第四話 流れ者は路地裏に立つ
俺の名前は、山本誠。十九歳。
都内の大学に通う、ごく平凡な――いや、やや肥満気味の青年だった。そう、「だった」男だ。
俺は昔から妄想が得意でさ。異世界転生だの魔法バトルだの、仲間との絆だの――そういう空想の世界に、何度となく救われてきた。
特に、自分で何度も読み返しては書き足していた設定がある。俺だけの、俺のための物語。
タイトルは――
『世界を救い、忘れ去られた英雄が、変哲もない日常を謳歌している件』
……通称、『せかおう』。
ありがちなストーリー。でも、当時の俺にとってはそれが“人生そのもの”だった。
そして今、たぶん俺の現実は――その物語に、浸食されている。
「おら、いつまで寝てんだ誠一郎ッ!! 弛んでんじゃねぇぞ こちとら仕事仲間を拾ったつもりだったのによ、これじゃガキが一人増えただけじゃねぇか!!」
怒号がドア越しに飛んできた。うっすらとした目覚めに突き刺さる、怒れる野太い声。
干し草のベッドに寝転がっていた俺は、のそのそと這い出る。
くたびれたシャツにズボン、足元には穴の空いた革ブーツを履いて、寝ぼけ眼で扉を開けると――
立っていたのは、ハイエナ獣人の女戦士、ラグド・イエナ。通称、ラグ姐。
金色の瞳、ウルフカットの髪、筋肉質な体にレザーのタンクトップ、肩には擦り切れたボロマント。
外見も中身もまさに「姐御」の権化である。
ここはアングラントの下層街にある孤児院?「獣の巣」。
ラグ姐の世話になる事になった俺は、彼女の助言で『誠一郎』としてここアングラントでの新たな暮らしを始める事となった。今日は丁度滞在して1週間目の朝だ。
「ラグ姐、おはようございますぅ……」
「ガキ共はもうとっくに起きてるってのに……十九にもなって起こされるとか恥ずかしくねぇのか?」
……ぐっ。耳が痛い。
「す、すみません。でもラグ姐に起こしてほしかったっていうか……てへぺろ」
「人をイラつかせる才能だけは一級品だな、褒めてやるぜテメェ」
そのとき、背後からふわりと割って入ってきたのは――
「らぐねーちゃ、せーちろーいじめちゃらめぇ!!」
もしゃもしゃのオレンジ髪に、ふわふわのシマシマ尻尾。
年季の入ったオーバーオールを着た、虎耳の少女・ポルカ。年の頃は四〜五歳といったところか。
ラグ姐が保護している孤児のひとりで、なんというか……とにかく可愛い。
「おいおいポルカ、アタシはいじめてるんじゃ――」
ラグ姐が苦笑いを浮かべかけた瞬間、俺はすかさずポルカに飛びついた。
「うわぁぁあ〜〜ポルカおねぇちゃぁぁん!! 怖いよぉぉぉ〜〜!!」(※チラッ ← ラグ姐の表情確認)
「ヨチヨチ。ポルカのしっぽ、かしたげゆ」
ああ……この柔らかさ……極上の癒やし……
思わず頬ずりしたくなるほど、ふわっふわのしっぽ。その温もりに包まれて俺の魂が浄化されていく――
が。
「おい、誠一郎」
背後から、重低音のような唸り声。ズシン、と空気が揺れる。
振り返ると、ラグ姐が牙を剥いていた。
「てめぇ、十九の男が幼子のしっぽ抱いてとろけてんじゃねぇよ。どういう了見だ?」
「いや、その、これは……癒やしっていうか、心の平穏というか……」
「“癒やし”ねぇ? はん」
ラグ姐が、首をゴキッと鳴らしながら一歩前へ。
「おい、“性犯罪者予備軍”」
「代名詞ッ!?」
「三秒以内に離れろ。さもなくばその“癒やし”ごと、斬る」
「うわああすいません準備します命だけはァァ!!」
――というわけで、俺の“日常”はだいぶ変わった。
いや、変わったのは環境だけじゃない。俺自身もだ。
顔の造形は、まあ、かつての俺に似ている。でも鏡に映ったそれは明らかに違う。
ぽっちゃり体型だったはずの俺は、筋肉の鎧をまとった戦士のような体躯に。
剣に映る顔は精悍で、少し老けて見える。たぶん三十手前くらい。
最初は、自分の妄想世界に転生したのかと思った。でも、どうも記憶と設定に齟齬がある。
だから俺は、こう考えるようになった。
――これは、「俺に近い誰かの体に、俺の意識が乗り移った世界」なんじゃないか、と。
⸻
その後、俺はポルカを含む孤児たちと一緒に食卓へついた。
「朝から仲良いなーにいちゃんとラグ姐 父ちゃんと母ちゃんみたいだ へへっ」
「ひとりで朝も起きれない雑魚雑魚おやじ、いつかラグねぇにぶった斬られちゃえ」
「こあー! スミア! せーちろーいじめちゃらめー!」
「ぽ、ポルカ、暴れないでよぉ……」
「おはようございます、兄貴! 姐さん!」
この「獣の巣」では、ラグ姐と盃を交わした孤児たちが“親子”のような関係を築いている。
新参者の俺は、その末席にあたる「部屋住み」らしい。
なので、スミア嬢曰く、俺は年齢関係なく彼らを“兄貴”“姐さん”と呼ぶのがルールらしい。
――簡単に紹介しておこう。
◆ハル兄貴(14歳)
細身の黒髪で、いつも目が笑ってるまとめ役。落ち着いた口調で場を和ませる影のリーダー。
◆スミア姐さん(10歳)
赤髪に赤い瞳、俺を「おっさん」呼ばわりする生意気メスガキ。生意気メスガキは大好きだ。
◆マルコ姐……いや兄……いや姐さん?(9歳)
ポルカの髪を結ってあげている、ブロンドヘアーのおっとりお世話焼きっ子。性別がどっちかは……俺もまだ把握していない。
「ハル!!とりあえず後でぶん殴る スミア!!テメェがぶった斬れ他人任せは良くねぇ!! マルコ!!お前はいつも優しいなぁ偉いぞ!! 後うるせぇ静かに食え 朝から元気すぎんだよオメェら!」
ラグ姐流教育の一喝で、食卓は一瞬だけ静まり返る――が、すぐにいつもの騒がしさを取り戻した。
パンみたいな干し肉を齧りながら、子どもたちは朝から元気に喋りまくる。誰が一番長く木に登れたとか、昨日ポルカがネズミを追いかけて井戸に落ちそうになったとか。笑い声と口げんかが入り混じる中、俺は熱いスープをすすりながら、外の気配に耳を澄ませる。
扉の向こう――アングラントの朝が、ゆっくりと始まっていた。
ガタン、と遠くで荷車の音。獣人の荷運びたちが軋む車輪を引いて歩いているのだろう、どこかでカンカンと金属を叩く音。鍛冶屋が早朝から火を入れ、火花を散らしているのかもしれない。外気が開いた窓から流れ込んでいるのか獣脂と香草の匂いが鼻をくすぐる。
ーー今日が市場の日、というのはきっとそういうことだ。
「んじゃ、おめぇらは洗い物と掃除。それ終わったら市場に行って野菜買ってこい」
ラグ姐が指示を飛ばし、子どもたちは「はーい」と気のない返事をして立ち上がる。
俺もつられて腰を上げると、ラグ姐が顎で外を示した。
「お前はアタシと冒険者ギルドだ ギルドには話、通してある 場所は覚えてるか?」
「は、はい! 確か中層ですよね!」
言いながら、俺は少しだけ肩に力が入った。
この街――アングラントの中層街は、下層に比べればずっと“ちゃんとした”場所らしい。衛兵が見回ってるし、施設も多い。俺にとっては、まだちょっとだけ、敷居が高い。
「おう。つっても今回は本人確認と簡単な魔力照合、ついでに軽い依頼の顔見せだ。あんまりビビんな」
「は、はい!」
ラグ姐は壁に立てかけてあった金属バット風の剣を肩に担ぎ、それを見て俺も自分の部屋に馬鹿デカ大剣を取りに戻ろうとしたが、ラグ姐は目を見開いて言う。
「あんなの持ってくな邪魔だ そっちにアタシのお古があんだろ それ付けとけ 勿論鎧も置いてけよ」
「はぁ。」
少し疑問に思いつつも生返事を返した俺は言われた通りにお古の剣を腰に下げラグ姐の後についていく事にした。
「獣の巣」を出て、通い慣れてきた下層街の路地を抜け、ひび割れた石段を登って中層へ。
途中、木箱を担ぐ獣人の兄ちゃんに「おはよーっすラグドォ!」と元気よく挨拶され、姐さんは無言で片手を上げて応えていた。俺はこっそり、その後ろ姿を真似る。
街の空気が変わっていく。
陽の当たり方も違えば、空の色すら澄んで感じる。下層じゃ感じなかった風が、ここでは頬を撫でるように吹いていた。
「なあ、ラグ姐」
「ん?」
「俺さ……やっぱおかしいと思うんだ。今のこの身体」
唐突に口をついて出た自分の言葉に、自分で少し驚く。でも、それを飲み込まずにいられなかった。
「太ってたんだよ、俺。腹も出てて、運動とか大っ嫌いで。それがさ、気がついたら筋肉ムキムキで、顔まで変わってて……服のサイズなんか、見たこともない数字だし」
ラグ姐は歩みを止めず、ただ一言。
「ふぅん。それで?」
「……つまりさ、多分これは俺の身体じゃない。
“俺”に似てるけど、どっか他人の身体に入ってるんだと思う。だけどその“他人”が、誰かも、どうして俺がここにいるのかも、全然わかんない。俺ってなんなんだろうな」
ラグ姐は足を止めた。
中層街に入る門のすぐ手前、朝の光が差し込む石畳の上で、姐さんは俺を振り返る。金色の瞳が、射抜くように俺を見つめた。
「誠一郎。正体がどうとか、過去がどうとか、今は関係ねぇ。テメェが“ここ”にいて、生きてて、ポルカのしっぽ抱いて蕩けてんのが“今のテメェ”だろ?」
「……それ、必要な情報だった?」
「必要だろ。現実は、昨日の続きじゃなくて今日の選択で決まる。
テメェが選んでここにいるなら、それでいいじゃねぇか。な?」
その一言に、俺の中で、妙な安心が広がった。
ラグ姐の言葉は、不器用だけど、やたら芯を食ってくる。
「……ラグ姐ってさ、本当に同い年なの?……」
「お前がガキ過ぎんだよ」
「その通りでーす」
門をくぐった瞬間、世界は少しだけ、眩しくなった。
アングラント中層街――
石造りの家が並び、装飾の施された看板が商店の軒先に揺れている。
人も多い。種族も様々。毛並みの整った獣人、背の高い角人、魔法の杖を背負った旅人風の男。
ひとつ上の世界が、そこには広がっていた。
「よし、こっちだ。ギルドは大通りの先、デカい掲示板が目印だ」
ラグ姐に言われるまま、足を早める。
だけどそのとき、すれ違った衛兵の一人が、ちらりと俺を見た――ような気がした。
いや、見られた。確かに。
目が合ったその一瞬。
彼は一瞬、息を呑むような表情をした。まるで――俺を“知っている”かのように。
「……?」
(なんだ、今の……)
身体の奥が、きゅっと冷える。
まるで何かが、もう始まっているかのような、そんな感覚だけが残った。