008
「これ、お茶ね。おかわりは自分でどうぞ」
「……はい、ワカリマシタ」
「どうしたの、古谷くん。さっきから変にどぎまぎして、童貞じゃない」
「門倉さん。『童貞』と『じゃない』の間に、助動詞を入れるのを忘れてないかい?」
「童貞らしいじゃない、立ち振舞いが」
「不名誉な称号を確固たるものにしてんじゃねえ!」
磐石にしないでくれないかね。
「何よ、たかだか美少女の部屋にお邪魔した程度でどきまぎしちゃって」
美少女を自分で名乗るんじゃねえ。
──いやいや、いやいやいやいや。
この僕が。
古谷欠が。
門倉御前の。
家に。
お邪魔。
これは何かの、間違いか─────!?
─────時は遡り、数十分前。
かの旧ゲームセンター、現浮浪者の生活スペースに二度目の失礼を果たした僕達──いや、二度目なのは門倉御前だけだし、失礼なのはむしろあちらの方だが、とにかく僕と門倉はもう一度漫に会いに向かった……のだけれど。
「──今日はいないのね、あの人」
その漫が、今日はゲームセンターにいなかった。いつもなら、このビニールシートに身を預けて寝ているか、菊とじゃれあっている、つまり何かしらのことで喧嘩している筈である。サーティワンアイスの配当がおかしいだとか、あるいはあの夏休みを掘り返しているだとか。
ちなみに、約《二千歳差》のいざこざ。
うん、吃驚だな。
「まあ、こういうときは大抵、菊と一緒に別の階まで移動してるのが殆どだよ。他のところも探してみよう」
ここで、この廃ビルについて説明しておこう。
普通のビルから廃墟と化した理由を雑にまとめると、ビルを所有していた不動産会社が倒産して、別の会社がビルを買い取ったはいいものの、今度はビル側に《幽霊が出る》だとか何だとかの悪い噂が飛び交って客足が減り、そのまま人が立つ跡濁して消え去った──といった感じだ。
様々な事情が入り組んだが故に生まれた、奇跡の廃ビルである。
そんな廃ビル、一つ屋根の下で、おっさんと幼女が同棲している事実に震える者もさぞかし多いだろう。
安心してくれたまえ。かたや怪しい仕事で生計を立てる人生無気力系のおっさん、かたや生意気な古語で相手を捲し立てる合法ロリータ老婆だ。
そんな癖の強い二人を探しに、僕達は階段を下りていく。
ゲームセンターは四階、三階にはスポーツジム、二階はネットカフェ、そして一階はレストラン。
経営の方向性をとんでもなく間違えている気がする。そんなんだから、こうして廃れたんじゃないのか。
「ねえ、古谷くん。あの金髪の子、結局なんなのかしら?」
スポーツジムを覗く合間、門倉は僕に問う。
その後、すぐさま「やっぱり気になるから」と付け足して。
「まあ、そうだな──時間のあるとき、僕が面白おかしく語ってやるよ。お前が望んでるなら、だけどな」
「そう。今度、是非とも聞かせてちょうだい」
勿論、僕の巧みなトークスキルで文庫本一冊分くらい長ったらしく語ってやるさ。
なに、同じ言葉を繰り返していれば(かの有名な見開き一ページにも渡る『死んじゃえ』の連続などは除外)、あっという間に十万文字突破だ。新刊一冊十万字と言うくらいだから、僕はあの夏休みで本を出せるのかもしれない。
にしても、最近の本は分厚い上に文字がでかくて困る。A5サイズの二段構えが懐かしいぜ、まったく──まあ、僕もその時代を小説に触れて生きていたわけではないのだけれど。家の物置を漁っていると、一昔前のライトノベルが出てきたりするもんだから、ついつい読んでしまうのだ。
そしてこっそり元の場所に戻す。
完璧な証拠隠滅だった。
ライトノベルこそ、自室には本棚の一列がぎゅうぎゅう詰めになるほど置いてあるとはいっても、やはり《受容のしやすさ》なんてのはピンからキリまであるわけで。
僕が読んでいたのは、《キリ》にあたるものだった。
なんてもん買ってんだ、うちの両親は。
いやいやまあまあ、その話はマリアナ海溝にでも投棄しておくとしよう。
三階のスポーツジムでも彼らの不在を確認した僕は、続いて二階への階段を下る。
二階の床が見えたと同時に、また別のものが視界に入ってきた。
「……菊?」
遊戯少女、新山菊が──階段を下りる最中、下から数えて二段目のところに腰を下ろしていた。
ここを上ってくるときは、当然こんな場所にいなかった筈で──となると、漫もこの階にいるのか。
僕はそれから視線を外し、そのまま通り過ぎようとしたのだが。
「彼の場所を知っていないか、訊いてみましょう」
門倉が、よりにもよってそんな提案を持ちかけてきたのである。
「いや、そいつはだな……」
「お嬢ちゃん、漫さんの居場所はわかる?わからないなら、そう答えてもいいのよ」
門倉は菊と目線を水平にするかのようにしゃがみ込むと、彼女に向かってそう訊いた。
僕を無視して虫にして。
彼女は質問した。
「……」
遊戯少女は、答えなかった。
ただ口を閉じて、僕達を睨視する彼女が──僕にはほんの少しだけ、痛ましく思えた。
……
「私の嫌いな子供だわ」
長い沈黙を破る、門倉の声。
「子供は嫌いじゃないんだな」
「当たり前でしょう。私を敬い崇拝する知能指数の高い子供と、馬鹿で無愛想でおまけに生意気なクソガキ、どちらがより良い人間かは火を見るよりも明らかよ」
ああ、そういうことか。納得納得。
……《子供》と《クソガキ》の時点で、既に生物としては全く異なるジャンルに組分けされていると思うのだけれど、これは僕が間違ってるのか?
「……」
そんな間接的クソガキ呼ばわりにプライドが呼び覚まされたか、それとも大前提で子供と定義付けられるのを嫌ったのか、菊は不意に立ち上がると、階段を下り始めた。
「おい、リ──菊、どこ行くんだ?」
「……」
彼女は寸時振り向いて、僕を睨むだけ。
何やら、『ついてこい』とでも言いたげな様子だ。
しかし、まだ新しい名前に慣れないな──どうにも僕は、神様時代の彼女が頭から離れないらしい。
「……いいわ、行きましょう」
そうして僕達は、菊の後を追った。
更に一階層分階段を下りて、正面の入口までやって来ると──まるで示し合わせたかのように、奥の茂みから漫完が現れた。
瞬間移動でもしてきたのか、こいつは。
……できなくもない気がする。
「やあやあ、古谷くん──と、ツンデレちゃん。今日は気前よく、サーティワンのアイスでもご馳走しようと思ったんだけどさ……生憎、僕の分しかお金がなかったんだよ」
「いや、無理はしなくていいんだが……」
「というわけで」
漫はサーティワンのカップアイスを片手に、空いた右手を平にして前に出す。
「《お祓い》の手数料、くれない?」
──あー、そうだった。
僕も確か、《お祓い》を託けに三百万だかを要求された記憶がある。
『学生にそんな大金は払えない』と反駁したら、『代わりに僕の仕事を手伝ってくれ』とかなんとか……
ちなみにその仕事というのが、どうやらこのお祓いを日本中回ってこなすことらしい。バスや電車など一切使わない行脚形式で、この仕事を行っている──と本人が語っていたのを思い出した。
しかしまあ、なんとも破格の値段で驚愕のサービスだと、個人的には感じている。
ああ、その値段だが──さっきも言った通り、僕は三百万円だった。
「そう。それで、いくら払えばいいんですか?」
あっさりと要求を呑む門倉。
「そうだね……ま、お嬢ちゃんなら十万くらいで元が取れるんじゃないかな?」
……じゅ、十万?
僕からは三百万で、門倉は十万だって?
そりゃねえぜ、おっさん。
「おい、漫。僕からは三百万むしり取ろうとしてなかったか、お前?」
依怙贔屓なのか。
「贔屓なんかじゃあないよ、古谷くん」
『チッチッ』とでも鳴りそうなくらい、漫は人差し指を左右に振る。
「これはあくまで、彼女に憑いている神様の祓いやすさに基づいている。お祓いの手順が簡易であればあるほど、金額も変動するのさ。きみに憑いていた《遊偽少女》の祓除は、彼女に憑く神を祓うことの三十倍くらい難しかったんだよ……わかるかい?」
──そこまで、大がかりな仕事だったのか。
それなら仕方のないことだ。
「さて、お嬢ちゃん──僕としては、五万でも一万でもまけて構わないんだけど……コミッション、支払ってくれるかな?」
やっぱり贔屓かもしれない。
「……払います、十万きっちり」
「お嬢ちゃんは善人だね。でも、今は払えない──そうだろう?」
全て見透かしたような口調で、漫は言う。
あるいは、実際にそうなのかも……という疑念も、やはり払拭はしがたいものである。
「後払いでも、いいんですか?」
「うん、問題ない。僕がお陀仏になる前に返してくれるのなら、いつだって構わないよ──僕は性善説を信じているからね」
後払いでもいいのかよ。
じゃあ、僕が《仕事》を手伝う道理はどこにもなかったじゃねえか。
「やだなあ、古谷くん。人が社会を生き抜くためには、処世術が必要不可欠なんだよ──」
それに、だ。
「古谷くんにとっては、《仕事》の方がよっぽどやりやすいんじゃないのかな?」
まあ、そう言われると否定はできない。
「よし、僕の収入源を確保したところで、きみ達二人にお話がある。上がるのも面倒だし、一階で話そうか」
……二人?
「おい、菊─────」
振り返った僕の視界に、もう彼女はいなかった。
まあ、これでいい。
きっと一生分かち合えないし、分かつこともできない。
いや、人間と神様とで正しい関係になれなかったのであって。
今なら、人間もどきと神様もどきの僕達なら──多分、少しくらいは互いを理解できるのだろうと、僕は考える。
いつかその日が訪れるまで。
僕は彼女を待っている。
─────そして、レストラン。
正しくは、その名残。
もはやファミリーが嬉々として入店するような場所でもないこのファミリーレストランは、まだかろうじて《店》としての体裁を保っていた。
「──力、だよ」
「……力?」
「そう、パワー、ストリングスさ。物の神様じゃなくて、概念の神様──いやあ、面倒な神様を連れてきたもんだよ、本当に」
ストレンジの間違いだろ。
「でもこいつは、門倉は─────」
鉄だぞ。
「《望んで》そうなったんだろう?僕の予想だけど、どうにも辻褄が合いそうな気がするんだよね──《力の神様》だと、仮定した場合にさ」
「何の話も聞いてないのに、どうして仮定できるんだ」
「はっはー、そいつは長年積み重ねた知識と経験からくる直感ってやつさ。周りの人間を気にしすぎて人の気配を察知できるようになっただとか、毎日同じ道を歩いていたら機微な変化にもすぐ気付けるようになっただとか、そんなものだね」
そんなものか?
まあしかし、漫も『予想』だと明言している以上──ここは一度、門倉の話を聞くべきだろう。
……
無論、彼女が語ることを良しとするのならばだが。
「…………」
門倉は何も言わず、俯いていた。
「──じゃ、それはお祓いのときについで話してもらうとしよう」
「その《お祓い》って、一体なんなんですか?」
顔を上げた門倉が、彼にそう訊く。
軽率軽薄な彼とは違い、可能な限り丁寧丁重に。
「簡単に言えば、《契約の破棄》だ。神から恩籠を受けるというのは、つまりは契り──その契りをこちら側から断ち切ることで、憑き物を取っ祓うって寸法さ」
契約破棄。
それはつまるところ、神への反逆。
抗う──ということ。
『果たして、そんなことができるのか』?
「きみは既に一度、経験しているんじゃないのかい?《彼女》を追い祓ったのなら、それが可能であることを知っている筈だろう」
──そう、抗った。
僕は世界に反抗した。
それが間違いだったのか、はたまた正解だったのか──僕には今でもわからない。
僕が間違い。
世界が間違い。
どちらも、正しく間違っている。
──え? 反復はつまらないって?
じゃあ、この話はここで終わりにしよう。
「さて、二人とも。僕から一つ、下準備のお願いがあるんだけど──聞いてくれるかな?」
漫はファミレスの机に両足を置いて《お願い》する。
本当に足癖が悪いな、こいつ。
「ああ、構わない」
「いやあ、助かるよ。今回のお祓いは《憑依》、神様の意識をツンデレちゃんの身体に移すテンプレート的手法だ。そこで、お嬢ちゃん──」
服を、着替えてきてくれないかい。
「……できるだけ派手じゃない服装で、一番いいのは無地の白だね。ああ、新品でなくとも問題はないよ。それから、お風呂に入って身を清めるとなお─────」
……
…………
これから社会人になる一人として、お前に言わせてもらいたい。
「うん? なんだい、古谷くん」
「いいか、漫……」
そういうことは、事前に伝えておけ──────!
─────そして、現在。
僕は門倉御前の住むアパートの一室にお邪魔し、そして震える手つきで茶を飲んでいた。
無味無臭である。
侘びも寂びもなかった。
「それじゃあ私、お風呂に入ってくるわ。覗いても構わないけれど──」
「けれど……?」
「コンマ一秒でも覗いてみなさい。殺すから」
……
お前なあ、自宅にお招きした同級生に日常会話のノリで『殺す』とか言っちゃってんじゃねえよ。
いや、同級生だからか?
ある程度気を許していないと、こんな冗談言えるわけもないもんな。
「本気よ」
駄目だ、前提が真っ向から崩された。
殺る気満々だよ、この人。
──いやしかし、なんだかんだで異性の家に入るのはこれが初めてである。いろいろ探ってみたいが、まずいものが出てきたらどうしよう──なんて、変なところで躊躇ってしまう僕だった。
「……ここに、二人で住んでるのか?」
門倉の発言からして、そう頻繁に家へと帰ってくる彼女の父ではないのだろうが。
……門倉、門倉ねえ。どこかで聞いたような名字だな。僕が忘れっぽい頭の出来をしているから、もしかするとテレビや新聞で一度くらいは耳にしているかもしれないのだけれど──残念ながら、その記憶を僕のストレージから引っ張り出すことはできなかった。
……
…………
………………
さて、暇だ。
風呂を覗きに行けば、僕は冗談抜きに惨殺されて警察沙汰に──茶をすすってのほほんとしているのも、僕の性には合わない。
……よし、漁ろう!
今の僕には倫理観などない。RPG定番の勇者がごとく、村人の家にある箪笥の中身をまさぐったり勝手に壺を割ったりする──ほどではないが、たとえいくらプライベートな物が出てこようと僕は気にしねえぞ。
門倉には『風呂を覗いたら殺す』と言われたが、逆説的に述べてしまえば、それ以外は何をしても殺されるに値しない罪ということである。
……暴論……
さておいて、まずは箪笥からだ。
「一段目っ!」
学生服とパジャマらしき服──やはりと言ったところか、丁寧に畳んで保管されている。パジャマは意外にも、彼女の印象に反して愛らしいデザインのものだった。
見れば、部屋の至るところにぬいぐるみが設置してある。もしかすると、門倉は元来かわいいものを好む性格なのかもしれなかった。
「二段目っ!」
男物の上着だ。きっと、かの門倉父が着ている服に違いあるまい。
……ん?
着物が入っている。
袴だ。それも、何着に渡って。
──な、なんで?
おおよそ趣味の範疇ではない。市の神社で毎年開催している夏祭りだとかあるにはあるが、それにしたって一着や二着だろう。
……
もしかして、結構スゴい人だったりする?
「三段目っ!」
お父さんの下着、スルー!
「巻くぞ、四段目っ!」
門倉の下着、ス─────
──────ルゥー?
これはいけない。紳士たる者、女性の下着に対する造詣は深めておかなければ。
数ある下着の中から無作為に一つを選び出し、手に取る僕。
まあ、普通だ。新海誠氏の映画でも見ていれば当たり前にお目にかかれるような、純白のショーツだった。とは言えど、履いていない状態のものはそうそう拝謁できるほどありふれていないので、これは貴重だと言えるだろう。
下着を元の場所へと丁重に戻し、再度抽選。
いつの間にか下着ガチャみたいになってしまっているが、さしたる問題はない。
門倉よ、あと三時間くらい風呂に入ってくれてもいいんだぞ。
「……まずい、これはまずい」
抽選を終えた僕の右手には、水色のブラジャーが握られていた。
これはつまり、門倉御前のカップ数を世間に晒しあげることとなってしまうのだが、言うまでもなく大丈夫ではない。
はあ、仕方がない──ここは僕だけその情報を独占して、読者のご想像にお任せするとしよう。
……
……なんつーか、それとなくわかってはいたんだが、デカいよなあ。鉄だから、柔軟性もクソもねえんだけど。
さ、次だ次。
……これは、なんだ。
布の山へ突っ込んだ右手に妙な感触を覚えた僕は、箪笥の奥底からそれを引きずり出してみる。
二十メートル長にもなるリボンだった。
リボン。
リボン。
リボン。
「─────はあ?」
もう一度言おう、リボンである。
クリスマスや誕生日のプレゼントボックスによく使われている、装飾としての役割を持つあのリボンである。
それは決して、集英社によって刊行される月刊少女漫画雑誌の大増刊号でも、ひまわりの種が大好きなハムスターを主人公に据えた作品に登場するメインヒロインでもない。
ただ、普通に──リボン。
間違いもなく、かといって紛い物ではないリボン。
……
戻そう。
こういった明らかに明るくない、闇が深そうな物はおしなべて避けておくのが人生の生き方なのだと、僕の本能がそう指し示している。
さて、最後は五段目だ。
まともな物体が入れられていることを望もう。
「──これは」
将棋盤?
いや、将棋盤だけじゃない──オセロやチェス、囲碁、バックギャモン、その他諸々のボードゲームが、そこには詰められていた。
その中には、僕と遊んだであろうゲームもある。
僕が触れたことのないゲームは、いずれも難解で理解するまでに時間のかかりそうなルールだ。一見どころか一プレイしてもわかりづらそうなゲーム性のものは、その殆どが箪笥の底に敷かれている。
──ちゃんと考えて、持ってきていたのか。
正真正銘、僕もお前も──その両者が楽しめるように。
「……器用でも、不器用でも、僕の周りには優しいやつばっかりだな、ハハ」
思わず、乾いた笑いが零れる。
僕はちっとも、優しくなんてないのにさ。
「──あなた、何をしているの」
と、背後から門倉の冷たい声が響いた。
どうやら、僕が箪笥を漁っている間に風呂をあがったらしい。
「ああ、ちょっとボードゲームを……」
床中に散らかした盤上遊戯の数々をあれよあれよと片付けながら、門倉を見る。
「なっ、お前──!」
言うなればそれは、布一枚。
暖簾の先の桃源郷。
たったのバスタオル一枚で、自らのプライベートゾーンを隠す門倉御前が──僕の眼前にいかめしい様相で立っていた。
仁王立ちで。
「なによ、褒詞でもくれるの?」
違う、三度目を言うが自意識過剰だ。
「何故洗面所というこれ以上なく便利なスペースで着替えを済ませない!?」
「私ってば、うっかり着替えを持ってくるの、忘れちゃったみたい。ふふ、かわいいわね」
「客観的に主観的な評価をするんじゃねえ!」
僕の人生史上最高に矛盾した台詞だった。
「ほら、さっさとどきなさい。駒に馬鹿がうつるでしょう」
「知ってるか、門倉。風邪ってのは、無機物にうつらないんだぜ」
「でもあなた、夏風邪で欠席していたじゃないの」
「僕は歴とした有機物だ!」
そもそもの話、僕は風邪をひいているので馬鹿ではない。
と、信じたいところだ。
大急ぎで幾種類にも渡るボードゲームを片付け終えた僕は、箪笥に向かってくる門倉から逃げるようにして、半ば四つん這いの体勢で部屋を移動する。
『ようにして』というか、明確に逃げていた。
「それにしても、あれだけ言っておいてまさか本当に覗かないとは、大したものだわ」
「それ、褒めてんのか……?」
「ええ、親しみを込めてあなたを《チキン野郎》と呼んでもいいくらいね」
多大なる蔑みを込めて──!
「それは侮蔑だ。大体なんだよ、堂々と覗けばよかったのか?」
「言ったでしょう、そんなことをしやがった暁にはあなたを殺すわ」
人の尊厳と命を天秤にかけんの、やめねえ?
自分の尊厳を大事にするのはいいが、その代わりにくらいの気持ちで僕の尊厳を貶めるのはどうかと思う。
「私の尊厳? それは間違いね。恥ずかしすぎて、うっかりあなたを殺してしまうかもしれないという心配をしているのよ」
「どんな恥辱を味わったらそうなる」
「知っているわ、世論ではこれを《恥ずか死》と言うのでしょう」
それは《恥ずかしすぎて死にたい》の比喩的表現であって、お前のように《恥ずかしい所を見られたので殺人事件を起こします》みたいな、とんでもなくイカれたサイコパス思考を持つ人間のために用意された言葉では到底ない。
「古谷くん、箪笥をいやらしい手つきで触っていたということは、まさか私のTバックを盗んだわけではないでしょうね」
箪笥の上より数えて四段目から下着を取り、僕の視界の端で恥ずかしげもなくするすると着ていく門倉が僕に問う。
「すまん、それは知らない」
「『それは』? へえ、今のは半分冗談よ」
「鎌かけかよ!」
「鎌をかけられるあなたが悪いんじゃないの」
「…………」
まったくもって正論である。
何も反論できねえ。
……半分冗談?
どんな真実と冗談をブレンドしたらTバックになるんだ。
「ねえ、古谷くん。どんな私の下着なら、あなたは知っているのかしら?」
目一杯顔を近づけて訊かれると、ちょっと怖い。
胸元おもっくそ見えてるだけ、幾分マシだけれども。
「……白いノーマルショーツ」
「ああ、あれね」
「……レースが入った、水色のブラジャー」
「それ、最近は付けていないわ。私の身体、成長期真っ只中だから」
「……リボン」
「あなた、一体どんな生き方をしてきたら、リボンを下着だと認識する腐れ脳みそになるの……?」
「お前が下着と一緒に入れてたからだろうが!」
こればっかりは僕、悪くないぞ。
それなりの知識を有する人間なら、箪笥からアホほど長いリボンが出てこようと『ああ、そういう趣味なんだな』でひとまず納得しちまうよ。
「そう、思い出したわ──前に古谷くん、下着の好みについて私に話してくれたことがあったじゃない」
「そんな思い出、僕は知らない」
「あら、じゃあ寝言だったかしら、『好きな下着は紐パンとリボンです』って──あなた、確かに言ったのよ」
……
とんでもないこと抜かしてくれやがったな、睡眠中の僕。
日本史の授業だかで仮眠を取っていたときのことなのだろうけれども、睡眠本来の機能である記憶整理としては絶対役割を果たしてねえだろ。
どこのストレージからそんなワード引っ張り出してきたんだよ、僕は。
「そのこと、お父さんに話したら──『人にはそれぞれの趣向があるから、私は私、その子はその子でいい』と言っていたわ」
あまりに苦し紛れなお父さんのフォローが、余計に僕の心を軋ませた。
まさに恥ずか死。
「しかし、他人の家に上がっておいてこんなことを言うのもなんだが、本当にアナログなんだな……」
そう、門倉の住むこの部屋は、現代らしさというイメージに全くそぐわない六畳半の和室である。アナログというか、もうレトロに近い。
僕も最初、内装を一目見たときは──タイムスリップでもしてしまったのかと思い、何度も目をこすって自身の正常を確認したものだ。
……無論、目をこすっただけで、時間遡行しているか否かを確かめるのは不可能なのだが。
「アナログ? なら、あなたは電話回線の中に住んでいるのかしら」
「それを言うならネットワークとか、もっとあるだろ。そういうのじゃなく、懐かしいなって──思っただけだ」
「あなた、いつ私の家に不法侵入を遂げたの!?」
合法の可能性を端から除外している!
「違う、和室の雰囲気が懐かしいってことでだな──お前の家に既視感を覚えているわけでは、ない」
「なんだ、侵入したんじゃなかったの。残念でならないわ」
何故落胆している。
「住居侵入罪の時効は三年よ、知っていたかしら?」
「それはあれか、僕を牢屋にぶち込む気か?」
「なによ、磔の方がよかった?」
「住居侵入罪はそこまで重罪でもねえよ!」
重かろうが軽かろうが、罪は罪だけども。
ストップ、未成年犯罪。
「冗談よ。古谷くんはそんなことしないと、私は信じているから」
白いドレスシャツのボタンを着々と留めながら、彼女はそう語る。
「古谷くんは、どうなの?」
「え? それは、どういう──」
戸惑う僕に、門倉はシャツの襟元を調えて、
「私のこと、信じてくれているかしら」
冷たい──声で、言った。
……
《信》は、人の言葉。
誰かの言葉は真実で。
誰かの言葉は偽りだ。
君らの言葉は真言で。
僕らの言葉は戯言だ。
信じる者は救われる。
救われて、掬われ、巣食われる。
なら、信じることは《不幸》をもたらすのか。
僕からしてみれば、そんなことはない。
救い合って、掬い合って、巣食い合って、それでも幸せでいられる人間が、僕達だと。
僕は信じている。
望み通りにいかなくとも、言葉通りにはなるだろう。
どれだけ歪んだ幸せでも。
正しくなくとも、間違っていても。
それが《幸せ》であるという事実は、依然として変わらないままなのだから。
──まあ、こんな話は間違いだ。
正しくあれるのなら、彼女達にはそうあって欲しいことこの上ないし──その代わりに僕が間違いで居続けるのだとしたら、それも《甘んじて》受け入れよう。
だから僕は、
「まったく、お前は何を言ってるんだか」
「……?」
「信じない理由なんて、どこにもありゃしないだろ?」
彼女を信じる。
分かつことなき青い糸。
紛い物でも構わない、正しさの蔓延る美しい世界に──その間違いは、僕達を繋ぎ止めている。
「本当、お人好し。そんなのだから─────」
「……ん? 何か言ったか?」
「なに、ちょっとした冗談よ」
そう戯言を吐いてドライヤーで髪を乾かす彼女の表情は、僕にはわからない。
歪んでいるのか、怒っているのか。
泣いているのか、淀んでいるのか。
これだって、どこまでいっても独断だ。
毒々しくて気持ちが悪い。
ああ、僕は─────
「──ちょっと、古谷くん」
「……どうした? 僕なら、特になんともないが」
「『なんともない』ですって? その言葉、もっと顔色を明るくしてから言ってみなさい」
「……考え事だよ、ちょっとした。大丈夫、お前の《お祓い》には、しっかり腕でも足でも貸してやるさ」
「そう──あなたの冗談、信じるわ」
冗談を信じる──か。
ハハッ、意味わかんねー。
「わからなくても、いいの。もう七時よ、早く行かないと──また明日の朝、あなたに会うための準備をしなくちゃならないのだから」
冗談めいた語調で、門倉は言う。
きっと冗談、戯言である。
「へえ、女子ってのは大変だな?」
「あなたに会うから大変なのよ」
……よくわからないもんだ。
外に出ると、冷たい風が前から後ろへ吹き抜ける。
「九月のくせして、やたら寒いな」
「暑いわね」
平然とした顔で言いやがった、こいつ。
「それはお前の身体が原因だ」
「早いところ、あなたと同じ風を感じたいわ」
「……それは、お前の心持ち次第だ」
「何のためにあなたがいると思ってるの、古谷くん」
──あなたも、できるだけ元気でいなさい。
まあ、こんな風も。
真夜中の逃避行にはお誂え向きだと、僕は思った。