007
「……はあー……」
「古谷くん、疲れてるならちゃんと言って。勉強に休憩は不可欠だよ?」
「いや、大丈夫だ。心配させて悪いな」
そういうお前は、十二時間ぶっ通しで勉強に取り組んでいた時期があるそうじゃないか。ちょっと前に風の噂で耳にしたぞ。
翌日、九月十八日。
『一行目からクソデカため息なんて一体どうした』とか、『人の前でため息をつくのはよくない』とか、各々言いたいことはあるだろうが──それはさておき。
本日の古谷欠には、二つのタスクがある。
その一。
「今日は現代文、地理、物理、英語、ドイツ語、フランス語、古代ギリシア語─────」
「待て、待て待て待て待て。おおよそ人間がこなしていい課題の量ではない気がするんだけど、そこら辺は考慮してるな?」
「古谷くんならできるよ!」
根拠ゼロのガッツポーズだった。
前半の学習内容はともかく、最後の三つに関してはどれだけ世界線がねじ曲げられようがテストに出てこねえよ。
とまあ、一つはこの最強委員長、蝙蝠遊との放課後お勉強会(修羅の道)。
そして、二つ目。
「古谷くん、お祓いに行くわよ!」
「……はい?」
図書室の扉が大きな衝突音を立てて開かれ、一人の女子高生が進入──もとい、侵入してきた。
突入と言った方が正しいかもしれない。
「えっと……門倉さんだよね? お祓いって、何のこと?」
突然でもなんでもなく、さも当然のように門倉御前だった。
あなた、昨日『好きなだけお勉強してきなさい(意訳)』とおっしゃったじゃないの。
おそらくだがこいつ、念能力系統は変化系に違いない。
何ちゃっかり《お祓い》とか、含蓄のあることないこと言っちゃってんだよ。先日の僕の気遣い(003参照)を返してくれたまえ。
まあ、これも冗談で戯言──返してもらうつもりなど、毛頭ないが。
「いやあ、それはだな──ほら、僕って結構不幸体質なとこあるだろ? 門倉、僕に憑いてる霊が視えるって言うから、今日は一緒に近くの神社まで行って禊をお願いしようなんて予定を取り付けてたんだよ。な?」
即興で作り上げたが故、なんとも拙劣で破綻した言い訳にはなってしまったが──頼むから、上手いこと口裏を合わせてくれよ。
遊にお前のことを知られるのはいけない。
これは、僕なりの独善だ。
「何ふざけたことを言っているの、古谷くん」
…………
……僕、帰っていいかなあ。
「そういえば、私、昨日のこと聞いてなかったよね──」
それから、遊は僕に目一杯顔を近づけて。
眼鏡が僕の顔に当たってしまいそうなほど、そのまま──接吻でも、できそうなほど。
「古谷くん。きみのこと、私はもっと知りたいな」
その台詞は、全くもってマストじゃない─────!
─────図書室から出た後、門倉御前に脅迫され、事情の秘匿を迫られた僕。彼女の剣呑な様子に気圧され、それを承諾してしまった僕だったが──僕は、彼女が抱える問題の《解決策》を知っていた。
もしかするとの《希望》を捨てきれず、遊を振り切って追走を開始した僕は、門倉に《自身の間違い》を吐露する。
二人で例の《ゲームセンター》へと向かった僕達は、遊もご存知《憑き物プロデューサー》の漫完に問題解決への協力を要請した。
ただ、あまりに突然のプランニングだったため、門倉は予定を合わせることができなかった。やむを得ず、そのお祓いを本日に持ち越し──そして今日の放課後、実行に移す運びとなったのである。
「──と、いうわけだ」
「へえ、だから漫さんに……ねえ、古谷くん。私にも、何かできることはないかな?」
お前がそんなことを言い出すと考えたから、僕はなるべく話したくはなかったんだ。
お前は、蝙蝠遊という人間は──どこまでも聖人で、狂っているから。
誰にでも命を擲って、差し出してしまう。
たった《それだけ》の理由のために。
同じ中学校の出自である彼女達のことを、僕は《化物》なんていとも容易に表現していたが──包み隠さず言ってしまえば、それらは偏に化物だ。
僕と同じく、独善的に、倒錯的に人を助ける。
夏休みのときも、そうだった。
自分のことなど一切顧みずに、お前は僕へと手を差し伸べた。
傷つくと、不幸になると、理解していた筈なのに。
……いや、この話はまた今度にしよう。
「気持ちだけは受け取っておくが、お前の助けは借りられないよ。今回お前にできることは──その、はっきり言ってないんだ」
僕は遊の質問に、割り切って答える。
真に善き人間の意を無下にするのは、やはり少々心苦しい。申し訳なさで胸がいっぱいになるわけは、僕がそれに該当しないからだろう。
「……古谷くんが言うなら、きっと間違いじゃないんだよね。無理なお願いだったよね、ごめんね」
遊は口角をにいっと上げて言う。
「──謝るなんて、とんでもない。その心意気だけで、僕は嬉しいよ」
「そっか、アハハ……じゃあ、私はお役御免かな──二人のことは、二人に任せるよ。ほら、漫さんのところ、早く行かないとね?」
「勉強会は、いいのか?」
「古谷くんなら、優先度としては《そっち》でしょう──なんて思ったからね」
まあ、返す言葉もなかった。
自分よりもまず他人をどうにかしたいというのが、僕の正直なところであり、悪癖である。
……これもまた、間違いかなあ。
「わかった。行ってくるよ、ありがとな」
僕はペンシルプリントその他諸々の物品を床上の鞄にしまい込み、椅子を離れる。
「あら、行くの? 私としては、もう少し《レメゲトン》を読んでいてもよかったのだけれど」
図書室に魔術書を置いたやつは誰だ。読むやつも大概だけれどさ、選出はもうちょっと細かいふるいにかけようぜ。
「……ねえ、門倉さん」
図書室の出入口まで来たところで、門倉に呼びかける遊。
「何かしら、蝙蝠さん」
素っ気のない態度で、彼女は返事した。
「門倉さんは、ありのままの方がいいんじゃないかな。絶対、今よりもっと可愛くなるから!」
そう言うと、遊は陰り一つない笑顔を浮かべる。
僕の脊髄が──微かに、震えた。
ただの微笑みが、ここまで恐怖を感じさせるとは──僕の人生経験にも、決してなかったことだった。
濁りのない、純粋な笑顔。
だから怖いんだ。
人ができすぎていて、つい裏を探ってしまう。
「……そうね、考えておくわ」
門倉御前の無愛想な言葉を最後に、図書室の扉は閉じられた。
……
「──門倉。遊のこと、お前はどう思ってるんだ?」
「オブラートに包まず正直に答えるけれど、それでもいいかしら」
「……ああ、構わない」
「はっきり言って、嫌いよ」
……それは。
『ありのままでいるなんて、あなたの言うほど簡単じゃない』という持論に起因する嫌悪か、もしくは─────
「まあ、所謂ブーメラン現象というやつね。私からしてみれば、『あなたがそれを言うの?』なんて感想しか出てこないわ」
「さっきの言葉は、あいつにも当てはまるって言いたいのか?」
「そんなところよ」
それはつまり、《先刻の蝙蝠遊はありのままの自分でない》と、そう指摘していることに他ならない。
善人で聖人の彼女が、本来の姿でないとするならば──じゃあ彼女は、蝙蝠遊の本性は、一体なんだ。
善人を装った悪人なのか。
それとも──善人でありながら、どこかが違うのか。
僕は性善説と性悪説、どちらの主張を支持するわけでもない。全ての人は善、全ての人は悪というものじゃなく、単純にその両方を生まれつき全員が持っていて──そこから先は、枝分かれするかのように善と悪の道を進んでいく。
無数の分岐点が人生にはあって、善悪の天秤はそのどちらかを歩くことで、如何様にも傾く。
それだけの話だ。
だから彼女は、蝙蝠遊は──いつ何時も《善》の道を歩んできたのだと、僕はそう考えている。
「だけれど、天秤は傾きすぎると壊れてしまう──そうでしょう?」
その通りだ。
だから人はどこかで、必ず別の道を往くことになる。
悪役が時たまいいことをしたり、不良が猫を助けたりするのも、きっと同じ理屈だ。
これから彼女は、《善》の道を歩んだ距離と同じくらいに、《悪》の道を歩むのだと──門倉は、そう言いたいのか。
「私、そこまで考えていないかもしれないわよ」
「いいや、考えてるね。お前は僕と同じく性悪だ、この僕が言う以上間違いは──あるかもしれない」
「性悪? あくまでも今はそうというだけよ、時間が経ったらイイコトするわ」
「なんだか、別の意味に聞こえなくもないんだが……」
──まあ、間違いである僕の言うことなんて。
冗談なんて。
戯言なんて。
何かの間違いに、違いない。