005
「はあ、ここが、漫のいる、はあっ、廃ビルだ……」
「あなた、普段から運動しないタイプでしょう。私にはお見通しよ」
「どんな手のひらの返し方だ!?」
そもそも、僕がこんなに疲れているのは八割方、いや十割方お前のせいだということをわかっていただきたい。
こうして、僕は三十分にわたって必死に自転車を漕ぎ続け(門倉には結局漕いでもらえなかった、この女許すまじ)、道中おつかいを達成するがためにコンビニへ寄り──目的地である廃ビルに到着した。ここの四階にあいつの住まうゲームセンター跡地があるのだが、まあ瓦礫やらクモの巣やらいろんな障害があらゆる手段で行く手を阻んでくるので、毎度のこと階段を上がるのが面倒である。
漫のおっさんにはそろそろ、自慢の小道具とやらを使ってワープポイントを設置してもらいたいものだ──僕も夏休みは人為的なゲートを作り出すことが可能だったのだけれど、今ではまるでできそうにない。
まあ、考えてもみれば、あれだけの力があったってのがまずおかしいわけで。むしろ今の状態が普通であって幸福であるという間違いのない事実を、僕は絶対に忘れ去ってはならないと思った。
「ここがあなたの家かしら」
「違いますけど?」
「ええそうね、ここがあなたの犬小屋ね」
自己完結してんじゃねえ。しれっと僕が犬判定食らってるし、お前の思考回路はどうなってんだよ。
僕の家は築八年の2LDKだ、こんなに朽廃退廃としてる場所では断じてない。
あれか?
果たしてこいつは僕の住処を、コンセプトカフェかなんかだと思ってんのか?
頂いちゃうのか?
一杯頂いちゃうのか!?
「おっぱい頂いちゃう? 古谷くん、見かけによらずいかめしいことを言うのね。まったく、失意の念に堪えないわ」
「誰が言うか、そんなこと!」
見かけによると、僕は紳士的な人間に映っているらしい。
あと、いかめしいってなんだ。
如何わしいだろ。
……
ツッコミどころが多すぎる……
「そうだ、門倉。漫に会う前に、一つやっておいて欲しいことがある」
「ええ、わかったわ。スク水でもバニーでも、何でもござれってものよ」
違う、そういうことじゃない。僕はただ、
「念のため、お前の持っている危険物を全てここに置いていくんだ」
こう言いたかっただけだ。
「……それは、どうして?」
「こんなこと言うのも癪だけどな、あいつも一応僕にとっての恩人なんだよ。そのやたらムカつく恩人に、完全武装したお前を会わせるわけにはいかない──ほら、護身用にいくつか持ってるんだろ。自転車のカゴに入れるんだ」
どうせ、押収してもさしたる意味はないが。
便宜上でも安全を装ってやろうという意図の危険物差し押さえである。
「……わかったわ」
渋々といった感じでカッターナイフを取り出し、カゴに投げ入れる門倉。
「もっとあるだろ」
「……そうね、その通りよ」
左腕の袖に隠してあったらしい、肥後守をカゴの中に突っ込む門倉。
「まだだ、僕の目は誤魔化せないぞ」
「……」
もはや何も言わず、スカートからペーパーナイフを出してサドルの上に置く門倉。
こいつは僕で危機一発ゲームでもしたいのか。刺さるとこ刺さっちまったら、どう責任とるつもりなんだ?
「あー……まだある?」
右袖から、学生服の裏から、胸ポケットから、スカートの裏から、靴の中から、ニーソックスから、下着から、胸元から─────
「これで全部よ」
「お前は曲芸師か!」
結果として、僕の自転車のカゴ(とサドル)には──カッターナイフ、肥後守、ペーパーナイフ、果物ナイフ、テーブルナイフ、ツールナイフ、カランビットナイフ、アーミーナイフ、バタフライナイフ、サバイバルナイフ、スペツナズナイフ──溢れんばかりのナイフが載せられることとなった。
待て、多い。ナイフの種類が多い。
待てと言われて本当に待つやつは絶対にいやしないだろうが、とにかく少し待ってくれ。
「ツッコミどころの次は、ナイフが多いの? まあ、どちらも突っ込むものだから、さして変わりはないのだけれど」
「いいか、門倉。ナイフは《突く》じゃない、《刺す! 殺す!》だからな?」
人を殺せる刃物はあっても、人を殺せるツッコミはねえだろ。少なくとも、僕の知る限りでは。もしツッコミで理論上殺人が可能ならば、きっとその使い手は笑いの神様か何かに違いない。
「あと、これも」
そう言って、門倉は鞄から徐に水筒を取り出すと、僕に手渡した。
「水筒? 確かに殴られたらそこそこ痛そうだが、これは……」
「開けてみなさい」
「……?わかった」
門倉に言われた通り、僕は水筒の──飲み口の部品を外し、中を覗き込む。
「おい、なんだよこれ──!」
僕が驚いて顔を上げたわけは、中に入っていたものの見た目ではなく、その臭い。
鼻腔をつんざくような、人間の防衛本能を刺激する悪臭。
油の臭いがした。
「これって──オイルか?」
「ええ、そうよ」
「……なんで、こんなもん」
「生命維持のためよ。毎日五百ミリリットル、欠かさず飲用する──そうしないと、とても生きてはいられないから」
──死ぬ?
オイルを飲まないと、死ぬって?
こんな、人間にはとても飲めないような劇物を、毎年毎月毎週毎日取り込まないと──生きて、いけないって。
想像するだけで、胃の中を空っぽにしそうな。
内臓が焼けるのに酷似した感覚が、僕の意識を襲った。
ああ──ちょっと、昼飯を戻しかねないな、こりゃ。
考えただけで、気分が悪い。油なんて、それこそ機械の動力源だ。
ブリキの人形。
紛う方なき、間違う方なき──冷鉄少女。
血の通わない鉄の塊。
絡繰小町。
鉄の少女。
「気分を悪くしたのなら、謝るわ。でも、これが事実。冗談なんかじゃない、私の秘密──本当に、不味いったらありゃしない。汚らしい油は飲めるのに、そのくせそれ以外には拒絶反応を示すのよ。全くもって、意味がわからないわ」
意味がわからないのは、僕も同じだ。
夏休み、神に魅入られた僕よりも──お前の方が、よっぽど辛いじゃないか。お前の一年半と、僕の一ヶ月じゃ、まるで重みが違う。
どちらの意味においても──お前は、門倉御前という人間は、あまりに重すぎる。
一度救っただけで、思い上がっていた。
自分が普通でない経験をしたことで、共感を示せると──そう、勘違いをしていた。
お前が僕より悲惨で、僕はお前より楽をして。
こんなの、同情だ。
同情なんて、地獄にいる人間からしてみれば侮蔑にしかなり得ないことを──僕は知っていて、そして憶えている。
忘れるもんか。
だから、僕はお前に寄り添えない。
けして普通ではいられない。
それでも、僕の我儘をお前が受け入れてくれるというのなら、僕は命に換えてでもお前を救おう。
「なあ、門倉。念のため訊くが、その《病気》とやら──心から治したいって、思ってるのか?」
「……そんなの、当たり前よ」
「そうか──ありがとう」
よかった。
これでもう、僕の独善だけじゃない──お前のために、お前を救える。
「時間が惜しいわ、行きましょう」
「ああ」
そうして、僕達は──錆びて破損したフェンスを潜り、草根をかき分け、瓦礫の山を乗り越え、今にも崩落しそうな階段を上り、四階にあるゲームセンター跡に到着した。
毎度ここまで来るのに手を切ったり足を捻ったりするので、やっぱりワープポイントは必要不可欠だと思う。
「事前に言っておくが、実際のところ漫がいるかどうかはその時その時なんだ。あんまり期待するなよ」
「そう。私の貴重な時間を浪費したこと、改稿するといいわ」
「今更書き直せるか!」
後悔はするけども。
つーか、まだいないとは限らないし、むしろいないのはストーリーの進行的に困らねえ?
ここで結果『はい、いませんでした』だったとして、そっからどうすんのって感じだろ。
「古谷くん。私の美しい容姿に見惚れ蕩れ蕩れするのは構わないけれど──そろそろ目を離して、そのゲームセンターとやらに入ったらどうなのかしら?」
違えよ、自意識過剰だ。
……まあ、早く入れというのはごもっともな意見である。老朽化に伴って手動ドアになったのであろう、元自動ドアに手を掛け、開ける。金属が擦れ合う嫌な音が響き渡り、僕は思わず顔をひきつらせた。これ、もう外すのが手っ取り早いんじゃないか。
埃と石の破片にまみれた床を踏みしめ、僕は部屋を進んでいく。周囲を見渡してみると、いつ頃流行ったのかわからないアーケードゲームや、メダルのタワーが堆く積み上げられることで名の知れたメダルゲームの機体、それにお馴染みクレーンゲーム。
「そういや、お前はゲーセンとかよく行ったりするのか? 僕は、最近めっきり機会が減ったんだが……」
「そもそもの話、ゲームセンターに来た覚えが一つもないわ。子供の頃は、ずっと読書かボードゲームに没頭していたから」
なんだ、その高位なお家の嗜み的な暇潰しは。
深窓の令嬢かよ。
「じゃあ、治ったらゲーセンでも行こうぜ。スワンボートもそれはそれだけど、きっとお前が想像するより楽しいぞ」
「ええ、そうね。都合がついたときは、いつでも私の家に電話を繋げてちょうだい」
「家って、LINEとかで連絡入れるのはダメなのか?」
「……?」
さも『なんですか、それ』とでも言いたそうな顔で、首を横に傾げ──訝しげに僕を見つめる門倉。
「いや、だからLINEだって」
「……ああ、電話回線のことね。有線接続インターフェイスにそんな呼び方があったなんて、今年一番の衝撃だわ」
違う。電話回線というのは当たらずしも遠からずだが、しかしそうではない。
まさか、こいつ──LINEを知らねえのか? いやいや、まさかあの絡繰小町が、深窓の令嬢でさえ存じ上げていることをわかっていない筈があるまい。
僕は思い切って訊いてみる。
「……門倉。お前、スマホ持ってるか?」
「そんなの、持ってるわけないでしょう」
……
──嘘だろ、お前……
じゃあなんだってんだ、お前との連絡手段は家の押しボタン式電話機しかないってのか?
冗談きついぜ、おい。
「ま、まあ……ひとまず、約束は取り付けたな。今度、親に頼んで買ってもらうなり何なりしろよ?」
「そうね、自分で働いて買うわ」
──? やけに引っ掛かりのある言葉だが、まあいい。
「さて──おい、漫。いるなら返事しろ、おっさん!」
僕はゲームセンターにいる……筈の漫に呼びかける。
が、当然のように返事はない。どころか、僕の声がやまびこ式で反響して同じ言葉を復唱していた。
「……」
「その漫さん、今日はいないんじゃないかしら。その《らいん》とやらで電話してみたらどう?」
「あいつはスマホ持ってねえんだよ……」
まあ、実のところは住む家すらないというのが漫の生活事情なわけだが。電話回線もありゃしねえ。
とはいえ、返事がないときのあいつは大抵寝ているか別の階層にいるかのどちらか一方なので、僕はまず前者の可能性を考慮し──正面から見て左側にある睡眠専用の空きスペースを窺う。
「……ん? ああ、古谷クンか。あんまり遅いもんだからうたた寝しちゃってたよ、はっはー」
居た。
神様退治の専門家であり、風来坊の憑き物プロデューサー。
派手な色合いのジャケットに短パン、碌に整えてもいない金髪が悪目立ちする彼は──ブロックチェック調の床にビニールシートを敷いて寝転がり、全て見透かしたような態度で僕を待っていた。
僕達を、待っていた。
漫完。
神様祓いのオーソリティ。
「で、眼鏡のお嬢ちゃんの次は赤目のお嬢ちゃんかい?まったく、目に縁のある女の子が多いなあ。きみ、いつか盲目のお嬢ちゃんとかも連れてきそうだね?」
「大して多くねえだろ、たった二人だぞ」
盲目の少女が日本でそう簡単に見つかるとも思えねえし。普通に過ごしてたら、絶対出会わないだろ。
「で、今回はそちらのお嬢ちゃんかい?」
漫は顎で彼女を、僕の隣に立つ門倉を差した。
近くにあった椅子を引きずり、ビニールシートの上まで持ってくると、その腰を下ろす。とことん足癖悪いなあ、こいつ。
「まあ、そんな感じだ。こいつは──」
「古谷くん。私、自分で説明できるから」
代理で事の経緯を語ろうとした僕の口を、門倉は半ば無理矢理につぐむ。
「……きみ、いいね。気丈な子は嫌いじゃないよ、僕は──古谷くんは、果たしてそうかわからないけど」
「変な冗談を言わないで──ください。私は、あなたが私を助けてくれると聞いて、ここまでやって来たんです」
ちょっと敬語を遣うべきか悩んだらしい門倉。
まあ、妥当である。この小汚いおっさんがあなたの病気を治しますとか言われても、鵜呑みにはできないよな。
人は第一印象からとはよく言えたものだが、こいつに限っては第二も第三もさしたる差異などなかった。
「助ける?そりゃ違うね、お嬢ちゃん」
漫はいつも通りの軽薄な調子で言う。
「僕は助けない。あくまできみに憑いてる《神ヰ》を実体化するだけだし、そもそも追い祓えるかどうかはきみの心持ち次第だ。つまり、『きみが一人で勝手に助か」
「待て、ちょっと待て」
口に張りついた門倉の手を引き剥がし、代わりに僕は漫の口をつぐむ。
「なんだい、古谷くん。僕はただ、現状をわかりやすくお嬢ちゃんに説明していただけなのに」
「そうじゃない。説明してくれるのは大変ありがたいんだが、その中に専門用語というか言葉遊びがいっぱい出てくるのはいただけないし──何より『きみが一人で……』の台詞はいろんなポリシーに抵触するから、やめよう」
「ふうん、そうかい。ま、古谷くんが言うのなら仕方がない──どうやら、きみの話を聞く以前の問題が生じてたみたいだね、失敬だったよ」
漫は僕の手を自身の口から離すと、身体を前傾させて言う。
全てを見透かしたような目で、門倉を嘱目しながら。
いつもと変わらない軽率軽薄な口調で。
「さて、それじゃ──僕の話を、聞いてもらえるかな?」