第三十二話 村は夢に微睡む
ギシ、ギシ……と木製の車輪がきしむ音が、周囲の静寂に溶けていく。
俺たちの乗ったボロ馬車は、〈カドルの森〉を抜けた先の細道を進み、やがて開けた丘の麓に広がる、霧に包まれた村に辿り着いた。
「……ここが、月哭の村?」
手綱を引くモチャが、ちらとこちらを見て小さく頷く。
「ええ。“月の加護を受ける、幸せな村”と、そう名を馳せておりますな」
確かに、どこか幻想的な雰囲気。空気は澄んでいて、匂いも悪くない。
苔むした石畳の道。灰色の石壁に、木骨組みを組み合わせたような家々が並び、屋根は丸太梁に赤褐色の瓦葺き。
一軒一軒はよく手入れされているが、どこか整いすぎた人工美が漂っていた。
花壇には彩り豊かな草花が咲いているのに、音がなく、風もない。
まるで時間そのものが止まってしまったかのように。
「なんかでも……静かすぎない?」
俺が呟くと、ラグ姐が後ろから馬車の縁をぺしっと叩いた。
「……田舎じゃこんなもんだろ……とは言いたいが、エクレ村の一件もある。警戒して損はねぇだろう」
明かりのついた家がいくつもあるのに、話し声がまるでしない。
玄関の戸は開け放たれ、窓からは柔らかな灯が硝子越しに漏れているのに、そこに“人の気配”だけが、ごっそりと抜け落ちていた……まるで皆、もう眠ってしまったかのように。
周囲に意識を向けつつも俺たちは馬車を止め、簡単に荷を降ろし始める。
すると突然、どこからともなく声がした。
「よくぞ、おいでくださいました」
振り向けば、月明かりの下、村の入り口に立つ老人が一人。
にこやかに、しかし無言の圧を纏ってこちらを見つめている。
その顔には皺が深く刻まれ、手には銀の装飾が施された杖。
けれど、目だけが妙に澄んでいて、まるで曇りひとつない鏡のようだった。
悪そうな人ではなさそう……でも、妙に印象が薄い。
「旅の方々、どうぞお疲れでしょう。今夜はこの村の“恵み”に、ゆっくりとお休みくださいませ」
「ええと……村長さん、ですか?」
「いえ、ただの案内役でございます」
老人は微笑みを崩さないまま、俺の問いに首を振る。
「宿はこの先を行った広場中央にございます。今宵は良き月。すべての夢が穏やかでありますように──」
その言葉を最後に、彼はすっと引き下がり、霧の中に溶けていった。
……今の、なんだったんだ。
老人の言葉通り、小さな広場の中央、霧に浮かぶように建っていたのは二階建ての宿屋。
白い石壁に深い木の窓枠、黒鉄の取っ手がついた重厚な扉。
看板には手書きの文字で、古めかしい書体でこう記されている。
【旅人宿 月影亭】
扉の上には錬鉄製のランタンが吊るされ、硝子越しに温かなオレンジ色の明かりが揺れていた。
「……ここが、宿屋か」
「ふふ。悪くない雰囲気ですねぇ」
モチャが目を細める。
一方、ラグ姐は眉をしかめていた。
「……人の声ひとつ聞こえない村で、こんな立派な宿屋だけが営業中? 奇妙すぎんだろ」
その指摘はもっともだ。立派すぎる。アングラント中層街の宿屋だって、こんなに整ってはいない。
けれど、ラグ姐の言葉が終わるよりも早く、宿の扉が内側から開いた。
「おかえりなさ――あ、いらっしゃいませっ☆」
ぱっと笑顔を咲かせて現れたのは、小柄な少女だった。ふわりと舞う赤毛。
透き通るような肌に、どこか浮世離れした空気。
「旅のお客様ですよね? わたし、ネリュスっていいます。今日からお世話させてもらいますね!」
にっこりと、まるでマスコットのように笑って手を振る。
「今夜宿泊したいのですが……魔族の拙者も大丈夫ですかな?」
「勿論っ! 旅人さんはみーんなお客様♪ 一泊目は無料だからどんどん泊まってってよ〜 赤字になっちゃうしぃ〜」
彼女は笑いながらわざとらしく泣き真似をして、カウンターの下から革張りの帳簿と羽ペンを取り出す。
「こちら宿泊者名簿に名前をお願いします!」
モチャは「台帳は拙者が」と言って、達筆な字で「モチャ=ダンシュペン=グリコポン」と書く。
突然の事で吹き出しそうになると共に、マリィが彼に与えた正式な名前に懐かしさが胸に残った。
ネリュスは台帳を覗き込み、すっと俺の方へ寄ってきて見上げる。……凄く近い。目が大きい。可愛い。
「君が……ええと、誠一郎くん?」
「……あ、はい。そうですけど……」
「ふふ、そっかぁ……ふーん……」
手を後ろに組んだネリュスが、距離感を詰めてじーっと見上げてくる。
ほんの指一本分まで顔が近づく。大きな瞳に、表情の読めない笑顔……なんとなく、居心地が悪い。
「……な、なんです?」
「ううん、べつにー?」
そう言いながら、ネリュスは俺の腕の中のマリィに視線を移し──そのまま目を丸くした。
「それで……この子、マリィって言うの?」
「はい。もしかして知ってたり……します?」
「あはは誠一郎君おもしろ〜い! 流石に赤ちゃんの知り合いはいないよ〜」
そう笑いながらも、ネリュスの瞳はマリィから離れず、どこか“懐かしむような色”が混じっていた。
「ただ……なんだか、懐かしいような、変な感じがして」
そう言ってネリュスは、曖昧な笑みのまま、そっとマリィの頬へ指を差し出した――
――バシッ!!
突然、眠っているように見えたマリィの意識が目覚め、その指を正確に弾いた。
「えっ」
赤子にあるまじき反応速度と的確な動作。
衝撃に固まるネリュス。そして、俺の腕の中でマリィが暴れはじめる。
「あぶだッ! まぬまぇへす おぶびょうぼも ねみゅず」
「うぉっ!? マリィ……急にどうした。さっきまで大人しかったのに……!」
「そりゃあな、寝起きに知らねぇ奴から顔つつかれたらキレるわな。――貸しな、変わってやるよ」
ラグ姐が肩をすくめながら俺の腕からマリィを受け取ると、彼女は小さく唸ったあとでラグ姐の胸に頭をこつんと預け、再び落ち着きを取り戻した。
「ネリュスさん、ごめんなさい。怪我してない? この子、ちょっと……特殊だから」
「う、うん! だ、大丈夫! ビックリしただけで……」
ネリュスは手を振って笑い直すと、くるりと回ってカウンターに戻る。
「怒らせちゃったお詫びに、朝食も無料にさせてもらうねっ!」
「えっ、いいんですか?」
「いいのいいの! 村に滞在中は、みんな幸せであってほしいし……ほんの気持ちだよ」
「ありがたいけど……アタシら一泊しかしないぞ? それで本当にやってけんのか?」
「大丈夫! お金より……ぐっすり眠って、いい夢を見られることの方が、大事だと思うから」
ネリュスはそう言って、口元に人差し指を当てる。
「あっ、でも難しいこと考えちゃダメだよ? せっかくの休息なんだから」
「……それ、余計に気になる言い方だよな」
ラグ姐が肩をすくめる一方で、モチャは意味ありげに目を細める。
その“あまりに完璧すぎる接客”と“作り物めいた空気”に、警戒心がじわりと湧いてくる。
だが――ネリュス自身は、どこか本当に楽しそうな顔で笑っていた。
悪意や下心というよりは、まるで“ここにいること自体が喜び”みたいな、純粋すぎる感情。
ラグ姐とモチャは別々の部屋へと案内されていき、その間、マリィは再び俺の腕の中でまどろみはじめていた。
「おまたせっ♪ 誠一郎くんとマリィちゃんは、こちらの“特別なお部屋”で!」
「特別?」
ネリュスに案内された部屋は、暖炉の炎が静かに揺れる、こぢんまりとした洋間だった。
床には色褪せたウールのカーペット。壁には古めかしいタペストリーと燭台。
窓際の小さなテーブルには、陶器のマグカップと鉄製のケトルが置かれ、湯気とともにハーブの香りが漂っている。
寝具は、羽毛入りのふかふかのベッドに、白いレースのかかった揺りかごまで。
「……まさか、ここまで準備されてるとは」
「ふふっ、旅人さんに赤ちゃんがいることなんて滅多にないからね。 オーナーには反対されたんだけど、あったら絶対喜ぶと思ってずっと用意してたの」
ネリュスは笑って、ベッドに寝かせたマリィの毛布をふんわりと整える。
「赤ちゃんってやっぱり可愛いねぇ」
「マリィは特別可愛いよ」
「親バカだね〜。ふふっ」
ネリュスは肩を揺らして笑いながら、扉の前へと下がる。
「じゃあ、あとは二人でごゆっくり。……良い夢をね」
彼女は軽くお辞儀をして、音もなく部屋を後にした。
「……ふぅ」
ベッドに身を沈めた瞬間、全身が重力に引かれるように沈み込んだ。
背中に伝わる柔らかさ。足元には湯たんぽのような温もり。
暖炉の火がまだ残っていて、体の芯がじんわりとほぐれていく。
ぽつりと息をついて、俺も目を閉じた。
ほんの三日。されど三日。
アングラントを離れ、見送られ、村へ辿り着くまでの間に、心も体も知らず削れていたらしい。
マリィの寝息が、すぅ……すぅ……と静かなリズムを刻む。その音が、どこか心地よくて――
(この村にいると……眠ること自体が、何かご褒美みたいに感じるな)
ふと、そんな妙なことを思っていた。
白く塗られた天井。
暖炉の揺らめきが影を作り、それが波紋のようにゆらゆらと広がっていく。
その光景をぼんやりと眺めているうちに、まぶたが重くなってきた。思考がにじみ、輪郭が曖昧になる。
(……まあ、今日は……もう、何も……ないだろ)
言葉にならない言葉を最後に、俺の意識は深く沈んでいった。
まるで、眠りの淵にすうっと引き込まれるように――




