第六話 腰抜は妄想に縋る
俺はラグ姐と並んで、護衛依頼の集合場所――東門へと向かっていた。
乾いた土を踏みしめる足音と、少し早足な姐さんの背中が、やけに遠く感じる。
ふと、胸の奥で引っかかっていた言葉が口を突いて出る。
「ラグ姐、あのさ。ちょっと、話があるんですけど」
「お? なんだい急にかしこまりやがって」
「ほら……町に入る前に言ってくれたでしょ。名前、変えとけって。あれって……俺が誰か、知ってたから?」
前を歩くラグ姐は、しばし足を止めずに黙ったままだったが、数歩歩いて、風に揺れるマントの隙間から低く応える。
「違ぇよ。ただな……昔、“英雄”って名乗って、痛ぇ目に遭ったやつがいた。 それだけだ」
「……そっか」
言葉が胸に染みた。ラグ姐は、ただの警戒でもルールでもなく、“俺”を守ってくれてたんだ。
「ありがとう、ラグ姐。俺、自分のことでいっぱいいっぱいで、周りのこと……全然見えてなかった」
「……フッ」
彼女は肩をすくめ、振り返らずに笑った。
「気づいたならよし。ま、色々三倍で返してもらうけどな。タダ働きは性に合わねぇ」
その軽口が、やけに嬉しく、そういうところ、ほんと姐さんらしい。
護衛の集合場所は、ギルドの掲示板に記されていた通り、東門を出てすぐ――
街道沿いに広がる、野外駐車場のような空き地だった。
まだ朝の冷気が頬を撫でる時間帯。空は澄み渡り、遠くの青に一筋、白い雲がたゆたうように流れていく。 東門のすぐ外。 そこには数台の荷馬車が横一列に並び、商人たちが慌ただしく声を掛け合いながら荷の積み下ろしをしていた。
ギシリと軋む木製の車輪。馬のいななき。革袋の紐を締めるキュッという音。
そんな何気ない音が、妙にくっきりと耳に入ってくる。 静けさと活気が、同時にそこにあった。
「……あれ、あの人かな?」
掲示板に貼られていた依頼用紙に書かれていた特徴―ーそれとぴたり一致する人物に目を留める。
小柄でぽってりとした体つき。顎下にうっすら髭。
袖口には赤と金の刺繍が大胆に走り、ベストのボタンには意味ありげな紋様があしらわれおり、商人にしては……いや、商人だからこそか。商売相手に“見せる”ことを重視したような……成金じみた装いなのかもしれない。
俺はその男に向かってできるだけ丁寧な口調を心がけて声をかける。
「えーと、失礼します。今日の護衛依頼で来た、誠一郎です」
「ん? ああ、君か!」
男は振り返りざまに顔を綻ばせたが、その視線はすぐに俺の頭から足先までをなめるように滑っていく。
そして露骨に眉を上げ、評価するような目つきで頷いた。
「ふぅむ……冒険者の割に、ずいぶん礼儀があるじゃないか。身体つきも良好。これは期待できそうだ」
「……あの、俺、戦えませんよ。 なんなら今日が初仕事な位で……」
言ってから、少しだけ後悔、正直に言い過ぎた……男の顔が、ピキィ、と音を立てそうなほど引きつる。
だが次の瞬間、空気を変えるように無理やり笑顔を作り、手をひらひらと振った。
「は、はっはっはっ……まあまあ、旅の護衛といっても短距離だしね! うん、そうそう、何事もないのが一番! 無事が一番ハッピー!」
後ろから誰かの視線を感じて振り返ると、ラグ姐が肩をすくめながら近づいてきた。
「……あれな、見た目の割に小心者なんだよ。荷馬車一台で商売してるくせに、通るたびに護衛雇ってんだ。前なんか、ウサギ見て叫びながら荷物ぶちまけたって噂あるくらいだし」
「じゃあ護衛が必要なのは彼じゃなくて、荷物のほうって感じですね……」
「正解。アタシは荷馬車の前を行く。お前は後ろで気配でも感じとけ。」
そう言ってラグ姐は、軽く俺の肩を拳で小突く、その一撃に痛みはなく、妙な安心感があった。
やがて荷の積み込みが完了し、号令のような掛け声とともに、荷馬車の車輪がギシギシと軋み始めた。
俺はラグ姐に言われた通り荷馬車を前方に背後を警戒しながらついていく。
道はよく整備されていて、草の香りを含んだ朝の風が、頬を優しく撫でた。
これは――確かに、“平和な仕事”のはずだった。
……だが、それでも。
胸の奥で、何かがざわついていた。
喉の奥に、不意に蘇る感覚があった。鉄錆びた血と乾いた土の匂い、肉が裂ける音。矢が空を切る風音。大地を揺らす獣の咆哮。 誰にも語っていないし、語るつもりもないけれど、それらは夢だというのにもかかわらず、やけに鮮明だった。
「あれがもし……俺の身体の記憶だとしたら……」
俺はぽつりと呟いてしまい、その小さな声に、前を歩くラグ姐の耳がぴくりと動く。
「おーい、何か言ったか?」
「いや、独り言っす。ちょっと寝不足で」
「ほぉん? ならよし」
ラグ姐は笑うように言ったが、その歩調は少しだけ緩やかになる。まるで俺に合わせるように。あるいは、何かを感じ取ったのか。
「……ま、そろそろちょいと山道入る。狸でも飛び出しゃ、あの商人また腰抜かすぞ」
軽口を叩く彼女の声は、相変わらず飄々としていたが――
その右手は、すでにさりげなく剣の柄に添えられており、その仕草に俺も息を飲む。
草を踏む音、鳥のさえずり、馬の足音――すべては変わらずそこにある。
なのに、耳が異様に冴えて、周囲の音が妙に“遠く”感じる……まるで現実感が離れていくように
「……異様に静かだ」
自分でも気づかぬうちに、声が漏れた……その時だった。
――ガサッ。
風もないのに、道端の茂みが不自然に揺れる音がした。
まるで何かが――意志を持った“何か”が、そこを押し倒して出てきたかのように。
「ヒヒィンッ!!」
前方の馬が甲高い悲鳴を上げ、暴れながら馬車と共に後ずさる。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は慌てて馬車前方に駆け寄り、馬車の脇から商人の様子を確認する。
彼は震える指で、前方を指し示していた。
「あ……あれ……!!」
その視線の先には――
ラグ姐の前に、いつの間にか10匹ほどの狼の群れが現れていたが彼女は剣も抜かず、ただ静かにその場に立ち、睨み据えている。しばらく狼たちは唸りながら彼女を囲んでいたが……突然唸り声が止んだ。
一瞬の静粛の後、まるで”合図”でもあったかのように狼たちは一斉に踵を返し、茂みの奥へと消えていった。
一触即発の気配が霧散し、緊張の糸が一瞬だけ緩む。
「ラグ姐っ、よかった……!」
駆け寄りながら、俺は思わず安堵の声を漏らした……がラグ姐はその場から動かない。
背を向けたまま、低く、息を押し殺すように言った。
「まだだ……奴ら、あたしらから逃げたんじゃない。誠一郎、馬車とおっさんを連れて引き返せ……!」
その声には、先ほどまでとは別の鋭さがあった。
次の瞬間――
茂みの奥から、“それ”は現れた。
……ぬるり、と。
空気が、が変わった。
粘りつく様な重さが肌にまとわりつく。
姿形は、獣に似ていた。だが明らかに“それではない”。
四足で地を這い、皮膚は裂け、骨がところどころ露出していおり、頭部は人の顔に近いが、表情はなく、中央にはぽっかりと黒い空洞。眼球が、無い。 腐臭と呪いがまじり合ったような異様な気配が、空気そのものを濁らせている様に感じる……そして何よりデカい。
「……なんだ、コイツ……」
そう呟き、ラグ姐は一歩前に出て、目を細める。
「誠一郎! 荷馬車を引け!」
「でも……!」
返事を待たず、ラグ姐は化け物の前に、すっと立ち塞がり、その背から、金属バット型の剣が滑るように抜かれ、朝陽を反射して煌めく。
「護衛ってのはな、何を守るかを最初に決めてんだよ。」
俺は彼女の過去を知らない……けれど幾度も死地を乗り越えたという彼女から滲み出た覚悟の言葉だと感じた。
「……分かった」
声は震えていた。けど、足は動く。
「ラグ姐は……」
「アタシはこっちだ。」
その一言を最後に、ラグ姐は地を蹴った。
その動きは風よりも早く、音よりも鋭く鋼が空気を裂き、化け物の咆哮がぶつかり合う。
俺は振り返って、商人に向けて叫ぶ。
「行きましょう! 今のうちに!」
商人は腰を抜かしかけていたが、叫びに反応し、震える手でなんとか手綱を握り直して馬が再び動き出す。荷馬車の車輪が、命を運ぶために軋みをあげた。
最後にもう一度だけ、俺は振り返る。
――そこには。
化け物に向かって、堂々と立ちふさがるラグ姐の背中があった。
何かが、心の底で静かに疼く。
(……また、守られてる)
荷馬車は森の中腹を過ぎ、樹々の影が深くなっていく。俺は、再び走り出した馬車を追う形で小道を駆けていた。ガタガタと軋む車輪の音が遠ざかるたび、胸が締めつけられるように痛む。
ラグ姐は、あの怪物とひとりで対峙している。
あの姿を見てしまった。振り返るたび、あの背中の輪郭だけが、今も俺の中で燃えている。
――アタシは、こっちだ。
その言葉の意味。姐さんの判断の正しさ。
わかってる。俺は、足手まといだ。戦えない。中身はさえないただの大学生
それでも。
「……逃げてるだけでいいのかよ、俺」
唇の奥から吐き出た。脚が止まる。森の湿った空気が喉に絡んで木漏れ日が差す地面を見つめる
――と、その時だった。
風が、吹いて、落ち葉が一枚、舞う。まるで、それに導かれるように視線を移す。
「……は?」
目を疑った。まさか、あり得ない。あれは焼いたはずだ。灰になって、風に舞って消えたはずだ。
けれど、それは確かにそこにあった。
焦げ跡の残る――ノート。
俺が、かつてキャンプで焼いたはずの――あの、ノートだ。
信じられなくて、思わず近づき、ゆっくり手を伸ばす。表紙は焼け焦げ、ところどころ紙も灰になっていた。けれど、なぜか一枚だけ、綺麗な状態で開いていた。風にすら揺れず、まるで俺を待っていたかのように。
ページには、走り書きの文字と、粗いが力強い線画。
それは――俺が中学の頃、頭の中で作った“最強の武器”のスケッチと考えていたセリフ集。
当時いじめられてた俺は、ノートの中では人気者で、剣を振るって、敵をなぎ倒し、皆から愛されてた……これは誰にも見せられない、心の逃げ場所だった。
「……笑えるな」
声が、掠れる。
「あの頃から俺なんにも変わってない……」
その時、ノートのページが、ひとりでに――めくれる最後のページには過去が残した英雄願望。
“かっこよくなくても、誰かを守れる奴になりたい”
目の奥が熱くなる。
「バカか、俺……」
心臓が――跳ねた。
脳裏に浮かぶのは、ポルカやスミア、マルコやハルの顔。姐さんに守られて、無邪気に笑っていたあの子たち。彼女は、ただの冒険者じゃない。子どもたちにとっては、生きる場所そのものなんだ。
姐さんがここで死ぬなんてこと、許しちゃいけない。傷つくことを、良しとしちゃいけない。
俺は俺だと肯定してくれた人を失う訳にはいかない。
「昨日は記憶でしかない……今日こそ、”妄想”を現実に変える日だ」
その瞬間、足元の空気が揺れて、森の気配が一変する。風が、逆流するように巻き起こる。
「な、なんだ……っ!?」
立っていられず、思わず膝をつく。
身体が、熱い。
皮膚の下を、何かが這うような感覚。 身体の奥に、“別の自分”が浮かび上がってくる――そんな錯覚。
筋肉が、そげていく。 肩幅が縮み、胸板が凹んでいく。ヒーローのように鍛えられた肉体が、見る間に――
「う、あ……っ!」
変わっていく。
腹に、かつて見慣れた……だらしない膨らみが戻ってくる。肩が重い。視界が少し低くなる。
この感覚、この姿――
“何者でも無かった俺だ”
俺の体が、“英雄”から、“俺自身”に戻った。
脳が、現実を追いきれない。けれど、心だけは叫んでいた。
――これが、俺なんだ。
頼りなくて、すぐ泣いて、ダサくて、何もできなかった俺。でも、だからこそ、今なら言える。
「姐さん……俺、行くよ」
この姿のままで守れるかなんてわからない。勝てるなんて保証は、最初からなかった。
でも、選ぶのは――いつだって、俺自身だ。
「英雄はいらない。俺が――やる」
足に力を込めた。自分の情けなさごと――今、誇りにするために。