8.名も無き者
白い天井。
乾いた薬草の匂い。
ゆっくりと意識が浮上する。
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(……ここは)
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知らない部屋。
知らない世界。
だが不思議と、混乱は爆発しなかった。
頭の奥に、薄い膜が張っているような感覚。
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身体を起こそうとして、止まる。
腕が重い。
痛みが遅れてやってくる。
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(俺は……)
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そこから先が、続かない。
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名前。
顔。
記憶。
掴もうとすると、霧のように散る。
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「目が覚めましたか」
静かな声。
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視線を向ける。
白衣の青年が立っていた。
王立医療院・治療術師
アシュレイ=ノルン
穏やかな性格。
人の不安に敏感な癒術士。
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「無理に起きなくて大丈夫ですよ」
「魔力疲労と外傷があります」
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魔力。
その単語は、なぜか理解できた。
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「……ここは」
掠れた声。
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「レグナス王国、王都グランディアです」
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王国。
王都。
言葉の意味は分かる。
だが実感がない。
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「あなたは召喚されました」
「勇者として」
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勇者。
その響きに、胸がざわつく。
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(勇者……俺が?)
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「名前は覚えていますか?」
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問いに、沈黙が落ちる。
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思考を巡らせる。
何かある。
確かにあったはずだ。
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だが。
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「……思い出せない」
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アシュレイは表情を曇らせない。
「記憶欠落は召喚時の負荷で稀に起きます」
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“稀に”。
慰めか、事実か。
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「生活知識や言語が保たれているなら重症ではありません」
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安堵させる声色。
訓練された優しさ。
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その時。
廊下が騒がしくなる。
金属音。
規律ある足音。
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「失礼する」
低い声と共に扉が開く。
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王国騎士団・第一席団員
ディラン=ヴァルク
若いが実戦派。
寡黙。
観察力に優れる。
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その腰には魔装剣。
ただの兵士ではない。
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「団長命令だ」
「勇者殿の能力測定を行う」
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能力。
測定。
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ディランは掌に魔力を集束させる。
淡い蒼光が灯る。
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「俺は《スキル保持者》だ」
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短い自己紹介。
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「固有技能《魔力視》」
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視界に圧が走る。
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「……見える」
ディランが低く呟く。
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「高密度魔力反応」
「しかも複層構造」
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アシュレイが息を呑む。
「複層……?」
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「通常は単一適性だ」
「だが彼は違う」
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ディランの視線が鋭くなる。
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「未覚醒スキルが複数、内在している」
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空気が変わる。
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「勇者候補どころじゃない」
「規格外だ」
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ベッドの上の青年は、その言葉を理解できない。
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ただ。
心臓の鼓動だけが早まる。
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(俺は……何者なんだ)
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窓の外。
王都の空に朝日が昇る。
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名前のない勇者。
物語だけが、先に動き出していた。
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(続く)




