幕間 影の祈り
寝静まった「獣の巣」。
外では虫の声がかすかに響き、建物の隅々には夜の冷えが静かに染み込んでいた。
俺は、薄暗い部屋の天井をぼんやりと見つめていた。
眠れない……いや、眠れるはずがなかった。
ヴェル美の言葉、マリィの複雑な表情、ラグ姐のわずかな怯え──それらが脳内で渦巻き、消えることなくぐるぐると回り続けている。
(……俺は、一体何なんだ?)
まぶたを閉じても、あの日の出来事が鮮明に浮かんでくる。
エクレ村での激戦。身体が勝手に動いたあの感覚。確かにあの時の俺は“英雄”だった。
だけど、この身体の元の持ち主、その正体を何も知らない。記憶もない。単なる誠……いや、誠一郎だ。
(なのに……みんな、俺に何かを重ねてくる)
静かな部屋のドアが、音もなくそっと開いた。
「……起きてると思った」
その声に、俺は軽く身を起こす。
月明かりの下、影のように静かにマリィが立っていた。
彼女のワンピースの裾がわずかに揺れ、足音はまるで風のように消え入る。
「……どうしたの、マリィ」
「眠れないのは、あなただけじゃない」
そう言って、マリィは許されたかのように部屋へ入り込み、ベッドの端に静かに腰を下ろした。
いつもの無表情とは違う、どこか言葉を選んでいるような表情がそこにあった。
「……さっきの話、考えてたの?」
「うん。考えても、答えは見つからないけどね」
「……何が聞きたい?」
マリィが、ふっと問いを投げかける。
その声はいつも通り静かで冷静だが、その奥に微かな揺らぎが感じられた。
まるで、今だけは“扉を開いてもいい”と許されているかのようで、俺は思わず言葉に詰まる。
「……秘密の女はいいの? いつも自分のこと話したがらないじゃないか」
「うん。話したくない。……けど、今だけは特別」
「……どうして?」
「“対価”をもらったから」
マリィはそう言って、じっと俺を見つめる。
その瞳には、真剣な光が宿り、まるで何かを“信じようとしている”目だった。
「……今日、あなたは言った。
“今の俺は英雄じゃない”って。けど、“守りたい”と――
それが、私にとっての対価」
俺は息を呑んだ。
「つまり……その言葉と引き換えに、答えてくれるってこと?」
「そう。でも条件がある」
マリィは小さく首を傾げる。
「何を聞いてもいい。でも、どんな答えを聞いても──“今のあなた”でいて。
過去に呑まれないで。英雄にならないで」
その声は静かだが、切実に響く。
「……わかった。約束するよ、マリィ。俺は“誠一郎”のままでいる。どんな答えを聞いても、俺は俺だ」
マリィは、ほんの少しだけ目を細め、優しく頷いた。
「──じゃあ、聞いて」
俺は少しだけ間を置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ヴェル美さんが言ってた、“マリィは英雄に長年付き添っていた”ってのは本当?
それと…能力特訓の時に英雄に戻すと言っていた君が……今日、真っ向からそれを否定した。
“英雄にするわけにはいかない”って。……あれはどういう意味なの?」
マリィはしばし沈黙し、目を伏せる。
髪の影に隠れて表情は見えないが、その肩がわずかに揺れた。
「……それは、全部“本当”」
「え……?」
「私はかつての“英雄”に付き添っていた。
それが、あなたの身体の元の持ち主――“マコト”。
彼と私は、ずっと一緒にいた。最初から最後まで」
「じゃあ、やっぱり……君は最初から……」
「うん。あなたのことを知っていた。
そしてかつての英雄がどう戦い、どう壊れたかも」
マリィの声は静かに沈み、その言葉には重い過去の痛みが混じっていた。
「彼は……“燃え尽きて”しまったの。
みんなの希望になって、象徴になって、光になった――
けれど自分を保てなくなった。
私がどれだけ止めても、支えても、彼は“英雄”であることをやめられなかった。
そして、あの日……」
そこでマリィは口を閉ざし、言葉にするには、あまりにも苦しい記憶だと伝わってくる。
「……そんな風にはなってほしくない。
今度こそ、世界に“使い潰される”未来だけは回避したい。
私はあなたに『変哲もない日常を謳歌する英雄』であってほしい」
月明かりが彼女の横顔を照らす。
そこには静かな悲しみがあり、それでいてどこか優しさに満ちている。
その時、俺はやっと理解した――
彼女が俺の黒歴史を『祈りの物語』だと言った理由を。
それは、俺が描いた物語が、彼女にとっての理想の未来だったのかもしれないということを。
マリィの覚悟。後悔。誓い。
すべてが、その小さな身体に積もっている。
そして今、彼女はそのすべてを俺に委ねてきたのだった。
(……俺は、こんなにも重いものを──受け取っていいのか)
けれど、彼女は微笑んだ。
誰にも言えなかった過去を明かしたあとで、確かに微笑んだのだ。
「誰かになる必要も無い。誰かの為に選ぶ必要も無い。私は今のあなたの先を見たいから」
マリィのその言葉になぜか俺は懐かしさを覚えながらも笑って頷く。
「……ああ、わかったよ約束する。どんな未来でも、俺は“俺のまま”で選ぶよ。
誰かのためにじゃなく──俺自身の為に」
その言葉に、マリィは目を閉じて静かに呼吸を吐いた。
「──なら、きっと大丈夫」
……きっと、彼女は、ずっと俺を見てくれていたんだと思う。 そう思えた時、胸の奥にあったものが、少しだけほどけた。
マリィがそっと身を寄せてくる気配を感じながら、俺はまぶたを閉じる。
優しく、静かに、世界が遠のいていく――
そして、俺は夢を見た。
それは、忘れていたはずの記憶。思い出としてさえ残っていなかった光景。
場所は、放課後の教室だった。
西日に染まる窓際の席で、俺は一人ノートを開いている。タイトルは――『世界から忘れ去られた英雄が、変哲もない日常を謳歌している件』。
その響きは、今となっては自嘲混じりの笑いを誘うものだけど、あの頃の俺にとって、それは唯一の逃げ場だった。
転校してきたばかりで、友達もいない。前の学校では――
いじめられていた。
「あいつ変な話書いてる」とバカにされたのが始まりで、いじめはエスカレートしていった。
だから転校してからは、誰にも話しかけず、ひたすら“英雄の物語”を書いていた。
誰にも見せる気なんてない。。自分だけの、世界だった。
「……何、書いてるの?」
ふいに、声がする。
ぎょっとして顔を上げると、そこには知らない少女が立っている。
白い制服に、黒髪。大人びた顔立ちで、けれどどこか“抜け落ちた”ような静けさを纏っていた。
どこから入ってきた? 隣のクラスの子? それとも……本当に“いた”のか?
「え、あ……なんでもない、ただの落書き……」
あたふたとノートを閉じようとする俺に、少女は小さく首を傾げた。
「……落書きにしては、綺麗な字」
「そ、そう? えっと、これは……その……お話。自分で考えたやつ」
少女は、しばらく俺の手元をじっと見つめていたが、やがてそっと問いかける。
「それって、“誰のため”に書いてるの?」
「え……?」
「自分のため? それとも……誰かに見せたくて?」
その言葉に、俺は答えられなかった。
――誰のために?
そんなの考えたこともなかった。ただ、そうするしかなかったから書いてたんだ。
「……ううん。答えなくていいよ」
少女は微笑んだ。とても、優しく。
「ねえ、教えて。“その英雄”は……幸せ?」
「……幸せ……?」
「そう。“忘れ去られて”も、“日常を謳歌”して、笑ってるの?」
俺は、わずかに口ごもった後で、うん、と頷いた。
「そうだよ。誰も知らなくても……あいつは、幸せなんだ」
少女は、少しだけ目を細めた。
「……そう、ならいい。なら……その物語は、きっと誰かを救う」
「……君は?」
「え?」
「名前。君の」
少女は一瞬、黙ったまま窓の外を見ていたが、やがて小さく笑って言った。
「……真里。ひらがなで“まり”って書くの」
「……そうなんだ」
「またね、マコト」
その言葉を残し、少女は教室を静かに去っていった。
窓の外に目をやると、もう日は沈みかけていて――
黒歴史ノートの表紙に、夕日が淡く滲んでいる。
……そこで、俺は目を覚ました。
目の前には、月明かりの中で静かに眠るマリィの横顔があり、まるで夢の続きを、まだ見せられているような気がした。




