#1
生きていることとは、暖かくて柔らかいこと。死んでいることとは、冷たくて硬いこと。
これは、幼い生寿が「生死」という概念に初めて接触した際の心の動きを仔細に描写した、言葉による細密画です。
「はい、じゃあ、プリント後ろの席に回してー」
(待っててね、ウサギさん)
「飴が何個と何個で十になるかな? 答えられる人」
(蒸し暑いだろうけど、我慢してて)
「おい生寿! 俺の揚げパンいる? あと林檎も」
(ごめんよ、僕だけ食べて)
「うわー、膝、痛かったね。はい、これでもう大丈夫」
(早く教室に戻らせてくれないかなぁ。誰かに見つかったら大変だ)
「じゃあね〜、また明日」
「じゃねっ」
生寿は逸る気持ちを抑えきれません。
玄関マットにランドセルを置き、なかからそっと黄色い巾着袋を取り上げます。
恐る恐る結び目を解くと、ちゃんといました。まっ茶色な毛並みの子ウサギは、朝目にした時と全く同じ姿形のまま、そこにカチコチッと収まっています。
鼻先を起点にして放射線状に生え揃った艷やかな毛。閉じた両まぶたを囲む白いスジ模様。ツツジの葉みたいに先の尖った両耳。縦長のお饅頭を連想させる背中や脇腹。お尻の先端についたくるみボタンのような白いしっぽ。
各部位の愛くるしくも洗練された造形美は、生寿の輝く瞳を鷲掴みにして離しませんでした。
その間、彼の蕾のような形をした頭のなかでは、自分と子ウサギを取り巻いているはずの物理空間が、太陽系を飛び越えたはるか先、優に十億光年は離れた漆黒の宇宙空間にまで、これでもかというくらいに押しやられていたのです。
そのぺちゃんこに潰された現実感がパチンと元の形状に戻った時、
(僕はどれくらいの間、この子のことを見つめていたんだろう)
生寿は、時間の平衡感覚をものの見事に失っていたことがなんだか空恐ろしくなりました。
すると、なんの前触れもなく、鼻の穴から液状の生暖かい何かが滴り落ちてきて、慌てて手で抑えます。
玄関タイルの上に数滴跳ねたのは、赤い血の雫。
〈うわっ、まただ〉
ママにいつも持たされているティッシュをパーカーの前ポケットから取り出し、一枚引き抜いて鼻の穴に無理やり突っ込むと、今回の鼻血はすぐさま収まってくれたようでした。
次回へ続く




