第二話 影は狭間で囁く
わぁ…ぁ……狂っちゃった。
ありえない光景に、ありえない美少女。これが夢でないとすれば、俺が狂ったとしか思えない。いや、むしろ、狂うことでしか辻褄が合わない。
大人な俺としてはある程度なんでもクールに受け流す所存で臨んでいたが、流石にこれはもう笑えない域に達している。
つまり第三者から見たら今の俺は、現実と妄想の区別がついていない隔離必須患者だろう。
「ハァァアアァッ……」
そうして俺が突然クソデカため息をつくと、目の前の悪魔的美少女──というか、あまりにも美しすぎて「人間らしさ」をどこか置き忘れたような存在──は、ビクッと身体を跳ねさせた。
そんな彼女を見て、空気感を壊すのもいかがなものかと考える。舞台を途中で投げ出すようなものではないかと。一応もう一回やってみようか? シリアス方面の俺、やってみようか?
深呼吸をして、真剣な面持ちに表情を切り替える。そして、胸の奥からこぼれるように、その名前を呼んだ。
「……マリア」
初めて会うはずなのに、なぜか胸の奥に深く刺さる響き。
目の前の彼女が、昔から知ってる“誰か”みたいに感じる。
夢で見たのか、妄想の断片なのか、それすら曖昧で、でも確かに「そこにいた」。
「君……どこかで会った?」
俺は思わず尋ねると、彼女は淡々と、しかし落ち着いた声で答えた。
「初めて会うよ」
なんだよもぉおおおおお!!! 会ったことないのかよおおおおぉぉ!!
夢で会ったとか、そういうパターンじゃないのかよおぉぉ!!
誰なんだよこの女ぁぁぁぁ!!
あまりの恥ずかしさに、膝が限界を迎えた。妄想英雄だった俺を引きずり出してまで、それっぽく装ってみたのに!!
しばらく紅潮した顔を手で覆い、這いつくばって悶えていると、少女──いや、“マリア”は静かに言葉を投げかけた。
「……ただ、何かを感じるなら、それは君の中の“境界”が揺れてるからだと思う」
「境界……?」
意味がわからなかった。でも、胸のあたりがざわついた。
まるで誰かが自分の内側に入り込もうとしてるような、異物感。
あるいは、俺の中に“もう一人の俺”が起きようとしてるみたいな──
「混乱しても仕方ない。そういうものだよ」
マリアは静かに言って、ゆっくり体の向きを変えた。
「ついてきて。君が不安定になる前に、貴方を現実に送り届ける」
「現実? ってことはここは現実じゃないのか?」
そう聞き返すと、彼女はうなずいた。
「うん。ここは君にとって“異質”な世界だから、拒絶反応みたいに記憶や思考がぼやけるんだ」
妙に説得力のある言葉だった。
現に俺はここに来てから情緒がかなり不安定だ。色々な感情が同時に湧いてきて──いや、“湧いてくる”というよりも、喜怒哀楽、欲、恨み、喪失感、救いようのない衝動が同時にそこに「ある」感じ。
「待って、君は……?」
「今は“マリア”でいい。私は貴方の行く末を見守る役割。今はついてきて」
そう言って彼女は歩き出した。俺の体も自然とその後を追った。
疑問だらけなのに、なぜか彼女を追うことにためらいはなかった。
……一人になるのが、なにより怖かったのかもしれない。
九龍城砦のように複雑に入り組んだ路地。
建物は歪み、看板には意味不明な文字が踊る。
何者かの気配をそこら中から感じるのに、まったく音がしない。
深海の底みたいに、静まり返っている。
そんな街を、彼女は自分の庭のように迷うことなく進んでいく。
「それで……現実じゃないっていうのは?」
「正確には、君が知ってる“現実”と“非現実”の間」
彼女が振り返り、静かに言った。
「ここは“狭間”って呼ばれてる。現実と妄想、夢と世界、自己と他者……そういう境目が溶け合った場所」
「狭間……」
つぶやいた俺に、彼女はさらに続ける。
「君は知らずに、自分に似た“誰か”と繋がっていた。その記憶を“妄想”として受け入れてたんだよ」
「見たこともない風景。ありえない戦い。知らない誰かの死。全部、君の中に確かにあった“現実”の残り香」
正直、心当たりが有りすぎた。
彼女の存在。そして今の現状が、ただの夢オチ、妄想の延長の可能性は捨てきれない。でも……その夢、妄想の延長が、俺に続いていたのだとすれば──説明がついてしまう。
「……それで、その……“誰か”って?」
彼女の瞳が一瞬だけ揺れたが、すぐに無表情に戻った。
「君はもう気付いてるんだよね。そんな顔してる」
……その通りだ。
俺は、彼女のせいで気付いてしまった。
“俺が狂った”んじゃない。“現実”が狂い始めていたことに。
「あなたはこれから、そんな“誰か”の現実に行く。でも、あなたは“誰か”になる必要はない」
「俺は……誰かにならなくていい……?」
混乱しているうちに、空が突然裂けた。
黒く歪んだ空に、鋭くガラスが割れるような亀裂が走り、無表情だったマリアが眉をひそめる。
「……早すぎる。予定よりずっと」
「あれは何?」
「君を“狭間の外”に戻そうとする力だよ。君が“戻らない”と気づいて、無理に引き戻そうとしている」
「けど、残念。私たちの方が早かった」
彼女は一歩近づき、俺の胸に指をそっと当てた。
「私がここにいたから、簡単には行かせない」
なぜか、涙が込み上げてきた。でもきっとこれは情緒が不安定だから。たぶん、そう。
「……マリア。君は一体、何者なんだ?」
「今は“マリア”でいい。君がそう呼んでくれるなら」
空の裂け目の向こうで、本能的に忌まわしいと感じる“黒い何か”がうごめいているのが見えて、思わず足がすくんだ。
でもマリアは強く俺の手を握って、声をかけてくれた。
「行こう、“マコト”。ここからが本当の始まりだよ」
足を一歩踏み出した瞬間、空間がグニャリと歪んだ。
重力がぐるぐると逆さまになったみたいに、体がふわふわする。
ごちゃごちゃした街も、空の裂け目も、地面も、周囲のすべてが輪郭を失っていく。
(気を抜いたら飲み込まれそうだ)
必死に足元を見たその時、
――胸の奥で“何か”が脈打った。
いや、「応えた」って感じ。自分とは違う“何か”が、確かにここに“いる”って示してきた。
どくん、どくん。
心臓とは違うリズムで、何かが目覚めていく。
(……なんだこれ)
視界の端に知らない景色がちらついた。
戦場。光の柱。崩れ落ちる塔。
知らない誰かの笑顔と、冷たい別れ。
断片的なイメージが、一気に押し寄せる。
それは痛みで、怒りで、後悔。
俺の感覚じゃないのに、確かに“俺の感情”として染み込んできた。
「感じてる?」
マリアの声が頭に響いた。
俺はうなずく。
「なら進めるよ。ただ、このままだと長くは持たない。君の“軸”がすごく揺れてる」
「どうすれば?」
「“自分が何を選ぶか”だけだよ。それで世界は自然と変わる」
その言葉の意味はよくわからない。
でも体が、答えを知っているみたいに反応した。
一歩、また一歩と、世界が少しずつ形を変えていく。
背後に“誰か”の気配がある。
姿は見えないけど、確かに俺と共にいる。
名前もわからないけど、想いが俺の歩みに重なった。
「行こう」
俺はつぶやいた。
この先に何があっても――
今の俺なら、受け止められそうだった。
世界の輪郭がさらに薄れる。地面は霧のように溶けていき、空は深い闇へ吸い込まれる。
「もうすぐだよ」
頭に響くマリアの声が、少しだけ切なく感じた。
「ここから先は、君自身の力で進むしかない」
振り返ると、マリアの表情は変わらない。けれど、その目の奥に、わずかな光が揺れていた。
「マリアとは……ここでお別れ?」
「そ。でも、狭間の外でまた会えるから。ちゃんと見つける」
その言葉が、胸に響いた。
「約束だよ」
彼女も強くうなずいた。
「約束する」
マリアは一歩後ずさり、霧の中に溶けていった。
「いってらっしゃい」
かすかに聞こえた声を背に、俺は深呼吸して、目を閉じた。