第三十一話 赤子は眠り、馬車は揺れる
ついに、魔王国への出発の日がやってきた。
アングラントの東門近く、馬車停留所には旅商人や荷運びの一団が少しずつ集まり始めている。
その片隅で、朝焼けに照らされながら、俺たちは一台の古びた馬車に荷物を積み込んでいた。
マリィをそっと荷台の簡易ベッドに寝かせると、小さな唇がモゾモゾと動く。
まるで、笑っているようにも見えた。
クッション、毛布、哺乳器、簡易ベッド──。
どれも、長旅を少しでも快適にするための最低限の準備だった。
「……よし、全部積めたね。モチャ」
「老馬にボロ馬車、とはなりますがな。お二人には、もっと快適に過ごしていただきたかった所……」
そう言いながら、モチャは馬車の車輪をコンと軽く叩き、満足げにうなずいた。
「正直、徒歩かなって覚悟してたから十分だよ。ありがとね、モチャ」
「ふっ……身に余るお言葉ですぞ」
笑い合いながらも、胸の奥にはやっぱり小さな緊張がくすぶっている。
──そのとき、背後から駆けてくる足音。
振り返ると、スミア、ハル、マルコの3人の子供たちが小走りでこちらへ向かってきていた。
「……見送りに来てくれたの!?」
「来ないわけないでしょ。しゃ、舎弟の新たな旅立ちなんだから」
スミアは肩で息をしながら荷車のそばに立ち、何か言い淀む
「お、ついに部屋住みからランクアップ? やったね!」
「う、うるさいっ!! ……絶対、帰ってきなさいよ。戻ったらこき使ってやるんだから!」
言い終えるなり、スミアはそっぽを向く。
でも、その目尻がちょっとだけ赤くなっているのが見える。
不安げな表情のハルは、何かを思い出すようにぽつりと口を開いた。
「誠一にーちゃん……その……気をつけてね」
その言葉を受けて、普段はおとなしいマルコが珍しく声を張る。
「ハル、きっと大丈夫……だよ!! 僕、見てたから知ってるんだ。誠一にーちゃん、すっごく強いもん。ラグ姐よりも、もしかしたら──」
──ドン!!
「誰が弱ぇって!?」
突然、怒鳴り声と共に背中に殴られたような衝撃が走る。
「ひ、ひああぁ!?」
マルコが飛び上がって逃げた先には、肩で風を切るラグ姐と、その腕に抱かれたポルカの姿があった。
「ったく……言う様になったじゃねぇか、マルコ。嬉しいぞ」
彼女はマルコの頭をくしゃくしゃに撫で、ポルカを地面に降ろしてからドカッと荷台に飛び乗る。
「ら、ラグド氏?……拙者ら、そろそろ出発いたしますので……降りていただけると……」
「アタシも行く。」
「「えぇッ!?」」
ラグ姐はそっぽを向いたまま腕を組み、どっかりと腰を下ろす。
だが、その態度に反して、耳の先がほんのり赤く染まっているのが見えた。
「が、ガキ共が誠一郎を助けてやれって、あまりにしつけぇもんだから」
強気な口調の裏で、言葉がどこか頼りなく揺れる。それが、彼女の素直じゃない優しさに思えた。
誤魔化すようにマントを引き上げたその仕草が、余計に気持ちを隠せていない。
「き、気持ちはありがたいですが………正直カツカツな旅路にて……主に物資と金が…」
モチャが言いかけたところで、ラグ姐はギロッと睨んで顎をくいっとしゃくる
その先に目をやると、包帯だらけのジンに、木箱を運ぶヴェル美。さらには、ヴァイスさんと受付のアンナさんまで姿を見せていた。
「『獣の巣』全員集合って感じかしらぁ?」
「それ言われると俺、いささか場違い感、感じるのでやめてほしいですかね、クロエさん」
「『ノラ』としてならどうだ?」
「親父さん、それ確実に俺をハブろうとしてますよね」
「『家族』でいいんじゃない、父さん? 可愛い妹の初めてのお願いだし?」
「ってことはお義父って呼んでもいいっすか?!」
「その虚言……イエナちゃんに殴られて懲りたでしょ。やめときなさいよ」
一瞬の静寂のあと、わっと笑いが広がる。
包帯だらけのジンは、片腕を三角巾で吊っているくせに、口元にはいつもの余裕そうな笑みを浮かべていいて、どこか無理をしているのは明らかなのに、それをおくびにも出さない姿は、らしいといえばらしい。
その隣で、ヴェル美が馬車に木箱と水の入った樽を積み込む。
さらに視線を巡らせれば、ヴァイスさんが大きな体を無言で立たせたまま、その場の空気を締めている。
その傍らには受付のアンナさん。腕を組みながら、あからさまに呆れた顔をしていたが……その目の奥に、何か言いそびれたような光があった。
……まさか、みんな来てくれるなんて。
ほんの冗談みたいな見送りが、こんなにも温かく、重たい。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「……ジンさん、怪我はもう大丈夫なんですか?」
俺がそう訊ねると、ジンは軽く肩をすくめてみせる。
「全然治ってねぇ。けど……恩人の見送りくらいは顔を出すさ。気をつけて行って来いよ」
その声は、どこか息が浅くて、傷の奥にまだ痛みが残っていることを隠しきれていなかった。
それでも、笑みを浮かべて立っているあたり──やっぱり、らしい人だ。
「次はアタシよ、どいてどいて♪ ……私たちのサプライズ、楽しんでくれた?」
怪我人のジンを押しのけながら、ヴェル美が小さくくすくす笑い、頬に手を添えて覗き込んでくる。
「……うん。泣きそう」
正直に答えると、彼女はぱあっと笑う。
「ふふ。ならよかった! あ、私からはお土産もあるのよ」
そう言って、彼女は持っていた小さな布袋を俺に手渡してくる。
「これは……?」
中を覗き込んだ俺の目に映ったのは、ガスマスクの様なマスクが二つと、かつて彼が弄っていたスマホのような端末だった。
「魔大陸に行くんでしょ? ならこれは必須。マナ計測魔導端末、そして防瘴マスク。イエナちゃんと二人分入れておいたわ。操作メモ、ちゃんと読んでね」
「ヴェル美さん……ありがとう」
「受けた恩を返してるだけ。気にしないで。それに……ここだけの話──」
彼女は声を潜めて、ふっと笑う。
「イエナちゃん……あなたのために相当動いてたのよ。『魔王国に行くって言いだしたあのバカ!』とか言いながら、ね?」
「”あ”ぁッ!? なんか言ったかヴ”ェ”ル”美”!!」
「なーんにも~? さ、別れのハグでもしておく?」
「いや……遠慮しておきまっす」
咄嗟に口を濁した。
既に……本当に泣きそうだったから
何気ない笑いと、見慣れた顔ぶれ。
たったそれだけのことが、こんなに胸を締め付けるなんて思ってもみなかった。
そのとき、不意にヴァイスさんが一歩、俺のほうへと足を進める。
「誠一郎」
「……はい」
「泣くな」
ギルマスモードの彼の一言は低く、短い。けれどその声音には、まるで不器用な父親が子に掛けるような、奇妙な優しさが滲んでいた。
「……泣いてませんよ」
「ならよし。……『獣の巣』は私達が守っておく いつでも帰ってこい」
それだけ言うと、ヴァイスさんはふいっと背を向けた。
まるで──泣き顔を見られたくないのは、そっちなんじゃないかって思えるような背中だった。
「……いきましょうぞ マスター」
モチャの一言に俺は馬車の荷台に乗り込んだ。モチャが手綱を引き、ボロ馬車がギシリと音を立て、老馬が鼻を鳴らす。
「気をつけてねー!」
「絶対帰ってこーい!」
「お土産、魔王国限定の変なやつがいい!!」
誰が言ったかも、もう判別できないほどの声が後ろから飛んでくる。
でも俺は、もう一度だけ後ろを振り返って、静かに手を振った。
──きっとまた帰ってくる。そう思わせてくれる顔が、そこにはあった。
馬車はゆっくりと東門を抜け、アングラントの街を離れていく。
目指すは北の港町。
そこから船に乗り、“魔王国”があるという遥かなる魔大陸へ渡るためだ。
とはいえ──その道のりは長く、物資も心許ない。
だから俺たちは、道中の村や里に立ち寄りながら、少しずつ北を目指すことになる。
「まずは〈カドルの森〉の北にある集落を目指しますな。月哭の村──最近は旅人にも評判がいいそうで」
手綱を握るモチャが、ふと振り返って微笑んだ。
「評判……?」
「ええ。物価はほとんどタダみたいなもので、宿も無料だとか。食事も出ますし、村人は誰もが親切。寄り道には最適でしょう」
「逆に怪しくねぇか、それ……?」
ラグ姐が鼻を鳴らす。
「わかりますぞ。そのあたり、私も少し気にはなっておりまして」
モチャの言葉に、ラグ姐がわずかに目を細めた。
「そんな都合よく“幸せすぎる村”があんのかねぇ」
「タダ程怖いものは無いって言うしなぁ……。」
俺はそう言って、荷台で眠るマリィの頭をそっと撫でた。
まだ何も起きていない。でも、どこかで感じる“ひっかかり”は、俺たち全員の胸に残っている。
ギシリ、と馬車が古びた音を立て、朝焼けの街道を、三人と一人と一匹を乗せたボロ馬車が静かに走り出す。
──寄り道のはずが、物語の本筋を変える一歩になるとも知らずに。




