幕間 白の狭間と、小さな手
一面、真っ白。
(ここが天国ってやつ?)
そんな事を一瞬思ってしまったけれど私という女はそんな場所から一番縁遠い。
だからきっとここは狭間。
時間や記憶、夢が溶け合い上も下も境界もなく、ただ“空白”だけが満ちる世界。
足音すら沈む世界に、二つの影だけがそこにあった。
マコトとマリア。
こちらに背を向けたまま、まるで“こちらを見る気なんて最初からない”みたいに声だけが響く。
「――何で勇者を殺したッ!!」
空間が震えた。背中越しの声なのに、胸の奥を殴られたみたいに痛い。
何でって敵だからに決まってる。
暦信教の神輿。利用されてるだけの駒。
戦争を引き延ばした張本人。
そう思った瞬間、勝手に口が動く。
「敵だから。暦信教の神輿を潰しただけ。何が悪いの?」
「暦信教ってだけで命を奪ったのかよお前………あいつの何を知ってんだ!!」
知らないよ 知らないから躊躇なく眠らせられた。
だから心も痛まなかったし、なにより魔王軍は皆褒め称えてくれた。
戦わずに勝利を導き勇者をも眠らせた魔勇者だって
これは戦争なんだ 私は間違っていない。
「暦信教は全員眠らせる……永遠に。 私達が戦わなきゃいけなくなった原因だから」
「アイツは娘の笑顔の為に勇者やってたんだよ……帝国との交渉だって……お前らの介入が無ければ上手く――」
子供。
その単語だけが、ぽつんと胸に落ちる。
「へぇ……勇者に子供がいるの なら、他の子と同じ様に早めに摘んでおかないとね」
自分の声なのに他人の声みたいに冷たい。けどこれは私が過去に本当に言い放った言葉だ。
言葉を聞いて二人の背中が、初めてわずかに揺れた。
マコトの肩が震えている。
「ネル……お前……おかしいよ……
いつから――そんなふうになっちまったんだ……」
いつから?
そんなの、私の方が聞きたいくらいだ。
「マコト、アンタもさっきからどっちの味方なの?
人間? 魔族?
衛生兵の真似事なんかもうやめなよ
この戦争は魔王国が蹂躙して終わる。最初から決まってた事じゃない?」
「蹂躙って……お前……」
マコトが振り向きかたけれど、その前にマリアが一歩前に出た。
背筋を伸ばし、冷たい声で言い放つ。
「もういいわ、マコト。行きましょう。
彼女は変わった。今はただの臆病者よ」
臆病者
胸がざわつく。当時の私は言葉の意味はわからなかった。でも今ならわかる。
「どういう意味、それ。師匠なら説明くらい――」
マリアは一切こちらを振り向かなかった。
「崇高な融界思想を捨てた。それが答えよ。
あなたは“何世代も過去に生きた人間たち”に恐れをなした。
そして今度は――“これから生きる子供”にまで手をかけようとしている。
怖いのよ。
人間が。
未来が。
自分が間違っている可能性が――」
白い空間に、その声だけが突き刺さる。
止めたくても、足が動かない。
「臆病なの。ネリュス。
あなたは――。」
最後の言葉は、音にならなかった。
マコトもマリアも、白の向こうに溶けていく。
残されたのは、私だけ。
真っ白な空間に、私ひとり。
何もないはずなのに、背筋が凍るほどの“気配”だけが増えていく。
足元で――かすかな感触。
……小さな指が、足首に触れた。
「っ……!」
見下ろした瞬間、息が止まる。
そこにいたのは、知らない子達。
わたしが“名前すら聞かずに眠らせてきた”小さな影たち。
ぼんやり白く透けて、顔はない。
でも……わかる。
この手は、子供の手だ。
ひとりが、足に絡みつく。
またひとり。
また、ひとり。
増える。
増える。
数なんて数えられない。
私は――。
私は、こんなに。
こんなに多くの子供を……?
「離して……離れてってば……!」
叫んでも声が震えるだけだった。
亡霊たちは無言で、ただ私の足にしがみつく。
引きずり下ろそうとしているわけじゃない。
責めてもこない。
ただ、存在している。
それが、何より怖かった。
「やめて……やめてよ……!
私は……私は……戦争だから……!
仕方なくて……!」
言葉が途中で崩れる。
“仕方ない”
“正しい選択”
“敵だったから”
どれも、亡霊たちは否定もしない。
ただ私の足にしがみつき、
足首からふくらはぎへ、腰へと、じわじわと冷たさが上ってくる。
飲み込まれる――
その瞬間だった。
ぽん、と。
あまりに自然な、軽い“あたたかい手”が
私の手の甲に触れた。
その感触だけで、世界の色が変わる。
小さな、小さな手。
その手は、確かに“生者”の温度を持っていた。
その子は、亡霊たちとは違う。
ぼんやりしていない。
白く滲んでもいない。
ただ――こちらを見上げて、静かに微笑んでいた。
(……誰?)
声が出ない。
でも、その子は答えなくていいとわかっているように、
ただ私の指をぎゅっと握り、そして、引いた。
白の世界が、裂けるように揺れる。
亡霊たちの手がゆっくり離れていく。
子供の手の温もりだけが、私を上へ、上へ――
暗闇から水面へ引き上げるように導いていく。
……
…………
次の瞬間。
「――っは……!」
息を飲んで一気に目覚めた。
身体が跳ね、心臓が暴れる。
冷たい汗。
喉の奥が鉄みたいな味。
視界が戻るまで数秒かかった。
夢じゃない。
いや、悪夢ですらない。
あれは、“私の過去”だった。
ふと気づく。
手のひらに、まだ温もりが残っている事に。
握っていたはずの、小さな手の――温度。
「酷い顔……夢魔なのに悪い夢でも見たのかしら」
突然聞こえる声に振り向くとそこには黒髪で赤と黒のオッドアイを持つ少女が微笑んでいた。
「マリ……ィ……ちゃん?」
「あら……外れたわ 私の中で目覚めた貴方の第一声は師匠……だったのに。」
師匠の姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
あの白い世界で掴んだ“温もり”が、まだ手に残っている。
「し……師匠ぉ……」
そう呼んだだけで、喉の奥が震えた。
涙が込み上げてくるのが自分でもわかる。
マリィは、赤と黒の瞳でじっと私を見つめる。
怒っても、責めてもいない。
ただ、静かにそこにいる。
その優しさが耐えられない。
気づくと私は、マリィの小さな身体に抱きついていた。
「また想定外……貴方に泣きつかれる日が来るなんて」
彼女は淡々と言いながらも抱き寄せてくれる。
何も言葉にならない。
息が震えて、胸が軋んだ。
涙がぽたりと落ち、マリィの肩を濡らす。
「大丈夫……皆、無事よ 貴方はやり遂げたの 魔王国に帰ってきたのよ。」
その声は責めも呆れもなく、ただ事実を告げるだけで――それがまた胸を締めつける。
「……ちが……違う……
私は……泣くつもりなんか……なかったのに……っ」
震える声を押し出すように、過去と狭間での出来事が溢れる。
「上官に……言われたのよ……
女子供……関係なく眠らせろって。
抵抗できないなら……“楽にしてやれ”って……」
自分で言って、喉が潰れそうになる。
「私は従った。 戦争だから仕方ないって……そう思おうとして……!」
息が詰まった。
涙が次から次へと溢れて止まらない。
「でも……ずっと後悔してた……
夜になると……思い出すの……
あの子たちの……小さな手を……!
だからずっと眠れなくて……」
そこでマリィの指が、そっと私の頭に触れる。
「小さな……手?」
落ち着いた声。
問いかけるだけで、否定しない。
私は震える呼吸のまま、夢で見た情景を語った。
白い狭間。
消えたマコトとマリア。
足にしがみつく“名前も知らない子供たち”。
そして――
私の手を引き上げた、あのひとつだけ温かな手。
全部話し終わるまで、マリィは一言も挟まなかった。
泣きながら言葉をこぼす私の背中を、ただ淡々と撫で続けていた。
しばらくして、マリィが静かに息をつく。
「なるほど。あなたの見たものが、ようやく理解できたわ」
マリィの声は、どこか“マリアだった頃”の気配をまとって話す。
「狭間はね――死者の未練や記憶も混じる場所でもある。
あなたが眠らせた子供たちの“影”が出ることは……説明がつくわ」
だけど、とマリィの瞳が細くなる。
「ただ、あなたを引き上げた“温かい手”だけは……別よ」
「え……?」
マリィは首を振る。
「狭間にいる魂は本来、朧げで形のないもので温度を持つはずがないの。
あなたに触れて導ける存在は――」
そこで優しく私の頭に手を置き、彼女は微笑む。
「“あなたが救った誰か”の象徴、あるいは……“これから救うはずの誰か”。」
胸の奥が熱くなった。
「狭間は、あなたが後悔だけで潰れないように
あなた自身の未来から手を伸ばしてきたのかもしれないわ」
「未……来……?」
マリィは小さく笑う。
「そう。あなたがもう二度と“同じ選択”をしないように。
あなたが救うはずの誰かが、あなたを引き上げたの」
涙が止まらない。
「でも……私……救えるの……?
私……そんな資格……」
「ネリュス」
マリィは私の頬を両手で挟んで、まっすぐ目を見る。
「あなたはもう“眠らせる側”じゃない。
師として言うわ。
あなたは――これから“目覚めさせる側”になるの」
声が震えた。
その言葉が、胸の奥に火を灯した。
私は泣きながら、マリィの肩に顔を押しつけた。
マリィは小さな体で、私を静かに受け止め続ける。
狭間で掴んだ“あの手”の温もりが、いまは確かに――マリィの手にも重なっていた。




