
「……」
「…えっ、そんなに怒ってる!?今度必ず埋め合わせするよ!だから、許して?」
一生懸命話してくる人をぼんやり眺めながら、ようやく口を開けた。
「あの……」
「うん?」
「どちら様ですか?」
ブワッと風が吹いて、本のページが勢いよく捲れていった。
過ごしやすい外の空気とはまるで真反対のような、表情が抜け落ちた青年に、私は首を傾げるしかなかったのだった。
了
お読みくださりありがとうございました!!
236日目。




