第三十三話 夢は愚者を嘲笑う
暖かい光。冬の午後。
どこか懐かしい家のリビングで俺はコタツに潜り込み、ぬくもりに身を委ねていた。
テレビの音。母親の笑い声。父親のくしゃみ。
ソファでは、妹が毛布にくるまって寝転がりながら、お菓子をポリポリかじっている。
台所からは、甘辛い煮物の匂いが漂ってきてすべてが穏やかで、暖かくて優しくて――“懐かしい”。
けれど。
……なんだ、この違和感。
「……っ」
ぽつりと名前を呼ぼうとしたのに出てこない。何度繰り返しても、喉の奥に何かが引っかかる。
顔も、輪郭すらも思い出せない。
目の前にいるはずの妹の顔が――真っ黒に“塗り潰されている”。
それでも、彼女は笑っているようだった。言葉を発し、身振りを交えながら、何かを話している。
けれどその声は、どこか遠く、ノイズのようにぶれて耳に届かない。
「……っ、なんだこれ……父さん!! 母さん!! い、妹の顔が……声が……ッ!」
叫んだ瞬間だった。
母の顔が、蝋細工のように溶け落ち、父の輪郭がひび割れ、テレビが砂嵐に変わる。
すべての色が灰に染まり、世界の端から黒い“波”のようなものが迫ってくる。
視界が白黒のノイズで覆われていく中で、どこかから、声が囁いた。
『──お前の過去は、最初から存在しない』
意味のわからないその言葉に、思わず耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じる。
だが、声はなおも耳の奥に染み入るように続いた。
『まだ続けるつもりか。滑稽だな──いつまで、その“主人公ごっこ”を続けるつもりだ?』
『気づいてる筈だ。十四万文字も茶番を繰り返し、英雄を気取り、仲間に囲まれ、少女に慕われ……どれもこれも、他人の手で与えられた幻だと言う事を』
『お前の物語など、誰にも望まれていない。誰も読み返さない。誰も覚えてなどいない。』
『没案。設定ミス。未完成。矛盾だらけ……それでも、まだ“自分”でいられるとでも?』
胸の奥を、爪でえぐられるような痛みが走り、飲み込めない、消化できない言葉たちが、心を押し潰していく。
ーーやめてくれ、と思った。
けれど、口が聞けない。目も開けられない。ただ、ただ”その言葉”だけが頭の中を繰り返し響いていた。
どれ程の時間が経ったのかわからない。
………気がつけば、俺は真っ白な空間に立っていた。空も地もない。ただただ白い、無音の世界。
その中央に、ひとつだけ――背中がある。緋色のマントを纏った“男”の背中。
風もないのに、マントだけが静かに揺れていた。俺はその背中を知っている。
──英雄マコト。
なぜ知っているのかはわからない。けれど、確かに知っている。
呼びかけようとしたが、声が出ない。
そしてその背中が、ぽつりと呟いた。
『……攻撃されている。』
その言葉と同時に、視界の端がじわじわと黒く染まっていく。
さっきまでの“夢”が夢であると理解した瞬間、何かが急激に崩れ始める。
『過去のない君だから進める。歪な君だから──』
「……な、何言って……」
『君が守るべきは、“今”と“未来”だけだ。……忘れるな』
そう言い残し、男の背中は静かに遠ざかり、足元から、世界がヒビ割れのように軋み始め、
──ぱきん、と音が鳴ると共に、白い世界は粉々に砕け散った。
「……ん、ぁ……」
重たい意識が、底のほうからゆっくり浮かび上がる。
何かが、ぺた、ぺたと頬に触れて……くすぐったいような、やさしいような、そんな感触。
「……っ、ぅ……あ?」
ぼんやりと目を開けると、視界いっぱいに広がるのは小さな顔。
丸っこいほっぺ。きょとんとした赤い瞳。
赤ん坊のマリィが、俺の頬をぺたぺたと四つん這いの姿勢で叩いていた。
「んぺ……」
言葉にならない吐息のような声と一緒に、またぺちんと軽く頬を触られる。
どうやら起きてほしくてやってたみたいだ。
「……マリィ……」
寝ぼけた頭でそう呟くと、彼女はなぜか満足そうに小さくうなずき、そのまま、ぽすんと俺の胸の上に倒れ込んできた。
小さな体の体温が、現実の重みとしてしっかりと胸に乗る。
夢の中の“あたたかさ”とは、どこか違う。これは──たしかに「今」なんだ。
「……戻ってきたのか……俺」
無意識に出た。最初からどこにも行っていないのに。
俺は天井を見上げながら、胸の上で丸くなったマリィの背中をそっと撫でた。
ぐに、と顔を押しつけてくるその仕草が、くすぐったくて、愛おしい。
ほんの少しだけ、喉の奥がつまったような、泣きそうな気持ちになる。
それと同時に自然と笑みがこぼれた。
「おはよう、マリィ……」
彼女は返事の代わりに、またひとつ、ぺちんと俺の頬を叩く。
──それは、紛れもない“現実”の音だ。
……けれど。
その“現実”にも、妙なざらつきを感じる……言い知れない不安が胸の奥で疼き続けている。
夢の中のあの声「攻撃を受けている」と言った、“英雄”の背中。
「……気のせいじゃない。あれは、何かの警告だろう……」
俺はマリィを抱きかかえ、部屋をそっと抜け出す。
誰かに、確かめなければならない。この違和感が、ただの夢か、それとも。
まず向かったのは──ラグ姐の部屋だった。 確か2階の突き当たりの部屋だと言っていたはず
廊下の先、普段なら中からイビキやら、寝返りの音やらが聞こえてきそうなその部屋は、しんと静まり返っている。
「ラグ姐……起きてる?」
小声で呼びかけながら、ドアノブをゆっくり捻ると扉は開いており、部屋の奥のベットの上でラグ姐が横になっていた。
いつもの寝姿。乱れた髪、寝癖のままの耳。呼吸もしている。胸がかすかに上下しているのが見える。
……けれど、それだけだった。
「……ラグ姐?」
近づいて、しゃがみ込み、そっと肩に触れる。
「敵だッ!! 起きてッ!!」
大きな声でそう叫んではっきりと呼びかけながら、揺すってみた。
普段の彼女なら起きない筈がないから。
しかし彼女は幸せそうな表情で全く起きる気配がなく、マリィが俺を起こしてくれた時のように軽く頬にも触れてみた。
やはり──目を覚まさない。
強く、肩をゆすり、布団がくしゃりと音を立てるが、彼女のまぶたは一向に開かなかった。
まるで、深すぎる眠りに囚われているみたいに。
「っ……」
息が詰まりそうになりながらマリィを腕の中で抱え直す。
彼女は俺に身を預けたまま、ただ静かにこちらを見ていた。
まるで「わかっている」と言いたげに、瞬きもせずに。
俺は立ち上がる。さっきまで夢の中にいたというのに、体はもう完全に覚醒していた。
この静けさは、ただの眠りじゃない。
この眠りは、ただの疲れじゃない。
心の奥底で、何かが確かに告げている。
これは、現実の中に紛れ込んだ“異常”だ。
俺はラグ姐の部屋を後にし、階段を下りる。
木の床を踏むたびに、静かすぎる館内にわずかな音が響く。誰の気配もしない。
耳を澄ませば、かすかに夜風が窓を揺らす音だけが、外から聞こえていた。
「……モチャの部屋も、確かこの奥だったよな」
マリィを抱いたまま、もうひとつの部屋──モチャの部屋の扉の前に立つ。
ノックはしない。少しだけ躊躇してから、そっと取っ手に触れる。
扉は音もなく開いた。
そして──そこにも、まったく同じ光景が広がっていた。
ベッドの上、仰向けで眠るモチャ。
両手を胸元で組み、まるで祈るように静かに呼吸を繰り返している。
安らかすぎる。寝返りの痕跡もなく、まるで最初からそこに“配置”されたかのような、整った寝姿。
……まるで、死者のようだ。
「……モチャも、か」
冷たい汗が背筋を伝う。喉の奥に、答えのない問いがひっかかる。
無意識に唇を噛む。
仲間たちは皆、眠っている。まるで示し合わせたかのように、深く、静かに。
けれど──俺は、目を覚ました。
マリィも、起きていた………これは偶然ではない筈だ。そう直感が告げている。
「っ……くそ……」
短く吐き捨て、扉をそっと閉じる。
重たい空気を振り払うように、宿の玄関へと向かい、木製の扉を開け放つと、冷たい夜気が頬を撫でる。
……静かだ。
村の通りには、灯りのひとつもなく、風の音さえ消え失せていた。
まるで、時間そのものが止まってしまったような、凍てつくような静寂。
一歩、外に出ると気づいた。
──家々の窓。わずかな隙間から漏れる淡い光の向こうに、人影が見える。
誰もが、安らかな寝顔を浮かべて……まるで夢の中で、幸福に包まれているかのように。
「……っ」
足が止まり、マリィを抱く腕に、じわりと汗がにじむ。
現実味が薄れていく。目の前の風景が、作り物めいて感じられる。
……これが、偶然で済むかよ
そう思った瞬間、風の中に──不自然な音が混ざった。
女の笑い声。
どこか浮ついたような、耳元に忍び寄るような……その声は、あまりにも生々しく、作り笑いのように軽薄で……
「こんばんは 三時間ぶり位かな?」
その声に反応して振り返ると、宿の屋根の上、月を背にして――少女が座っている。
ボンテージ姿で蝙蝠の羽を生やした細身の体、艶やかな赤髪、そして、やけに色気のある微笑み。
その姿に、思わず息を呑む。
そして、視線が交錯したその瞬間――
「……ネリュス……」
──夜の静寂が、いっそう深く染み込んでいく。




