第四十二話 魂は揺れ、現は囁く
舞踏会改め、武闘会の翌日の朝、俺は既にヴェルミチェッリ邸の玄関ホールで執事長スロインから軽く、王都の案内を受けていた。
「本当によろしいのですか? ご要望とあらばお付きの者を付けますが」
「一人で大丈夫です ぶらぶらっとするだけですから。ラグ姐の事お願いします。」
「かしこまりました誠一郎様 何かあればまたお申しつけを」
本来なら次の旅の目的地に向けて準備を始めるつもりだったのだが、昨晩からラグ姐は珍しく「ちょっと調子悪い」と言って、屋敷の一室に籠っている。
無理を押してでも立ち続ける彼女が、一日休むなんて滅多にない。
笑っていたけれど、昨夜は汗の量も尋常じゃなかったし、声にも少し張りがなかった気がする。
きっと昨日の激闘が祟ったのだろう……帰りに、りんごのひとつでも買って帰って上げよう。
ブーツに履き替えて靴ひもを結んでいると、シルクのおくるみに包まれたマリィを抱いたバスローブ姿のモチャがペタペタと素足でこちらにやってきた。二人ともやけに肌艶が良く、バラの匂いがふわっと漂っている。
「おや、マスターお出かけですかな 拙者らもお付き合い致しますぞ!!」
「あぅだ」
「いいよ なんか二人とも充実してそうだし、せっかく休みにしたのに俺に付き合う必要無い」
「なんと……!! 下僕想いなんだマスターは……」
「ただあんまりご厚意に甘え過ぎたらダメだからね 節度を持って下さい。」
そう言うと、モチャの腕の中でマリィが不服そうに口を尖らせて声を上げた。
「マウーゥ……」
「不服そうな顔しないの」
たしなめると、今度はモチャまで同じように口を尖らせて真似をする。
「マウーゥ……」
悪ふざけに拍車をかけるようなモチャの仕草に、思わずイラッとしながらも、どこか救われる気持ちになる。ラグ姐の調子が悪くて気がかりだというのに、こうして屋敷を出て行けるのは、二人のおかげだ。
「そろそろ行ってくるよ マリィ良い子でね。モチャ、マリィの事頼んだよ。」
「お任せ下さい!! 大マスターは我が命に代えてもお守り致します」
「あぅあぅ」
左手を振り返しながら大扉を押し開けると、朝の光が一気に差し込み、思わず目を細めた。
陽光を遮りながら俺は王都東区へ向かって歩き始める。英雄が残したとされる聖剣を求めて。
朝の通りには行商人のかけ声が響き、焼きたてのパンの香りが漂っていた。子どもたちが木の剣を振り回して遊ぶ姿も見える。まさに平和そのものって感じだ。ちらほらと同じ冒険者らしき人達も見かけるがアングラントの様な野性味のある冒険者ってよりかは身なりが確かにきちんとしている。
しばらく道なりに歩いていると通りが広がり、視線の先にうっすら石段とそれを囲い込む様に人混みが見えてきた。
人混みをかき分け、石段を登りきった先――そこには祭壇のように開けた広場があり、中央に一本の剣が突き立っている
陽光を浴びた刃は黒くも鈍く輝き、年月を経てもなお人を圧する威容を放っている。
周囲の群衆が息を呑み、ある者は跪き、またある者は熱心に祈りを捧げていた。
――誰が見ても、それは伝説の聖剣。
俺もまた、その存在感に思わず足を止めた……が。
「……え」
目を凝らした瞬間、背筋に冷たいものが走った。柄の形状。刃の反り。意匠の細部。
見覚えが、ある。忘れるはずがない。
――あれは。
「……黒乃刃……?」
マリィがポルカに与えていた――あの竹刀代わりに俺を乱打してきたおもちゃの剣。
それと、そこに突き立つ聖剣は――形状から意匠の細部に至るまで、寸分違わず同じだった。
「……は?」
荘厳に祀られ、人々が畏敬を込めて跪くその刃が、よりによって俺がかつて描いた妄想の産物。
群衆の視線は崇拝に満ちているのに目の前の光景を否定したがっていた。
胸の奥でざわりと音がする。次の瞬間、視界の輪郭がぐにゃりと歪み、祈る群衆の姿も、石碑の文字も、すべてが溶けて混ざり合うように揺らぎ――吐き気にも似た感覚がこみ上げる。
剣の足元に据えられた石碑には、こう刻まれていた。
――聖剣クロノア。
――この剣を抜けし者、次なる英雄となるべし。
格調高い文言。まるで歴史そのものに裏打ちされた威信。だが、俺の中で現実が崩れる音がした。
黒乃刃は、マリィが物語を元に作ったファンメイドのはず……なのに、ここでは伝説として信仰の対象になっている。
「俺の……妄想って、なんなんだ……?」
冷たい汗が背中を伝った。これは笑える偶然なんかじゃない。つまりこれは俺が書いた物語と、この世界は――境界を持たずに繋がっているのかもしれないという証明。
確かめるように、可能な限り物語の内容を思い出そうと頭の中を探る。すると夢の中で聞いた声がどこからともなく俺に語り掛けてくる。
『没案。設定ミス。未完成。矛盾だらけのお前に存在価値ってあるのかね?』
五月蠅い……矛盾なんて無い 俺は俺だ。本名は山本誠。19歳 大学生で気づいたら英雄マコトの身体に転生していた。今は誠一郎と名乗って、ラグ姐とマリィとモチャと魔王国へと旅をしている。
『それで?』
マリィは俺の為に力を使い果たして、赤ん坊の姿になって……それを戻すのが旅の目的で
『それで?』
”世界を救い、忘れ去られた英雄が、変哲もない日常を謳歌している件”という物語を昔書いていて……今の俺には物語の綴り手としてか、なぜか妄想を具現化する力が備わっていて……
『どんな物語?』
タイトル通りだ。終末編には……黒乃刃……が登場する……英雄の神殺しの剣で……
あれほど必死に書いていたはずのシーン。鮮明に浮かぶはずの物語の断片。
――肝心な部分に差し掛かると、靄がかかったみたいに白く途切れてしまう。
まるで、誰かに意図的に消されたみたいに。
「……おかしい。そんなはず、ない」
こみ上げる動揺に、呼吸が乱れるが声は絶え間なく頭に響く。
『家族はいるのか?』
本当の家族は皆死んだ 今は義理の母が一人。
『義理の母親は今どこにいる?』
魔王国ゼルヴァニア。15年前に俺を……
勝手に答えるな!!知らないそんな国!! 俺の両親も妹もまだ生きてる筈なんだ!!
必死に否定したが既に遅い。俺はもう気付いてしまった。
自分でも驚く程、己が歪で空白である事。そして気づいてもなお、それを良しとしようとする思考に。
目を背ければいいだけの話なのに目を背けれない。それを良しとしない得体のしれない意思に。
自分なのに自分じゃない。なのに自分の妄想が現実とリンクしている矛盾に。
「ウッ……気持ち悪い……」
思わず立っていられずよろめき、周りにいた人混みからはどよめきが広がるも、中から込み上げる物が抑えられず、俺は道端に吐瀉物をぶちまけた。
朝食として食べた物がボタボタと溢れ出し、その音と口元を伝う不快感だけが今を妄想ではなく現実だと肯定してくれている様な気がした。
ざわめきが広がる。祈っていた人々が忌避するように一歩、二歩と距離を取っていく。
「……あの、大丈夫ですか?」
澄んだ女の声が、ざわめきの中でも不思議と鮮明に届いた。
顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、群衆をかき分けて近づいてきた一人の女性。
金色の髪を後ろで束ね、落ち着いた碧眼がこちらを真っ直ぐに見据えている。衣装は華美ではなく質素だが、そこに隠しきれない気品が漂っている。
「立てますか? 顔色が……とても悪い」
差し出された白い手を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……セレナ……様?」
名前が漏れたのを聞き、彼女は驚いたように目を瞬かせる。
やがて、納得したように小さく頷いた。
「もしやとは思いましたが……やはり。昨日、ラグド様とご一緒にいらした方ですね」
彼女の手を取り、よろめきながらも立ち上がると、セレナは俺の腕を肩に担ぎなおし、華奢な体躯からは想像もできないほど力強く、勇者と英雄像の傍らのベンチへと導いてくれた。
「……すみません。手を煩わせてしまって」
「人を助けるのは、勇者として当然のことです。――まぁ、平和な今では、何の役にも立たない称号ではありますが」
そう自嘲気味に口にしながらも、セレナはふっと柔らかく微笑む。
「今日はラグド様と一緒ではないのですね。……冒険者仲間なのですか?」
「そういえば、名乗ってませんでしたね。すみません。誠一郎って言います。ラグ姐とは……パーティ仲間であり、居候でもある、ってところです」
「ラグ姐……フフッ。あ、失礼しました。なんだか親しみのこもった呼び方をされるのですね。てっきり恋仲なのかと、勝手に妄想してしまいました」
妄想――その単語に、胸の奥が妙にざわつく。
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
「そんな……俺には勿体ないですよ。彼女は、自分をしっかりと持っている人です。今も、過去も、未来さえも背負って……自分だけじゃなく、他人のことまでまとめて抱え込むような人で」
言葉を重ねるうちに、自分の声が少し熱を帯びているのに気づく。
その眩しさに比べて、俺は……。
「だから俺なんかじゃ、とても……」
最後の言葉は、喉に詰まって掠れてしまった。
しばしの沈黙のあと、セレナは小さく笑う。
それは茶化すようなものではなく、どこか優しく包み込むような微笑。
「そうやって卑下するあたり……余計に怪しいですね」
「え……?」
「本当に大切に思っているからこそ、そう言葉にしてしまうのでしょう? ――少なくとも、ラグド様を語る貴方の目は、とても真剣でした」
碧眼がまっすぐ俺を見据えている。その視線に射抜かれたように、息が詰まった。
ただのからかいじゃない。本心を見抜くような眼差し。
「……セレナ様は、人を見抜くのがお得意なんですね」
「ええ。父――勇者の娘として育てられましたから。剣の振り方よりも、人の心の在り方をよく見て学べと、そう教えられてきました」
ふっと遠くを見るように、彼女は視線を逸らす。
その横顔に、一瞬だけ影が差したように見えた。
「……けれど、そうして身につけた目も、平和になった今では役立つ場がありません。ですから、こうして誰かを支えることしかできないのです」
「……それが、役に立たないなんて……」
気づけば、思わず口を挟んでいた。
声が震えていたのは、彼女に向けたものなのか、それとも自分に言い聞かせたのか。
セレナは一瞬驚いたように目を瞬き、やがて柔らかく笑った。
その笑みを見ていると、胸の奥のざわつきがほんの少し和らぐ。
ふと、口が動いていた。
「……あの。勇者様って、どんな方だったんですか?」
問いかけた瞬間、セレナの瞳が揺れた。
まるで胸の奥に閉じ込めていた記憶を、そっと掘り返されたように。
「……父は、そうですね」
彼女は視線を落とし、少し考えるように言葉を選ぶ。
「強い人でした。もちろん剣も魔法も……けれど、それ以上に――弱さを抱えた人を見捨てられない人。誰よりも不器用で、誰よりも優しい人でした」
声色が少しだけ震えている。
群衆のざわめきが遠ざかり、俺の耳には彼女の言葉だけが届いていた。
「……けれど、同時に、どこか孤独な人でもありました。皆から讃えられていても……父自身は、いつも何かを置いてきてしまったような顔をしていて」
セレナの碧眼が、ちらりと俺を映す。
それはほんの一瞬だったが、まるで「同じものを見ていませんか?」と問いかけられているような視線だった。
「……だから、私は思うのです。勇者という称号は、必ずしも幸福とは結びつかないのだと」
彼女はわずかに息を整えると、淡々と告げた。
「そして――父は最後、魔王国に仕える“魔勇者”に敗れたと……そう、私は聞かされています」
静かな言葉だったが、その余韻は胸の奥に重く沈んだ。
まるで見えない鎖がひとつ、この世界と俺を繋いだように。
「……魔勇者、か」
胸の内で反芻した瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
記憶の靄の奥に、確かにそんな存在を描こうとした痕跡はある気がする。
けれど、鮮明なはずの物語は、またも白く途切れてしまう。
……知りたい。確かめたい。
俺の知る“妄想”と、彼女が語る“現実”が、どう交わっているのか。
「……セレナ様」
気づけば声を出していた。
「もし……お時間を頂けるなら。勇者様のこと、英雄様のこと……そして、この国の歴史についても、聞かせていただけませんか 俺、その為にこの聖剣を見に来たんです。」
自分でも驚くほど真剣な声色。その願いは好奇心じゃない。
自分の立ち位置を、存在の意味を――どうしても確かめたかった。
英雄でも大学生でもない……もしかしたらマコトでもない。何者でもない自分として。
セレナは少し目を瞬き、それから穏やかに微笑んだ。
「ええ。喜んで……とまでは言えませんが、語れる範囲でよければ」
彼女の碧眼はどこまでも澄んでいて、その奥にわずかな迷いと、それ以上に強い決意が宿っていた。




