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水位

掲載日:2026/01/17

六月の半ばを過ぎた頃から、部屋の中が少しだけ重くなったような気がした。

 重い、というのはあくまで感覚的なもので、実際に気圧計を持ち込んで測ったわけではない。ただ、朝起きて布団から出る動作や、湯を沸かすためにやかんを持ち上げる手ごたえが、以前よりもわずかに粘り気を帯びているように思えるのだった。

 私の住む集合住宅は、駅からバスで十五分ほど離れた丘陵地にある。昭和五十年代に建てられた四階建ての建物が、十数棟、緩やかな斜面に沿って並んでいる。外壁はかつて白だったのだろうが、今は薄墨を刷いたような灰色にくすんでいて、ベランダの手すりには錆が浮いている。私が暮らすのは三階の一室で、間取りは和室が二つに板張りのダイニングキッチン。一人で住むには広すぎることもないし、狭すぎることもない。

 引っ越してきたのは三年前の春だった。それまでは都心の小さなマンションに住んでいたが、勤めていた出版社を辞めてフリーランスの校正者になったのを機に、家賃の安いここへ移り住んだ。

 窓を開けると、団地の敷地内に植えられた欅や桜の木々が見える。夏が近づくと、緑の色が濃くなり、蝉の声が降るように響く。けれど、その年は蝉の声がどこか遠くに聞こえた。まるで、部屋と外との間に、目に見えない透明な膜が一枚張られているようだった。

 最初に違和感を覚えたのは、仕事机の上のことだった。

 ゲラ刷りの紙が、湿気を含んでくたりとしていた。梅雨時だから仕方がない、と思った。除湿機をつけようか迷ったが、肌に触れる空気そのものは、それほど不快な蒸し暑さではなかった。ただ、紙だけが重い。赤鉛筆を走らせると、芯先が紙の繊維にひっかかり、線が滲んだように太くなる。

 休憩しようと立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出した。グラスに注ぐと、すぐに表面が結露した。水滴が滑り落ちて、コースターに吸い込まれていく。その様子をぼんやりと眺めていた。

 ふと、耳鳴りのような音がした。

 高い金属音ではない。もっと低い、柔らかい音だ。

 とぷん。

 そんな音が、背後のどこかで聞こえた気がした。

 振り返ったが、そこには食器棚と、その横に置かれた分別用のゴミ箱があるだけだった。シンクの蛇口を確認したが、水漏れはしていない。冷蔵庫のコンプレッサーの音だけが、低く唸っていた。

 気のせいだろうと思い、再び机に向かった。けれど、その日の夕方、また同じ音がした。

 とぷん。

 今度は、もう少し近くで聞こえた。まるで、部屋の隅に置いたバケツに、水が一滴落ちたような音だった。もちろん、そんな場所にバケツなど置いていない。

 一週間が過ぎた。

 湿度は下がらなかった。むしろ、部屋の中の「水位」とでも呼ぶべきものが、徐々に上がってきているような感覚があった。

 呼吸をするたびに、肺の中にしっとりとした粒子が入ってくる。それは不快なものではなく、むしろ少し甘いような、懐かしい匂いがした。古い井戸の底や、雨上がりの苔の匂いに似ていた。

 仕事をしていると、指先がふやけたように白くなることがあった。風呂に入っているわけではないのに、指の腹に細かい皺が寄り、皮膚が柔らかくなる。キーボードを叩く感触が、ゴムまりを押しているように頼りない。

 水音は、頻繁に聞こえるようになっていた。

 とぷん、という音だけではない。さらさらと何かが流れる音や、ぴちゃりと平らな面を叩くような音も混じるようになった。音の出処を探して部屋の中を歩き回ったが、特定はできなかった。私が近づくと音は止み、離れるとまた背後で鳴り始める。

 それはまるで、私の視界の死角を選んで、水が遊んでいるかのようだった。

 ある晴れた日の午後、隣に住む江田さんに会った。

 江田さんは六十代の女性で、旦那さんと二人で暮らしている。ゴミ集積所の前でばったり顔を合わせると、彼女は日傘をさしながら、愛想よく話しかけてきた。

「暑くなりましたねえ。こうお天気が続くと、ベランダの植物の水やりが大変で」

 彼女の言葉に、私は少し首を傾げた。

「お天気、続いてますか」

「ええ、もう三日も雨が降ってないでしょう。空気が乾燥してるから、喉が渇いて仕方がないわ」

 私は空を見上げた。確かに雲ひとつない青空が広がっている。日差しは強く、アスファルトからは陽炎が立ち上っていた。

 けれど、私の肌には、まとわりつくような湿気が残っていた。髪の毛もしっとりと濡れているような感触がある。

「私の部屋、なんだかすごく湿気があって。カビが生えないか心配なんです」

 そう言うと、江田さんは不思議そうな顔をした。

「あら、そう? 三階は風通しがいいはずだけど。お風呂場の換気扇、壊れてるんじゃない?」

「そうかもしれません」

 私はあいまいに笑って、話を合わせた。

 江田さんのブラウスは、乾いた風を受けてさらさらと揺れていた。私の着ているTシャツだけが、汗でもない水分を含んで重たく垂れ下がっている。

 江田さんと別れて階段を上る途中、踊り場の壁に、大きなシミができているのに気づいた。形は魚のようにも見えるし、人がうずくまっているようにも見える。手を触れてみたが、壁は乾いていて、ざらざらとしたコンクリートの感触しか返ってこなかった。

 部屋に戻ると、水音はいっそうはっきりと聞こえた。

 今度は、ひたひた、という音がした。

 誰かが濡れた足で、畳の上を歩いているような音だった。

 私はダイニングの椅子に座り、文庫本を開いた。文字を追おうとするが、行間が揺らいで見える。まるで水底から水面を見上げているように、視界がゆらゆらと歪んでいた。

 怖さはなかった。

 ただ、静かだな、と思った。

 外では子供たちが遊ぶ声や、スーパーの宅配トラックが通る音がしているはずなのに、それらはすべて分厚いガラス越しのように遠く、くぐもって聞こえる。部屋の中にある音――水音だけが、鮮明だった。

 ひた、ひた。

 音は和室の方から近づいてくる。

 襖は開け放してある。そこには誰もいない。ただ、畳の色が以前よりも濃く、青黒く沈んで見えた。

「そこにいるの?」

 私は声に出してみた。

 返事はなかった。代わりに、コップの水が揺れるように、空気が震えた。

 私は台所へ行き、やかんに水を入れて火にかけた。コーヒーを淹れようと思った。ガスコンロの青い炎を見つめていると、炎の形がいつもより長く、ゆらりと伸びているように見えた。

 沸騰したお湯をドリッパーに注ぐ。粉が膨らみ、香ばしい香りが立つはずだった。けれど、漂ってきたのは、川底の泥のような、生臭くも青臭い匂いだった。

 私はカップに口をつけるのをやめ、そのまま流しに捨てた。茶色い液体は渦を巻いて排水口に吸い込まれていったが、その音さえも、ごぼごぼではなく、とぷん、とぷん、という柔らかい響きに変わっていた。

 七月に入ると、部屋の中は完全に水没したような感覚になった。

 もちろん、物理的に水が満ちているわけではない。本も服も、手で触れれば乾いている。けれど、身体感覚としての私は、水の中にいた。

 歩くときは水の抵抗を感じて、動作が緩慢になる。腕を上げると、見えない水流を掻き分けるような重みがある。

 夜、布団に入ると、自分が海藻になったような気がした。

 重力から解放され、ゆらゆらと漂っている。天井の木目が、波紋のように広がったり縮んだりしている。

 ある晩、ふと目が覚めた。

 部屋の隅に、誰かが座っていた。

 闇に目が慣れてくると、それが輪郭のぼやけた影のようなものであることがわかった。人型をしているが、固形物というよりは、濃い液体が人の形をとどめているように見えた。

 影は、膝を抱えてうずくまっていた。

 私は布団から上半身を起こし、その影を見ていた。

 恐怖は、やはりなかった。ただ、そこに在るのだな、と納得しただけだった。

 影からは、水音がした。

 ぽたり、ぽたり。

 影の体から滴が落ちて、畳に染み込んでいくような音だった。

 私は枕元の時計を見た。午前三時を少し回っていた。

「喉、渇いてない?」

 私は影に向かって訊いた。

 影は答えなかった。ただ、わずかに顔を上げたような気配があった。目や口があるべき場所には、ただ暗い窪みがあるだけだった。

 私は起き上がり、台所へ行って水を汲んだ。ガラスのコップになみなみと注ぎ、影のそばに置いた。

 影は動かなかった。

 私はまた布団に戻り、横になった。

 水音は続いていた。ぽたり、ぽたり。それは子守唄のように一定のリズムを刻み、私を再び眠りへと誘った。

 翌朝、コップの水は半分ほど減っていた。

 自然に蒸発した量にしては多すぎるし、誰かが飲んだにしては少なすぎる。

 私は残った水を植木鉢のポトスにやった。ポトスの葉は、妙に艶々と光っていた。部屋の湿気のおかげか、ここ数日で急に蔓を伸ばし始めている。

 仕事の依頼がメールで届いた。短編小説の校正だった。パソコンの画面を開くと、液晶の光が水中で見る光のように滲んで見えた。

 文字を読み進めると、奇妙なことに気づいた。文章の中に、「水」や「海」、「雨」といった文字が出てくるたびに、そこだけフォントが少し大きく、色が濃く見えるのだ。

 私は眼鏡を拭いてかけ直したが、見え方は変わらなかった。

 ――彼女は雨の中を歩いていた。傘を打つ雨音が、激しくなっていた。

 その一文を目で追うと、部屋の中にザーッという雨音が響いた気がした。窓の外は晴れているのに、部屋の中だけで雨が降っている。

 私は手を伸ばして、空気を掴んでみた。

 指の間を、ひやりとしたものがすり抜けていく。

 この部屋は、どこかの水脈と繋がってしまったのかもしれない。あるいは、私自身が水に近い性質のものに変質しつつあるのかもしれない。

 原因を深く考えることはしなかった。考えたところで、どうにもならないことは分かっていたからだ。ここに住み続ける限り、あるいは私が私である限り、この水位からは逃れられないような気がした。

 週末、昔の同僚である佐々木から電話があった。近くまで来たから、昼飯でもどうだという誘いだった。

 私は久しぶりにきちんとした服に着替え、薄く化粧をして外出した。

 玄関のドアを一歩出ると、強烈な日差しと熱気が襲ってきた。蝉の声が耳をつんざくように響く。世界は乾いていて、騒がしく、輪郭がはっきりとしすぎていた。

 私は眩暈を覚え、思わずドアノブを強く握った。

 外の世界の方が、よほど異質に感じられた。

 駅前のファミリーレストランで、佐々木と向かい合った。彼は出版社で編集の仕事を続けていて、最近の業界の噂話や、共通の知人の結婚話をひとしきり話した。

「なんか、雰囲気変わったな」

 アイスコーヒーのストローを回しながら、佐々木が言った。

「そう?」

「うん。なんかこう、力が抜けてるっていうか。肌とかも、随分きれいになったんじゃないか?」

 私は頬に手を当てた。指先が、しっとりと肌に吸いつく。

「よく寝てるからかも」

「いいなあ。俺なんか、乾燥肌でかゆくてさ」

 佐々木は腕をぽりぽりと掻いた。彼の白いシャツの袖口から覗く腕は、粉を吹いたように乾いて見えた。

 私は、佐々木との間に透明なアクリル板があるような疎外感を感じていた。彼の話す言葉は、乾いたボールのように私の鼓膜で弾んで、中までは入ってこない。私の体の中は水で満たされていて、外の音をうまく振動させられないのだ。

 一時間ほどで店を出た。

「じゃあ、また連絡するよ」

 改札口で手を振る佐々木を見送り、私は逃げるようにバス乗り場へ向かった。早くあの部屋へ帰りたかった。あの湿って、薄暗い、水の底のような場所へ。

 帰宅すると、部屋の中は朝よりも水位が上がっているようだった。

 腰のあたりまで、見えない水が満ちている。

 私は荷物を置き、窓を開けた。夕暮れの風が入ってくるはずだったが、部屋の空気は動かなかった。外の風は、部屋の中に満ちた水の表面を撫でるだけで、中までは入ってこられないのだ。

 畳の上に座り、帰りに買ってきた梨の皮を剥いた。

 ナイフを入れると、果汁が指を伝って落ちた。

 とぷん。

 その音は、部屋の隅の影の方から聞こえた。

 見ると、いつもの場所に影がいた。今日は体育座りではなく、行儀よく正座をしている。影の輪郭は、以前よりも少し濃くなっているように見えた。

 私は剥いた梨を一切れ皿に載せ、影の前に置いた。

「食べる?」

 影は動かない。

 私は自分の分の梨を口に入れた。甘い汁が口いっぱいに広がる。冷たくて、さっぱりとしていた。

 影の方を見ると、皿の上の梨が、心なしか小さくなっているように見えた。

 私は缶ビールを開けた。プシュッという音が、水中で泡が弾けるようにこもって響いた。

 一口飲む。苦味が喉を通り過ぎていく。

 部屋の中は薄暗くなってきたが、電気をつける気にはなれなかった。

 水の底のような青い薄闇の中で、私と影は向かい合っていた。

 水音は絶えず聞こえている。

 ちゃぷん、とぷん、さらさら。

 それは、私の体の中を流れる血液の音のようにも、遠い記憶の中にある海の音のようにも思えた。

 私は壁に背中を預け、足を伸ばした。

 足先が、見えない水流に揺すられている。

 心地よい、と思った。

 外の世界の乾燥や、騒音や、硬い輪郭線よりも、この曖昧で湿った場所の方が、今の私には合っている。

 いつかこの水が、頭のてっぺんまで満ちる日が来るのだろうか。

 そうなったら、私はどうなるのだろう。

 魚になるのか、藻屑になるのか、それともただの染みになって壁に残るのか。

 想像してみたが、どれも悪い結末ではないような気がした。

 私は目を閉じた。

 瞼の裏にも、水が揺れていた。

 影が、少しだけ近づいてきた気配がした。冷たい空気の塊が、私の肩に触れたような気がした。

 私はそのまま、水音に耳を澄ませていた。

 夜はまだ、始まったばかりだった。

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