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四つ葉の永光(クローバー・エバーライト) ―30年前の英雄たち―:アルケリア・クロニクル 外伝  作者: アズマ マコト


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EP2_街道の蹂躙者

【王都近郊・街道】


 地面が不規則に隆起し、馬車の車輪が軋みを上げるほどの振動が伝わってくる。

 風に乗って漂ってきたのは、鼻腔を突き刺すような強烈な腐臭だった。


 街道の先、森の木々をなぎ倒して現れたのは、異形の巨人たちだ。

 グール・オーガ。

 通常の食人鬼オーガではない。死してなお動き続け、腐肉を垂れ流しながら生者を貪るアンデッドの上位種。その数、およそ二十体。

 濁った眼球がぎょろりと動き、商隊を見つけた瞬間に歓喜とも飢餓ともつかない咆哮が空気を震わせた。


「ひ、ひぃ……ッ! 終わった、終わりだ!」

「護衛は何をしている! 逃げろ、食われるぞ!」


 商隊の御者たちが悲鳴を上げ、馬たちが恐怖に駆られて嘶く。

 絶望が伝染し、隊列が崩れかけたその時だった。


「――定義(Define)。座標固定」


 馬車の屋根から、冷徹な声が響く。

 アルフレッドだ。彼は眼下に迫る肉の壁を見ても、眉一つ動かしていない。その瞳には感情の色がなく、ただ冷ややかな演算の光だけが明滅している。

 彼が指先を僅かに持ち上げ、大気を掌握しようとした瞬間――。


「遅いよ、アル」


 鈴を転がすような少女の声が、戦場には不釣り合いな明るさで響いた。

 白い影が、アルフレッドの視界を掠めて飛び出していく。


 セシリアだった。

 聖職者の法衣を翻し、彼女は重力から解き放たれたかのように滑らかに地を蹴る。

 先頭を走っていた最大級のグール・オーガが、目の前に現れた小さな獲物を叩き潰そうと、丸太のような剛腕を振り下ろした。

 風圧だけで骨が砕けそうな一撃。だが、セシリアは避けない。


 彼女はふわりと、舞うように踏み込んだ。

 衝突の瞬間、柔らかな掌が巨人の手首に触れる。

 剛力が激突する衝撃音は生じない。彼女は敵の運動エネルギーを正面から受け止めず、流れる水のように軌道を逸らしたのだ。

 聖竜術――『流水ながれ』。


 巨人の拳が虚しく地面を叩き、その勢いのまま巨大な体躯が前のめりに崩れる。

 無防備に晒されたのは、腐肉に埋もれた胸部。魔力の脈動を感じる急所、コアの位置だ。


「そこっ」


 セシリアの右掌が、巨人の胸に吸い込まれるように押し当てられる。

 打撃ではない。浸透させる一撃。

 彼女が練り上げたのは、アンデッドにとって猛毒となる純白の『治癒ヒール』属性の魔力。

 破壊的な光の奔流が、掌から巨人の体内へと直接流し込まれる。


 物理的な破壊音はなかった。

 ただ、内側から何かが弾けるような、湿った振動が大気を揺らす。

 巨人の背中から、行き場を失った光の余波が噴出した。

 魔力の過剰注入により、肉体を維持する核そのものが分子レベルで崩壊を起こす。

 断末魔を上げる暇さえなく、巨人は糸が切れた人形のように崩れ落ち、灰となって風にさらわれた。


 後に残ったのは、何もかもが消滅した虚無だけ。

 本来ならば戦利品として残るはずの魔石さえも、跡形もなく微細な粉末と化していた。


 セシリアは振り返り、ぺろりと舌を出して小首を傾げる。

「あちゃー……またやっちゃった。力加減って難しいね?」

 その笑顔に、反省の色は欠片もない。ただ純粋な破壊の充足感が滲んでいる。


「……阿呆が」


 アルフレッドのこめかみに青筋が浮かんだ。

 彼は呆れと苛立ちを隠そうともせず、眼鏡の位置を指で押し上げる。

 戦利品の損失などどうでもいい。彼の美学を逆撫でするのは、その非効率的な時間配分だ。


「一匹ずつ相手をして、いつ終わらせるつもりだ? 僕の演算リソースを待機させるな」


 アルフレッドの視界が変貌する。

 思考加速オーバークロック

 世界の色が褪せ、時間の流れが泥のように重くなる。

 迫りくる残りのグール・オーガたちが、ただの数値の塊、処理すべきバグデータへと変換されていく。

 脳内で数千行の術式が組み上がり、最適解が導き出されるまで、コンマ数秒。


「まとめて消えろ」


 彼が紡いだのは、現代魔術の詠唱ではない。

 大気中のマナを強制的に従わせる、多重の古代語詠唱。


「水よ、膜となりて世界を覆え。雷よ、槌となりて鉄槌を下せ。――『Ura, Mintza Eta Tximista, Mailuウラ・ミンツァ・エタ・チミスタ・マイル』」


 第一工程、水膜展開。

 敵の群れの上空に、巨大な水の球体が出現し、弾ける。

 それは攻撃ではない。微細な霧となって数十体のグール・オーガを一瞬にして包み込み、その腐った皮膚を濡らした。

 導電率の確保。準備はそれだけでいい。


 第二工程、広域雷撃。

 アルフレッドが掌を握り込むと同時、空が裂けたような閃光が迸った。

 雷鳴が轟くよりも速く、紫電の蛇が濡れた巨人たちを駆け巡る。


 物理法則を無視した魔法の雷ではない。

 水膜によって極限まで抵抗値を下げられた肉体に、致死量を遥かに超える電圧が流れる物理現象だ。

 血液が瞬時に沸騰し、神経が焼き切れる。

 肉の焼ける凄まじい熱量と、大気がイオン化する際のオゾン臭が戦場を支配した。


 光が収束した時、そこに立っていたのは魔物の群れではない。

 炭化し、黒い彫像と化した物体の列だった。

 風が吹くと、それらはさらさらと崩れ去り、黒い砂となって街道を汚す。


 圧倒的な蹂躙。

 商隊の者たちは、助かったという安堵よりも先に、理解の範疇を超えた光景への畏怖に喉を凍らせていた。


「……ふん。これなら掃除の手間も省けるだろう」


 アルフレッドは冷ややかに言い放ち、まだ熱を帯びている指先の煤を払った。

 その表情は、難解な数式を解き明かした直後のような、どこか陶酔した恍惚を帯びていた。



 爆ぜた大気の余韻が、肌をピリピリと刺す。

 焦げた土の匂いと、急激に冷却されていくマナの気配。それらが混ざり合い、鼻腔の奥に独特の鉄錆のような感覚を残していた。


 アルフレッドはゆっくりと短杖を下ろした。

 先端に嵌め込まれた魔石が、明滅を繰り返しながら輝きを失っていく。まるで、激しい運動を終えた心臓が徐々に平穏を取り戻していくかのようだ。

 彼は小さく息を吐いた。肺の底に溜まった熱を、すべて外へ押し出すように。


「……ふぅ」


 額に手を当てる。

 熱い。物理的な熱ではなく、脳髄が直接摩擦熱を持ったような、鈍く重い感覚だ。

 術式の構築、座標の固定、威力係数の調整、そして発動。それらすべてを数秒のうちに並列処理した代償だ。脳内の回路がまだチリチリと音を立てて燻っている。

 計算通り。

 被害は最小限、敵性存在は全滅、護衛対象への損害はゼロ。

 完璧な仕事だ。だが、少しばかり出力調整にリソースを割きすぎたかもしれない。


「おいおい、嘘だろ……」


 背後から、呆れたような、それでいて不満たらたらの声が聞こえた。

 振り返るまでもない。相棒のガンダルだ。

 巨躯の戦士は、身の丈ほどもある巨大な戦槌を片手でぶら下げたまま、燃えカスと化した地面を見下ろしている。


「終わっちまったのかよ、アルフレッド」

「見ての通りだ。何か不満か?」

「不満も何も、俺の出番は? 槌の準備運動も終わってねぇぞ」


 ガンダルは鼻を鳴らし、わざとらしく槌を空中で一振りした。

 重厚な風切り音が、静まり返った街道に響く。

 本来なら、その一撃でモンスターの頭蓋を粉砕するはずだったのだろう。だが、今の彼の目の前に転がっているのは、アルフレッドの広域雷撃によって炭化した巨人の群れ――いや、正確にはアンデッド化した食人鬼グール・オーガの残骸だけだ。


「効率を優先した結果だ。お前が前衛で肉壁になり、槌を振り回して血飛沫を浴びるよりも、私が後方から一掃した方が早い。それに、商人の荷物に血がつくとクリーニング代を請求されかねないからな」

「けっ、インテリ様はこれだから困る。戦いってのはもっとこう、魂のぶつかり合いだろうが」

「それはお前の趣味だ。仕事に趣味を持ち込むな」


 アルフレッドは淡々と返し、こめかみを指先で揉んだ。

 ズキズキとした痛みが引かない。やはり、少し張り切りすぎたか。

 グール・オーガの群れは予想以上に数が多かった。二十体、いや三十体はいただろうか。通常なら前衛と連携して各個撃破するのがセオリーだが、商隊の馬がパニックを起こしかけていたため、一撃で片付ける必要があったのだ。

 結果として、広範囲雷撃術式を選択した。

 マナの消費量は許容範囲内だが、精神的な疲労感は否めない。


「ひ、ひぃ……」


 情けない声が足元から聞こえた。

 視線を下げると、護衛対象である商人の男が、荷馬車の車輪にしがみつくようにして腰を抜かしている。

 恰幅の良い腹が、荒い呼吸に合わせて波打っていた。顔色は青白く、額には脂汗がびっしりと浮いている。


「た、助かった……のか?」

「ええ、終わりましたよ。ご安心を」


 アルフレッドは営業用の薄い笑みを浮かべ、商人に手を差し出した。

 商人は震える手でその手を取り、何とか立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまってうまくいかない。


「す、凄まじい……。あんな魔法、見たことがない。あんた、ただの冒険者じゃないだろう?」

「過分なお褒めの言葉、光栄です。ですが、ただのしがない魔術師ですよ。少しばかり、勉強熱心なだけで」

「しがない魔術師があんな紫電を起こすか! いやぁ、高い金を払って護衛を頼んだ甲斐があったというもんだ。ガハハ!」


 商人は恐怖が去った反動か、急に饒舌になり、引きつった笑い声を上げた。

 現金なものだ。さっきまでは「もう終わりだ!」と泣き叫んでいたというのに。


「おい、旦那。俺のことも忘れてもらっちゃ困るぜ」


 ガンダルがドカドカと歩み寄り、商人の肩をバシッと叩いた。

 その衝撃で、商人は再び膝から崩れ落ちそうになる。


「ひぇっ!?」

「俺が睨みをきかせてたからこそ、アルフレッドが魔法に集中できたんだ。縁の下の力持ちってやつだぜ」

「は、はい、もちろんですとも! 戦士様のおかげです!」


 商人は必死に愛想笑いを浮かべ、ガンダルの機嫌を取る。

 ガンダルは満足そうに「わかってりゃいいんだよ」と笑い、腰の革袋から水筒を取り出した。


 街道に、平和な空気が戻ってくる。

 馬たちも落ち着きを取り戻し、御者が手綱を握り直して安堵の息を漏らしている。

 黒煙は風に流され、青空が再び顔を覗かせていた。

 鳥の声はまだ戻ってこないが、それは先ほどの爆音に驚いて逃げ去ったからだろう。


 アルフレッドは懐からハンカチを取り出し、眼鏡のレンズを拭った。

 曇りのない視界。

 計算通りの結末。

 すべては順調だ。


「少し休憩しましょう。馬も驚いていますし、私も……少々、頭を冷やしたい」

「おう、賛成だ。俺も喉が渇いた」


 ガンダルが水筒の栓を抜き、豪快に呷る。

 商人は「では、茶でも淹れさせましょうか」と媚びるように言った。


 完全に、空気が緩んでいた。

 誰もが武器を下ろし、警戒を解いている。

 敵は全滅した。周囲に見通しの悪い場所はあるが、これほどの火力を目の当たりにして近づく愚か者はいないはずだ。

 そう、誰もがそう思った。

 あるいは、そう思い込みたかったのかもしれない。


 アルフレッドはハンカチをしまい、ふと周囲の草むらに目を向けた。

 風が草を揺らしている。

 ただの風だ。

 魔力探知にも反応はない。

 ……いや、反応がないからこそ、妙な違和感がある。

 先ほどまでの戦闘の興奮が、脳のセンサーを鈍らせているのだろうか。

 賢者タイム――とでも言うべき、気だるげな無防備さが、アルフレッドの思考を支配していた。


 その時だった。


「――今だッ!」


 裂帛の気合いと共に、街道脇の背の高い草むらが一斉に弾けた。

 風の音ではない。

 明確な殺意を持った、複数の影が飛び出してくる音だ。


「なっ……!?」


 ガンダルが水筒を取り落とす。

 商人が「ひぃっ!」と悲鳴を上げて馬車の陰に飛び込む。

 アルフレッドは反射的に杖を構えようとしたが、指先が一瞬、遅れた。脳のクールダウンが完了していない。思考と肉体の伝達に、コンマ数秒のラグが生じる。


 現れたのは、薄汚い革鎧をまとった男たちだった。

 手には錆びた剣や、手入れの悪い槍。

 盗賊団だ。

 だが、ただの野盗ではない。彼らの目には、異様なまでの確信と、歪んだ希望の光が宿っていた。


「魔法使いはガス欠だ! あんな大技、二度は撃てねぇ!」


 先頭に立つ男――おそらく頭目だろう――が、汚い歯を見せて叫んだ。

 その言葉は、彼らにとっての絶対的な真理のように響いた。


「デカブツは油断してる! 囲め! 殺れ!」

「ヒャッハー! 荷物はいただきだ!」


 致命的な誤解。

 あるいは、願望に基づいた楽観的な推測。

 魔法使いは強力だが、大魔法を使った直後は動けなくなる――それは、おとぎ話や三流の講談師が語る冒険譚の中では常識かもしれない。

 だが、現実は違う。

 プロの魔術師が、マナ切れを起こすほどの無茶な配分をするわけがない。

 そして、ガンダルという戦士が、水筒を落とした程度で隙を晒すような男ではないことも。


 しかし、彼らは止まらない。

 自分たちの勝利を信じて疑わないイナゴの大群のように、殺到してくる。


「……やれやれ」


 アルフレッドは眼鏡の位置を直し、小さく溜息をついた。

 頭痛はまだ残っている。

 だが、それは魔法が使えない理由にはならない。

 ただ、少し面倒なだけだ。


「ガンダル」

「おうよ」


 隣で、野太い声が響く。

 地面に落ちた水筒から水がこぼれ、乾いた土に染み込んでいく。

 その横で、巨漢の戦士は獰猛な笑みを浮かべていた。

 それは、獲物を見つけた肉食獣の笑みであり、ようやく訪れた「仕事」への歓喜の表情だった。


「計算違いが一つあったな、アルフレッド」

「何だ?」

「俺の出番、まだあったみたいだぜ」


 ガンダルが戦槌を握り直す。

 筋肉が膨張し、血管が浮き上がる。

 盗賊たちは、まだ気づいていない。

 自分たちが飛び込んだのが、無防備な羊の群れの中ではなく、飢えた狼の口の中であることに。


 静寂は破られた。

 弛緩した空気は、瞬時にして鉄の匂いを孕んだ緊張へと反転する。

 だが、それは恐怖によるものではない。

 一方的な蹂躙劇の幕開けを告げる、無慈悲な合図だった。

 先陣を切った盗賊の男が、裂帛の気合いと共に長剣を振り下ろした。

 狙いはガンダルの首筋。鎧の継ぎ目、兜と胴鎧の隙間という、重装歩兵にとっての急所を的確に突いた一撃だった。速度も踏み込みも、並の兵士ならば反応すらできずに絶命していただろう。彼らはただの野盗ではない。戦い慣れた脱走兵か、あるいは傭兵崩れだ。


 だが、その鋭い一撃は、鋼鉄の山に触れた枯れ枝のように無残な結末を迎えた。


 硬質な音が、鼓膜を劈くように響き渡る。

 ガンダルは一歩も動いていない。回避行動すら取らず、ただ首をわずかに傾け、肩の装甲で刃を受け止めただけだ。

 火花が散り、盗賊の長剣が半ばからへし折れる。折れた刃先が回転しながら空を舞い、乾いた土の上に突き刺さった。


「な……っ!?」


 男が目を見開き、痺れた手で折れた剣を凝視する。

 ガンダルの全身を覆うフルプレートアーマーは、ただの鉄塊ではない。彼の体内を巡る膨大なマナが、血管のように鎧の隅々まで循環し、物理的な硬度を概念的な領域にまで引き上げている。それは「戦士のマナ循環」と呼ばれる、一流の前衛職のみが到達できる領域。生半可な刃物で傷をつけることなど、岩盤を爪で削ろうとするに等しい。


「いい太刀筋だ。だが、軽すぎる」


 ガンダルが低く唸る。その声は、深淵から響く地鳴りのようだった。

 彼は右手に握った戦槌を、まるで小枝のように軽々と持ち上げた。巨大な槌頭はそれ自体が凶悪な質量を誇る鉄塊であり、刃の鋭さよりも、その重量で対象を圧壊させるために存在している。


「次はお前の番だ。受け取れ」


 横薙ぎの一閃。

 それは武術というよりは、災害に近い暴力だった。

 盗賊が咄嗟に折れた剣と盾を構えるが、何の意味もなさなかった。戦槌は盾ごと男の腕を粉砕し、そのまま胴体へと食い込むことなく、強烈な運動エネルギーですべてを吹き飛ばした。

 肉が潰れる湿った音と、骨が砕ける乾いた音が重なり合う。男の体はボロ雑巾のように宙を舞い、後続の盗賊たちを巻き込んで石畳の上を転がっていった。地面が揺れ、土埃が舞い上がる。


 圧倒的な質量差。

 眼前の光景に、殺到していた盗賊たちの足が止まる。

 だが、彼らが恐怖を抱く暇すら与えない影が、すでにその懐へと滑り込んでいた。


「よそ見はいけないな。解体作業の邪魔になる」


 戦場の喧騒を縫うように、ライナスが駆ける。

 彼の手には湾曲した二本の短剣。だが、彼がそれらを振るう様子は見えない。ただ、盗賊たちの間を風のようにすれ違っていくだけだ。

 剣戟の音はない。

 あるのは、弦楽器の弦が切れるような、微かな断裂音だけ。


 一人の盗賊が、ガンダルに向かって踏み込もうとした瞬間、足首から力が抜けて膝をついた。

「あ……?」

 男が自分の足を見る。アキレス腱が、正確無比に断ち切られていた。痛みを感じるよりも先に、身体機能が奪われる。

 支えを失った体が傾くと同時に、今度は手首の腱が弾けた。握っていた武器が手から滑り落ちる。

 鮮血が噴き出すことはない。ライナスの刃はあまりに鋭く、そして速すぎて、血管が切断されたことを認識するのに遅延が生じているのだ。


 ライナスは立ち止まらない。

 踊るように、流れるように、次々と獲物の「機能」を奪っていく。

 腱を、神経を、筋肉の結束点を。

 命を奪うのではなく、人間という構造物を解体していく作業。彼の通り過ぎた後には、五体満足でありながら指一本動かせなくなった男たちが、芋虫のように地面に転がることになる。


「ひ、ひぃ……ッ! なんだこいつら! 化け物か!?」


 後方にいた盗賊の一人が、悲鳴を上げて後ずさる。

 勝てるわけがない。本能がそう告げていた。

 だが、逃げようと背を向けたその先に、女神のような微笑みを浮かべた聖職者が立っていた。


「あら、もうお帰りですか? せっかくですから、少し休んでいかれませんこと?」


 セシリアだ。

 彼女は純白の法衣を風になびかせ、手には六尺棒を握りしめている。その先端には、神々しいまでの光が宿っていた。

 回復魔法の光だ。だが、その輝きはどこか歪で、禍々しい圧力を孕んでいる。


「癒やして差し上げますわ。貴方たちのその、愚かな闘争心を」


 盗賊が剣を突き出すよりも速く、セシリアの六尺棒が男の鳩尾にめり込んだ。

 肋骨が軋む感触。男が苦悶の声を上げようとした瞬間、体内に温かな光が満ち溢れた。

 痛みがない。

 折れかけた骨が繋がり、打撲した筋肉が瞬時に修復されていく。

 治った、と思った次の瞬間、男を襲ったのは想像を絶する「飢餓感」だった。


「が……ぁ……?」


 力が、入らない。

 指先が震え、視界が白く霞む。

 セシリアの行う「回復」は、対象の生命力を活性化させ、細胞分裂を強制的に加速させる術式だ。傷を治すためのエネルギーは、当然ながら患者自身の肉体から徴収される。

 打撃で破壊し、即座に治癒する。

 それを繰り返せばどうなるか。

 肉体は蓄えていたカロリーとスタミナを瞬く間に消費し尽くし、ガス欠を起こしたエンジンのように停止するのだ。


「まだですわよ。罪を償うには、もっと『回復』が必要ですわね」


 セシリアは慈愛に満ちた瞳で、崩れ落ちそうになる男の襟首を掴み上げた。

 そして、再び六尺棒を振り下ろす。

 肩を砕き、治癒する。

 膝を砕き、治癒する。

 無限に続く破壊と再生のサイクル。それは死よりも恐ろしい、生きたままの地獄だった。


「腹が……減っ……て……」


 男の頬がこけ、眼窩が窪んでいくような錯覚さえ覚える。

 極限の低血糖状態に陥った盗賊たちは、傷一つない健康体でありながら、餓死寸前の老人のように枯れ果て、次々と意識を手放していった。


 戦場を支配していたのは、鉄の匂い、そして異様なまでの静寂だった。

 叫び声すら上がらない。

 ガンダルの一撃は声を上げる暇を与えず、ライナスの刃は悲鳴の元を断ち、セシリアの慈悲は声を出す力さえ奪い去った。


 数分も経たないうちに、街道には動く者の姿が消えた。

 累々と横たわる盗賊たちの山。

 死者はいない。だが、誰一人として自力で立ち上がれる者はいなかった。


「……終わったか」


 アルフレッドが眼鏡のブリッジを押し上げる。

 結局、彼が魔法を行使する必要は一度もなかった。杖を振るうことさえなく、ただ戦況を眺めていただけだ。


「物足りねぇな。準備運動にもなりゃしねぇ」


 ガンダルが戦槌についた血糊を、気絶した盗賊の服で無造作に拭う。その表情には、まだ暴れ足りないという不満が滲んでいた。


「無駄口を叩いている暇があったら、馬車を出す準備をしてくれ。死体がない分、片付けの手間は省けたが、これ以上ここで時間を浪費したくない」


 ライナスが短剣を鞘に収めながら、冷淡に告げる。

 セシリアは倒れ伏した盗賊たちの間を歩き、満足げに頷いていた。


「皆さん、とても良い患者様でしたわ。これなら王都の衛兵に引き渡すまで、大人しくしていらっしゃるでしょう」


 彼女の足元で、一人の盗賊が虚ろな目で痙攣している。その顔には、二度とこの女には逆らうまいという、魂に刻まれた恐怖が張り付いていた。


「行くぞ。頭痛が悪化しそうだ」


 アルフレッドが短く吐き捨てるように言い、馬車へと踵を返す。

 彼らにとって、これは英雄的な戦いでも何でもない。

 ただの、道端の石ころを退ける作業に過ぎなかった。

 Sランクパーティー『四つ葉の永光』。その理不尽なまでの実力を、街道の静寂だけが知っていた。

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