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四つ葉の永光(クローバー・エバーライト) ―30年前の英雄たち―:アルケリア・クロニクル 外伝  作者: アズマ マコト


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EP8_聖域の休息

【14階層・安全地帯】


 石造りの回廊を抜けると、湿った冷気が肌にまとわりつく感触が変わった。

 腐臭と乾いた骨の匂いが支配していたアンデッドエリアとは異なり、ここには淀んだ水と苔の匂いが充満している。

 王都地下迷宮、中層第14階層。

 冒険者たちの間で「休息の間」と呼ばれる、迷宮内でも数少ない安全地帯の一つだ。


 アルフレッドはブーツの裏で濡れた石畳を踏みしめ、地図を広げたまま歩みを緩めなかった。松明の灯りが、彼の鋭い眼光を揺らめかせている。


「予定より三十分早い。このペースなら、休息を挟まずに15階層の入り口まで行けるな」


 その言葉に、背後で重たい金属音が止まった。

 大盾を背負い直したガンダルが、呆れたように息を吐き出す。


「おいおい、リーダー。正気かよ」


 ガンダルは親指で後方を指した。そこには、膝に手をついて、青白い顔で肩で息をするライナスの姿があった。スタミナ切れの一歩手前だ。先行して罠を解除し続け、なおかつ戦闘では撹乱のために走り回っていた代償である。


「俺の足はまだ動くがね、斥候様スカウトはもう限界だぜ。膝が笑ってやがる」

「……まだ、いける。足手まといにはならん」


 ライナスが強がって顔を上げるが、その声にはいつもの覇気がない。

 アルフレッドは眉をひそめ、冷徹に現状を分析する。15階層は「未踏破領域」への入り口だ。万全の状態でない者が一人でもいれば、それは全滅のリスクに直結する。だが、勢いというものもある。ここで止まれば、張り詰めていた糸が切れ、かえって疲労が噴出する可能性もあった。


「ライナス、ポーションで誤魔化せ。ここで止まれば時間を浪費する」

「しかしだな、アルフレッド」

「行くぞ。議論している暇はない」


 アルフレッドが踵を返そうとした、その時だった。


 ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 戦場には似つかわしくない、百合の花のような清廉な香り。

 次の瞬間、アルフレッドの視界が白い布で遮られた。いや、誰かが彼の前に立ち塞がったのだ。


「そこまでです、アルフレッドさん」


 セシリアだった。

 彼女は慈母のような穏やかな微笑みを浮かべている。だが、その青い瞳の奥には、先ほどスケルトンの頭蓋を粉砕した時と同じ、絶対的な「圧」が潜んでいた。


「セシリア、退け。我々は急いでいる」

「いいえ。急がば回れ、です。ライナスさんの魔力回路が悲鳴を上げていますし、ガンダルさんの大盾を持つ腕も、微かに震えています。そして何より――」


 セシリアは一歩踏み出し、アルフレッドとの距離を詰めた。吐息がかかるほどの至近距離。彼女は白魚のような指先で、アルフレッドの眉間をトン、と突いた。


「貴方のその眉間の皺。視野が狭くなっている証拠ですよ? 指揮官が焦っては、死ぬ必要のない場面で死人が出ます」


「……俺は冷静だ」

「いいえ。今の貴方は、獲物を追う猟犬と同じ目をしています。素敵ですけれど、休憩は必要です」


「素敵ですけれど」の語尾に、拒否権のない響きが含まれていた。

 ガンダルが後ろで「あーあ、聖女様のお説教モードだ。諦めろリーダー」と肩をすくめる気配がする。

 アルフレッドは数秒間、セシリアの揺るがない瞳を見つめ返し、やがて小さく舌打ちをして地図を閉じた。


「……一時間だ。それ以上は待たん」

「ふふ、素直でよろしい」


 セシリアは満足げに微笑むと、踵を返して広場の中央へと歩き出した。


 14階層の広場は、かつて地下水路の貯水槽だった場所らしく、ドーム状の天井が高く広がっている。モンスターの出現率は極端に低いが、ゼロではない。湿った地面に直接座り込むのは得策ではなかった。


「では、設営しますね」


 セシリアが広場の中央に立つ。

 彼女は着ていた純白の法衣の留め具に手をかけ、躊躇いなく肩口を寛げた。

 露わになったのは、透き通るような白い肌――そして、そこに刻まれた異様な紋様、聖痕スティグマだった。


 アルフレッドは目を細める。

 それは単なる刺青ではない。

 背中から肩、そして鎖骨にかけて、教会の秘匿された錬金術で生成されたインクで彫られた聖なる文様ホーリー・マーク。肌の白さとのコントラストが、背徳的なまでの美しさを放っている。聖職者が身に刻むには、あまりにも禍々しく、同時に神聖な「呪縛」の証。


「――聖域展開。『Santu Eremuサントゥ・エレム』」


 セシリアが祈りの言葉を紡ぐと同時に、彼女の肌に刻まれた刺青が、脈打つように黄金の光を帯び始めた。

 インクが肌の上を這い、質量を持った光の帯となって空中に浮き上がる。

 彼女の背中から剥がれ落ちた聖句の数々が、螺旋を描いて広がり、四人を包み込む半透明のドームを形成した。


 ブォン、と低い音が鳴り、結界が完成する。

 その瞬間、外界の湿気と腐臭が遮断され、結界の内部は清浄な空気と適度な温かさに満たされた。


「……相変わらず、とんでもない術式だな」


 ライナスがドサリと腰を下ろし、感嘆と呆れが混じった声を漏らす。

 通常の結界魔法ではない。触媒を使わず、術者自身の身体を「聖遺物」として扱う、教会独自の秘匿された技術であり、選ばれしバトルプリーストにのみ伝授される秘宝であった。


「便利でしょう? 少し肌寒いですから、温度調整もしておきました」


 セシリアは服を整えながら、何事もなかったかのように微笑む。

 だが、アルフレッドは見逃さなかった。術を発動した瞬間、彼女の顔が一瞬だけ苦痛に歪んだことを。自身の肉体を魔力の回路として酷使するその術は、決して無痛ではないはずだ。


「……身を削ってまで、我々を休ませたいか」


 アルフレッドが低い声で問うと、セシリアは携帯食料の包みを開けながら、小首を傾げた。


「削ってなどいませんよ。これは私の信仰、私の祈りそのものですから。それに――」


 彼女はライナスに水筒を渡し、ガンダルの強張った肩を軽く叩いてから、アルフレッドに向き直った。


「万全の貴方たちが見たいのです。未踏の闇を切り裂く、その一番輝く瞬間を。そのためなら、ほんの少しの痛みなど、安い対価でしょう?」


 狂信的とも取れる献身。だが、そこには確かな信頼と、彼女なりの「戦い」への美学があった。

 物理的な暴力で敵を粉砕し、自らの体を結界に変えて味方を守る。この矛盾した聖女こそが、アルフレッドのパーティを支える要石キーストーンなのだ。


「……分かった。感謝する」


 アルフレッドは短く礼を言い、結界の端に背を預けて座り込んだ。

 黄金色に輝く文字の壁の向こうには、どこまでも深い迷宮の闇が広がっている。

 だが、今はその闇も恐ろしくはない。


 ガンダルが鎧を緩めて欠伸をし、ライナスが瞑想を始める。

 静寂が満ちる中、アルフレッドは目を閉じた。

 一時間の休息。

 それが終われば、彼らは再び立ち上がり、誰も足を踏み入れたことのない深淵――15階層へと挑むことになる。


 セシリアの作り出した光の檻の中で、戦士たちは束の間の安息に身を委ねた。

 呼吸が整い、魔力が満ちていく。

 その静けさは、嵐が来る前のそれに似ていた。

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