第二十二話 影は火を拒む
晩御飯が終わり、孤児たちがそれぞれの寝具に潜り込んでいく。 スミアが最後にランプの火を消し、子ども部屋の戸が静かに閉じられた。
薄暗いリビングには、まだ温もりの残る食器と、かすかに残る香辛料の匂い。
ソファを囲むように──ラグ姐、マリィ、俺、そしてヴェル美が腰を落ち着けている。
誰からともなく、自然と無言の空気が流れる。
まるで、何かを“見送った”あとの静寂のようだった。
「──さて」
沈黙を破ったのは、ヴェル美だった。ソファに深く腰を落とす。
その所作は優雅で洗練されていたが、吐き出される声には、氷をまとうような冷気が混じっていた。
「天使ちゃんたちも眠りについたことだし、ここからは“大人の話”を始めましょうか」
彼女の目が一瞬、こちら──いや、ラグ姐の方へと流れる。
「まずは報告。マルコ君にも伝えたけど──
あれだけの騒ぎがあった割に、エクレ村の住民は全員無事だったわ……一応ね」
言葉の末尾に、わずかな重さ。
安心のために置かれたような「全員無事」は、どこか空々しく響いた。
ヴェル美は腰のホルスターから、スマホに似た端末を取り出し、指先で軽く弾く。
空中に立ち上る波形──その幾何学的な揺らぎの中に、赤黒い濁流のようなノイズが走った。
「ただし。村で生活用水として使われていた井戸から──
“血誓薬”に酷似した成分が検出されたわ」
「……っ!?」
ラグ姐が椅子を軋ませ、咄嗟に立ち上がりかける。
「血誓薬だと……!? なんでんなもんが……!」
その声音には、怒りと驚愕、そして一瞬だけ、別の何か──怯えのような感情すら滲んでいた。
ヴェル美はそんなラグ姐の反応にも、眉ひとつ動かさない。
「やっぱり聞き覚えがあるのね。──元傭兵の貴女なら、当然かしら」
部屋の空気が一気に冷え込むのを感じた。
背筋に氷を押し当てられたような感覚に、俺は思わず口を開く。
「その……血誓薬って、なんなんですか?」
ヴェル美はゆっくりと視線をこちらに向ける。
その瞳は、まるで診察する医師のように冷静で、どこか見透かすようだった。
「服用させることで、使用者の命令を最優先で実行させる魔法薬。
要するに──“自我”の上に、“他人の意志”を上書きする禁忌の薬よ」
ぞわりと、喉の奥が冷える。
それがどれほど恐ろしいものか──言葉では理解できても、身体が先に警鐘を鳴らした。
隣のラグ姐も、いつになく表情を硬くしている。まるで血の気が引いていくのが見えるようだった。
「もともとは奴隷管理のために開発された薬。
でも倫理的に完全にアウト。今じゃ製造も所持も、魔法法典で厳しく禁じられてるわ」
ヴェル美の声が、さらに数度、温度を下げる。
「それを──“誰かさん”が村の井戸にばら撒いたってわけ」
「……っ! じゃあ、あの村で漂ってた、甘ったるい匂い……」
ラグ姐が息を呑みながら、思い出すように眉をひそめた。
ヴェル美はコクリと頷く。
「そう。揮発成分も含まれていたの。
あなたも微量ながら摂取していた様ね……血液から反応が出てたわよ」
「……っ!」
ラグ姐の肩がわずかに震えた。
怒りとも、悔しさとも、別種の感情──恐怖に近いものが、ほんの一瞬だけ表情に浮かんだ気がした。
ヴェル美はそれを見逃さず、一拍置いて、口角をわずかに持ち上げる。
「──魔力回路の薄い獣人でよかったわね。
でなければ、今ごろ言葉遣いがやたら丁寧で、従順な優等生にされていたかも?」
「ふざけんな……誰がそんな──」
ラグ姐が低く舌打ちを鳴らし、睨み返す。
けれど、その睨みも少しだけ──ほんの少しだけ、揺らいで見えた。
「冗談よ。でも、あり得た現実。
使用者──マクスウェルは現在、私達の監視下にあるから、最悪の事態は避けられたけど」
淡々とした語り口の裏に、僅かに刺さるような緊張感が混じる。
ラグ姐は睨みつけたまま、低く吐き捨てた。
「……アンタ、さては最初から知ってたな? 血誓薬のことも、教団との繋がりも……いったい何者だ」
その問いに、ヴェル美はすっと立ち上がった。
そして、腰元の裏から小さな黒漆の装飾品──紋章のようなものを取り出す。
光を吸い込むような艶に包まれたそれを、彼女は指先でくるりと回しながら掲げた。
「“燈守”所属──導燈階級、クロエ・ヴェルミチェッリ 英雄を支持してる組織よ」
──英雄支持組織。
その言葉が、脳の奥底に重く沈む。
胸の奥がざらりとする。心臓が一瞬、変なリズムで跳ねた。
英雄マコト──
……いや、違う。それは俺じゃない。
あくまで“この身体の元の持ち主”のこと。
その言葉に反応した自分がいた。
ざわりと、何かが動き出す気配がした。
そのとき。
静寂を破るように、マリィが口を開く。
声は静かで、けれど、明確な“敵意”がそこに宿っていた。
「……なるほど。貴女、“あちら側”だったのね」
さっきまでの、酒カス幼女の面影はどこにもなかった。無表情の奥に、冷えた刃のような輝きが灯る。
その目を、ヴェル美は受け止め──そして微笑んだ。
「すごいプレッシャーね。
──ってことは、あなたは“そちら側”?」
「勝手に話進めんじゃねぇ。ちゃんと説明しろ、お前ら」
ラグ姐が苛立ちを隠さず噛みつくと、マリィが視線を戻し、再び口を開いた。
「……彼らは、“英雄”を崇め、英雄を信じ、英雄を支え、その復活をずっと待ち望んでた。
けどそれは英雄を”人”として見ていない。”火”として、”象徴”として、”使える力”として利用する為。
彼をまた燃やす訳にはいかない。誠一郎を──“英雄にする”わけにはいかない」
その言葉に、ヴェル美の微笑が深まる。
「……やっぱり。長年連れ添っただけあるわね。
やけに目の奥の“否定”が、重かったから」
「黙れ。私は“ただのマリィ”。
でも──彼を“使い物”のように扱うつもりなら、今ここで、貴女の“灯”を消す」
その言葉とともに、空気が凍りついた。
ほんの一瞬、部屋の温度が数度下がったように感じる。
ラグ姐が反射的に剣の柄へと手を伸ばす──が、すぐに止める。
分かっているのだ。ここで刃を抜けば、本当に何かが壊れると。
その張り詰めた空気に、俺は耐えきれなかった。
喉が乾き、背中に汗がにじむ。言わなきゃ──そう思って、ようやく声を振り絞った。
「ちょ、ちょっと待ってください……! 俺は……そんな、大それた存在じゃない。確かにエクレ村の時は必死でしたけど……英雄マコトとは中身が違うっていうか、別人っていうか 何より普段はこんなで……」
少なくとも、今の俺は──組織に支持されるような人間じゃない
その言葉に、ヴェル美は目を伏せて、小さくため息をついた。
「……ふぅん なら、あれが”英雄ごっこ”だったとでも言いたいのかしら それなら尚更放って置けないわね。
一時的とは言え、ごっこ遊びで世界の理を変えるなんて」
そう言って彼女はソファの背にもたれ直し、ゆっくりと語り始める。
「私が貴方を“英雄”、あるいはその生き写しと判断した理由は、三つある。
一つ目──凄腕の暗殺部隊、四十名をたった一人で、素手で沈めたこと。
二つ目──燈守が十年以上かけて調査していた“神の加護”と呼ばれる結界を、初見で看破したこと。
三つ目──周囲のマナを逆流させ、結界を強制的に打ち破ったこと。
……特に三つ目は、偉業なんてレベルじゃない。
奇跡、それこそ“神の所業”と呼ばれてもおかしくないわ かつての英雄マコトじゃないにしろその実力はSランク冒険者や国の騎士団長レベルを余裕で超えてる。」
俺は、ただ黙って聞くしかなかった。
やりすぎたんだ。日常を壊してしまうほどに。何かやっちゃいましたでは済まなくなったのだと俺は理解した
「……姿がどうであれやってのけた事実は変わらない。その“力”は、紛れもなく貴方のものよ」
そう言ったヴェル美は、少しだけ視線を天井へ向ける。
思案の色が混じったその横顔に、ほんのわずかな葛藤が見えた気がした。
「──っとまぁここまではあくまで燈守としての私の意見ね」
そう言った彼女の声に、かすかな疲れが混じっていた。張りつめていた糸が、ほんの一瞬だけ緩み、ヴェル美はソファの背にもたれ、視線を宙に遊ばせる。
「……私は今、“クロエ・ヴェルミチェッリ”という個人として、ここにいる」
その名を告げたときの彼女は、もう“組織の使者”ではなかった。
どこか、孤独な戦いを続けてきた一人の人間として、目の前にいた。
「貴方がただの英雄で収まる存在じゃない……それは、脅威でもあり、可能性でもある。
けれど、私も──貴方が“燃え尽きていく未来”を見たくはないのよ」
彼女はゆっくりと足を組み直す。その仕草には、戦場の緊張ではなく、静かな決意がにじんでいる。
「だから私は、報告しなかった。
貴方が“光”として祀り上げられ、また誰かに利用されるくらいなら──
私は、あえて“灯”を抱えてここに残る選択をする」
その目が、まっすぐに俺を見つめる。
「あなたが立ち上がれば、世界はざわつく。
人々の信仰は揺れ、権力の均衡は崩れる。
……抑圧された場所から、“何か”が這い出してくるかもしれない」
それは、警告というよりも予兆だった。
「だから私は、あなたの隣に立ちたい。
誰にも、その火を奪わせないために──
そして、もしその火の暴走を止める為にね」
張り詰めた刃ではなく、柔らかく、それでも真っ直ぐに芯のある声だ。
「……そういうわけで、お願いがあるの」
ヴェル美が少しだけ笑みを浮かべる。
先ほどまでの冷たさとは違う、素の表情だった。
「私を、“ノラ”に入れて♡」
部屋に静かな空気が満ちる。
「“英雄”としてじゃない。“誠一郎”としてあなたが生きたいなら、私はその生き方を支えるわ。
だから、マリィちゃんも……あなたも、安心して背中を預けて」
彼の言葉の奥に、さりげなく込められていた。
──“火種”を探す者たちが、この街の空気をじわりと変え始めているという事実。
燃え残った静けさの中に、確かに別の気配が混じり始めていること
そのとき──マリィが静かに立ち上がり、俺の隣へ一歩だけ近づく。
その動きに、異様な気配を感じた。
「……誠一郎」
いつもより少し低く、わずかに震えた声だった気がした。気のせいかもしれない。でも、胸に冷たいものが走る。
マリィはまっすぐに俺を見つめる。
その視線の奥に、言葉にできない鋭さが潜んでいた。
「貴方の“選択”は?」
一瞬、言葉に詰まる。
問い詰めるでも拒むでもなく──だが、答えを誤れば何かが壊れそうな緊張がある。
「今の俺は英雄じゃ無いよ……けど……“誰かを守りたい”って思ったのは本当で──そのために、彼がここにいてくれるなら……今を守れるなら俺は、それを拒まない」
マリィの表情はほとんど変わらない。
ただ──ほんのわずかに目を細めたように見えた。
「……なら、私は“そばにいる”。
貴方がその答えを忘れそうになったとき──
すぐに叩き込めるように」
その言葉にヴェル美が肩をすくめて笑う。
「いやだわ、私そんなに信用ない?」
マリィは何も言わなかった。
けれど、その沈黙こそ何より強い否定に思えた。
ラグ姐は鼻を鳴らす。
「……アタシは隊長じゃないから異論はねぇけど……ただ、勝手に来て、勝手に守るなんて、ずいぶん都合がいいな」
「都合がいい女なの。ほら、便利でしょ?」
ヴェル美のにやりとした笑みに、ラグ姐は舌打ちする。
──こうして、“もうひとつの火”がノラに加わったのだった。




