第五十四話 夢は過去、朝は未来
「……て。 ……きなって。 起きろって言ってんでしょ!!」
怒鳴り声と一緒に衝撃が身体を伝い、俺は半ば反射で身体を起こす。
目の前には、セーラー服姿の夢魔――ネルと、詰襟の兄貴、ダンが、呆れた顔で俺を見下ろしていた。
窓から差し込む夕焼けの光が黒板の粉っぽさを浮かび上がらせている。
「あれ……ここは……教室?」
問いかけると、ダンは溜息をついて笑い、ネル畳み掛けるように言う。
「アンタ寝ぼけてんのッ? 朝一緒に登校したでしょ!!」
「まぁまぁネル。こいつ昨日もマリアと徹夜だったんだ 寝起きにそう怒んないでやってくれよ」
「一日中机に突っ伏してるコイツを私が怒んなきゃ誰が怒んのよ!! 先生もアンタらが城暮らしだから何も言えないだけよ!?」
「お家事情で黙らせてるとは心外だ……俺は今季の成績学年トップだぞ? 実力で黙らせてると言って欲しいな」
「あんたに言ってないの!! 問題はコイツ!! あの女と徹夜を始めてから特に酷いわ」
寝ぼけ頭を揺さぶられながら、俺は精一杯の笑みを返す。声に力を戻すためでもあり、場を和ませるためでもあった。
「マリアは俺のやりたい事を手伝ってくれてるだけ……いい子だよ? ネル。 君も色々相談するといい きっと力になってくれる筈だ」
その言葉を聞くと彼女はむくれ顔で首根っこを掴み、椅子から俺を引きずり上げた。
「あっ……ちょっとなにすんだよ」
「部活の時間よ。 授業も碌に受けてないってのに部活までサボろうってんじゃないでしょうね?」
「そのつもりだけど……部活行く時間があるんなら出来るだけ医ーー」
言いかけた瞬間、兄貴がさっと俺の口を塞いだ。視線は真剣だが、どこか楽しげでもある。
「それ以上は良くない 彼女をこれ以上鬼にしたくなけりゃな」
「鬼って……母さんは優しいよ? 訓練の時以外」
「あくまでものの例えだよ いいからほらいくぞ。」
夢魔と魔族の彼女らに抵抗できるはずもなく、両脇に抱えられた俺は校舎を抜けて部室――軽音部の扉の前へ。ドアを開けた瞬間、ドラムのリズムが止まり、一人のスキュラの生徒がこちらを向く。
「おぉマコト殿!! 逃亡記録更新かと思いましたぞ!! 5日ぶりにメインボーカル入りで練習できそうでござるな!!」
そう言ってモチャルカはヘッドホンを外して笑いかける。
「ボーカルって……ネルがギター兼ねてやりゃいいんじゃないの? 俺、楽器が弾けるわけでもねぇしさ」
「言われなくてもあんたがいない時はいつもやってるわよ! でも流石に学園祭も近いし、部員に名を置いてる以上は出なさいよ!! 魔王様だって見に来られるんだし!!」
「そうですマコト殿!! 不良で悪評轟くネリュス殿では務まりませんぞ!!」
「おい、モチャルカ。触手結びの刑よ。もっちゃもちゃにしてあげるからここに直りなさい。」
死刑判決が下されるや否やモチャルカはネルを挟んで俺を拘束し、盾にしようとする。
「おいやめろ!! 一番繊細な俺を肉壁にするな!!」
「マコト氏!! 拙者の為に犠牲になって下され!! 拙者は事実を述べたまででござる!」
「安心なさいマコト。貴方もまとめてもっちゃもちゃにしてあげるから!!」
「全然安心出来ない!!」
窓の外で、夕暮れの風が体育館の屋根を渡り、遠くでチャイムが一度鳴る。
ダンはふと笑って、肩を竦めた。
「ホント……仲良いなお前ら。」
笑い声が重なり、オレンジ色の光がゆっくりと薄れていく。
音が、匂いが、光が――少しずつ遠ざかっていく。
まるで誰かが、夢の端を指で摘んで引き剥がすように。
──耳に、声が聞こえた。
「マスターの二度寝を許すなんて流石婚約者(仮)ですな」
「だねぇ さり気なくしっぽ纏わせちゃってさ~ 朝から見せつけてくれますなぁ〜」
「う、うるせぇよ!! 茶化すんじゃねぇ」
また誰かの話し声。
まぶたを開けると、視界が滲んで夕焼けが白い光に変わっている。
「……悪い、ネル。部活中なのに、また寝てた……」
寝ぼけ眼で呟いた言葉が、空気をひとしずく揺らす。
焚き火のぱちりと弾ける音。
白い湯気がゆらめく中、ネリュスの指先からスプーンが落ち、金属音がやけに大きく響いた。
「……あ」
驚いたように目を見開いて、マリィを抱いたままネリュスは何も言わない。隣でモチャは手早く目をぬぐい、鼻をすする。
「ちょ、ちょっと煙が目にぃぃい! まったく、火加減が強すぎたでござるなぁ!」
あからさまな誤魔化し。けれどその声の震えに、俺はもう気づいてしまっていた。
――さっきの夢は、ただの夢じゃない
ネリュスとモチャが英雄と過ごした日々。
きっとあれは、“英雄マコト”の記憶の断片。
俺の知らない時間の筈なのに胸は痛いほど懐かしさで締めつけられている。
「ごめん……変な事言った 寝ぼけちゃった デへッ」
わざとらしくそう振舞ってみたけど隣のラグ姐は静かに俺の額に手を当ててくる。
「熱は……無いみたいだな。 でも、顔が少し青いぞ。大丈夫か?」
「大丈夫。 夢見てただけだ。不思議なーーいや幸せな夢を。」
「夢、ね……。まぁ、連日野営だしな 疲れてんだろほら飲めよ」
カップを差し出す手、彼女は心配そうに眉を寄せる。
けれどその優しさが、遠く霞んでいく記憶よりも確かに“今”を感じさせてくれた。
湯気の向こう、マリィがネリュスに口元を拭われながら、ちらりとこちらを見る。
もちろん何も言わない。
ただ――その目だけが、「大丈夫」と語っている様な気がする。
モチャは、湯気の中で一度だけ大きく息を吐いた後、何でもない調子で立ち上がった。
「さてさて! 皆様、そろそろ布団が恋しい頃合いでござるな。ならば拙者も文字通り馬車馬の如く、本日中に交易都市まで――責任をもってお運び致しましょう。」
「モチャ……その……疲れてない? 別に急がなくても――」
「マスターご心配なく。拙者は丈夫でござるゆえ。……それに、拙者も一刻も早く見たいのです。」
「見たい?」
「マスターと、ラグド氏の“晴れ姿”を。」
モチャは冗談めかしてニヤリと笑う。
けれどその目の奥には、焚き火の色よりも深い光が宿っていた。
ラグ姐は顔を逸らし、火の粉を払いながらぼそりと呟く。
「……何言ってんだか。あたしらに“晴れ姿”なんて似合わねぇよ」
「そうかな」
俺は笑ってみせたが、胸の奥で何かが小さく疼く。
たぶん、それは――“似合わない”と言いながら、どこか嬉しそうに耳まで赤く染めた彼女を見たからだろう
モチャは何も言わずに、ただそのやり取りを見て微笑む。まるで、弟とその隣に立つ誰かを見届ける兄のように。
ネリュスはその空気を和らげるように、マリィをそっと抱き上げて俺に手渡した。
「もちろん、マリィちゃんの成長した姿もねー」
小さな体の温もりが腕に戻り、マリィはまばたきもせず、ただ俺を見上げている。その瞳に映るのは、過去でも夢でもなく、確かに“今”の俺たちだった。




