第8話 ロッカーの中の美少女
将河辺さんが完全に見えなくなってから、俺も屋上を出ることにした。
ドアノブを捻って校舎内へと足を運べば、微かな異臭を感じる。それは、普段の俺なら気づかないか、無視をするようなほど些細な匂いの変化。でも、今日の俺はそれを無視しないし、変化に気づけもした。その理由は単純で、眠たいせいだと、後の俺は思うのだ。もしくは、将河辺さんを前にして、少し敏感になっていたか。
いつも屋上には来るので、ここの臭いは大体把握している。
俺は、階段上の踊り場にある掃除用のロッカーに目を向ける。そしてその扉に手を掛けた。扉を開けると、見目麗しい美少女がきったないロッカーの中で暗い表情をしていた。
「聞いていたのか、逢月」
狭いロッカーの中に潜んでいたのは、全国中学校体育大会で1人応援合奏者として名を馳せていた。としたら面白いなと思う相手だった。
こいつはどうして屋上に来たのだろうか。まさか、嫌なことでもあったのか。
逢月も将河辺と同じ1年2組の生徒だ。既に俺との繋がりも割れている。何かしらのことをされてここにいる可能性が……。いや、さっきの今では早過ぎるか。
「大丈夫か?何か教室で嫌なことでもあったのか」
逢月が何かを口にしようとする様子が見れなかったので、こちらからそう声を掛ける。彼女は驚いたように目を丸く広げて俺を見る。そしてまた視線を降ろそうとしたので、取り敢えずそこから出たら?と手を差し出してみた。しかし、その手は取られない。
「ごめん」
ぽつりと、絞り出すように謝られる。俺は、差し出した手を引っ込める。
「え、なんで謝罪」
彼女は言いにくそうにしながら言葉を出して行く。目は、合わせようとしてこない。
「将河辺さんを紹介したのは、私だから。まさか、あんな用事だったなんて思わなくて。だから、ごめん」
「それは逢月が謝ることではないと思うぞ」
俺と逢月は、別に友達というわけでもない。相手がどんな目に合おうが関係ないし、興味もないはずだ。
「それでも、私は」
もごもごと言い淀む逢月を見ていると、懐かしい過去を思い出して軽く笑みが浮かぶ。そういえば、前にもこんな風に言い淀んでいたことがあったな。
あの日もそうだ。逢月が勝手に応援に来て、勝手にラッパを吹いて応援した。吹奏楽部の県予選が終わった後、俺が出場した県外の全国大会に付いて来て、勝手に相手校の応援隊と張り合ったような演奏をしていた。ウチの中学は全国常連校でもなかったし、こちらの応援は彼女が居ても酷く質素なものでしかなかった。
当時の俺は、逢月のことは知らなかったし、気にも止めていない。だから俺達は、本来なら会話をすることもなかった筈なのである。お互いの人生が交わらずとも、特に問題はなかった。でもこいつは、逢月は律儀に声を掛けて来た。
そんな必要は、全くなかったのに。
その中でも、所々でもごもごと言い淀んでいた。
「ちょっと。なんで笑っているのよ」
「いや、懐かしいなと思ってな」
「なによ、それ」
「気にするな。なんでもない」
「ちょっと、気になるじゃない」
じとっと下から不服そうな目で見られる。
「まあ何にせよ。逢月が気にすることではないよ。こっちはこっちで何とかするから、お前は全国だけを見ていろ」
そうとだけ言って身を切り返したとき、制服の後ろ、腰の辺りを摘ままれて引き止められる。
「ちょっと待って」
「なんだよ」
「手、もう一回差し出してくれない?」
振り返る。逢月は下を向いていて、その表情は見えない。
「なんでだよ」
「い、いいから」
上がった彼女の顔は、なぜだか少し赤らんでいた。熱でもあるんじゃないだろうか。だが、辛そうな様子はない。
「まあ、いいけど」
改めて手を差し出すと、逢月は俺の掌を指先で軽く触れる。何やってんだこいつと思い、さっさと済ませるためにこちらから手を取ってロッカーの中から出る手伝いをする。
「ひゃっ」
「わ、悪い。強かったか」
慌てて手を離すと、あっと呟いて俺の手を視線で追われた。
「べ、別に、強くはなかった、です」
ロッカーに入っていたことを気にしてか、逢月は自分の体臭を確認し、身支度を整える。そして1つ深呼吸をした。
「尾緒神、将河辺さんとのこと。私にも、何か出来ることはないかな」
「ない。さっきも言っただろ、お前は全国のことだけを」
「友達がいじめられるって聞いて、放ってなんておけない」
力強い眼差しと、言葉が投げられる。
えっ。友達?俺達は、いつの間にそんな関係になっていたのか。話した回数すら少ない筈なのに。
勘違いを正そうかと思ったが、逢月の真っ直ぐな目を見ると、それを指摘することはなんだか忍びないことのような気がして止める。
「困ってる?」
俺の表情を見てか、心配そうな顔をされる。
「まあな。目標に向かって突き進む逢月を、俺の都合で立ち止まらせるようなことは、あまりしたくない」
つい先程、教室で彼女に呼び出された時。『信頼出来る友達』の話を嬉しそうな顔でしていたことを思い出す。
信頼出来る友達と、仲間と一緒に全国を目指す輝かしい夢を掲げた眩しい彼女を、いじめなんて問題に介入させてはならない。これの落とし所がどうなるか分からない以上、印象や噂次第で部内に亀裂が入ってしまったり、最悪部活動停止になったりする可能性のある案件を彼女に関わらせるべきではない。
「こんなの、些細なことよ。こんなことで、私の夢が潰えるとは思ってないわ」
両立させてみせるわと、まるで勉強と部活動の問題かのように彼女は言う。
その瞳には絶対に譲らないという意志が籠もっていて、これは説得するのに骨が折れそうだと思った。
だが、このまま粘ると本格的に授業に参加出来なく。ん。授業?
ニヤついた将河辺の笑顔が脳裏に過る。
……。このまま帰すのは、不味いな。
逢坂を見て、小さな溜息を吐く。
「それじゃあ1つ、頼まれ事をしてくれないか」